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真冬のアララト山 [旅のこと]

26歳の冬、イランの首都テヘランの中央バスターミナルから、トルコの黒海沿岸の町トラブゾン行のバスに乗った。
その当時はイランイラク戦争の最中で、イランの国内でも検問が頻繁にあったし、イスファハーンに泊まっていたときには、実際すぐ近くに爆弾が落とされ、ホテルの窓ガラスがピシピシピシピシと割れんばかりの音をたててしなった。
イラン国内はそんな状態だったから、午後に出発したバスは、夜になってからところどころでヘッドライトを消してスピードを落として走ったりした。そんな状態だったから、国境に着いたのは真夜中を廻っていた。
明け方までの数時間、エンジンをかけ暖房を効かせたバスの中で待たされ、そして、夜明け直前にバスから降ろされた。
イミグレーションは少し小高いところにあり、そのせいもあってか待合室は底冷えがしていた。
遠くの空が白むのが薄い窓ガラスを通して見えた。眼下に雑木林かと思える黒い何かが広がり、そのはるか向こうに音を立てずに朝が近づいてくる。
少し様子がわかるようになると、雪をかぶった山があった。
アララト山。
地図で見ていたからそうだとわかったのだが、晴れ渡った冬の静謐とした空気の中に遠くひっそりとたたずむ。ゆったりと裾野を広げた白い単独峰。
冬の張り詰めた空気の中であくまでも凜として、高貴でさえあった。

しばらく眺めていたが、出入国の手続きが始まった。
私はアララト山にお別れを言った。







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海外ひとり旅の事件簿(10)クエッタでヤツは目をぎょろつかせて待ち伏せしていた2/2 [旅のこと]

数日後にバスに乗って国境に向かった。
ギョロ目が同じバスに乗っていた。
いろいろあるが、まぁ自然、旅は道連れとなる。

夜も明けきらないうちに国境についた。国境には小さな村があって、旅人相手のお茶屋が開いていた。極寒の中でお茶を飲み、あとはじっとして過ごした。
その頃はイランイラク戦争の真っ最中で、イランの国境入りは緊張するものがあった。バスでとりあえず近場の町、ザヘダンまで行くのだが、その間、10回くらいもチェックがあった。
その時はもうひとり日本人男性がいたので、3人で安宿に泊まることになった。宿に落ち着いて、最初にやったことは両替だった。闇でドルが30倍らしいことがわかっていた。ただ、どこでどうしたらいいかがわからない。・・・時効ではあるが、そのあとのことは省こう。
ザヘダンをでるとき、ギョロ目と僕は一緒だった。
ギョロ目はS本さんといって、結局テヘランまで一緒でそこで別れることになる。ちょうど一ヶ月間一緒に過ごした。
それまで、よく一緒に朝食のナンを買ってきて、部屋で紅茶をいれて飲んだ。(ちなみに、個人的には今まで食った中で、イランのナンが最高にうまいと思う。)そうした共同の食事代などはきっちりと割り勘をした。そんな感じも僕には合っていた。ボール紙で丁寧にチェスのコマと板をつくって、チェスをして遊んだりもした。
イスファハンだったろうか(違うかもしれない)、ある晩やることもなく二人で部屋にいたとき突然電気が消えた。窓から外を見ると真っ暗で美しい夜空が浮かんでいた。ろうそくをつけた。すると、すぐにホテルのボーイが部屋に飛び込んできて、ろうそくを吹き消し、窓から離れろ、という。
何事かと思いながらも言われたとおりにしていると、しばらくして、爆音とともに窓ガラスがピシピシとゆれた。
後でわかったのだが、すぐ近くの総合バスターミナルに爆弾が落ちた。そこは、この町に着いたときに降りたところだった。
そういうことの一つひとつが二人の間でお互いの考え方や生き方や、そうしたことを深く話す機会となった。

S本さんは、今ではとても大切な友人のひとりだ。
奈良の山奥で暮らしている彼の家には何度も世話になった。当時世田谷にいた僕のマンションに奥さんと子どもたちとで泊まりに来たこともあった。二番目の子は女の子でまだ2才か3才と小さく、S本さんとあぐらをかいて酒を飲みながら話をしていると、その子が僕の股ぐらにすぽんと入ってきたのも懐かしい。

あのギョロ目は、クエッタの寒い路上で、他の誰でもない僕を待っていたんだなと思う。




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海外ひとり旅の事件簿(10)クエッタでヤツは目をぎょろつかせて待ち伏せしていた1/2 [旅のこと]

その年の冬、クエッタにいた。
初めての海外旅行が、インドからエジプトまでのバックパッカー撮影旅行だったが、クエッタというのは、パキスタン西部にある町で、当時はパキスタンからイランに陸路で抜けてゆくルートにある町で、イランとの国境まで距離はあるものの、ここから先は町らしい町はない。
余計な話だが、その昔は(と僕が書くのだからだいぶ前のこと、アフガン戦争前だ)、インドからイランに抜けるのには、アフガニスタンを通った。それで、クエッタはよっぽどの物好きでなければ通らないルートだったらしい。まあ、おもしろいルートではなかったということだ。
話を戻す。
絵はがきを少しまとめて買って、お茶屋に足を運んでは絵はがきを書いて過ごしていた。それが終わった次の日の午前中に、郵便局に行って切手を貼って投函した。
ちょっとした一仕事をし終えた感じのさわやかな疲労感と、その日のすっきりとした空気感に包まれてホテルに戻ろうと歩いたいた。
突然、
「日本の方ですか?」
建物のかげからにゅっと顔がでた。ひょろ長く、ニット帽をかぶって、そして何よりも目がギョロッとしていた。いわゆるぶっ飛んでいる感じだった。まずいヤツに声をかけられたと思ったが、仕方がない
「ええ・・・」
彼の話はこうだ。自分はイランに行く(目的地はスペイン)のだが、イランの情報がないので、もし何か知っていたら教えて欲しいということ。地獄からの使者かと思ったが、とりあえず日本人なので放っておくわけにもいかない。
イランに関しては、ものすごく古いガイドブックだったが、それを見て多少はわかっているところもあったので近くのお茶屋に入って話しをすることになった。(古いというのは、そのガイドブックには「ギリシャで所持金が足りないことがわかったら、売血ができる、病院は・・・」そんなことが書いてある。日本語です)

その日は1,2時間くらい話したのだろうか。
おれは、これでこのギョロ目に対して果たすことを果たしたとホッとした。



アフガニスタンに入りかけたところで肝炎を発症してやっとの思いでペシャワールに戻った [旅のこと]

長い旅をしていた20代の頃のこと。
パキスタンのペシャワールには長いこと滞在していた。長居していたのは、僕にとっては居心地のいい、適当に古く、適当に雑然とした町だったからのように思う。(最近ペシャワールに行ったという友人に聞いたら、今も全く変わっていないとのことだった。「全く」を強調していた)
長居していた安宿でジャーナリストのM氏と出会うことになった。M氏はアフガニスタンとのパイプがあって、パイプというのはムジャヒディン側で、ペシャワールで暮らすアフガン難民やあっちとこっちを行き来するムジャヒディンたちにだいぶ顔が利いたようだった。(そういえば、M氏の紹介で知る人は知る田中光四郞さんが拳銃を構えている写真を撮らせてもらったことがあった。話しはそれるが、地雷を踏んでなくなった南条直子さんともこの安ホテルで話したことがあった)
そのM氏からアフガニスタンに取材に行かないかという誘いを受けた。もちろんお金をもらっての取材ではなく、ルートは手配してやるから撮ってきた写真で元を取って、アフガニスタンの現状を伝えて欲しい、ということだ。
僕の知っているアフガニスタンは、尊敬する写真家のひとりである東松照明の『泥の王国』という写真集に凝縮されていた。東松照明のあの視点はなんと言ったらいいのかわからないが、人も風景も暮らす町も、僕の胸には沁みる。(あるときアサヒカメラに載っていた桜の写真が目に入り「あ、東松さんの写真だ」と思って名前を見たら東松さんの名前があったときは嬉しかった)
好んで物騒なところに行きたいわけではないが、そんなアフガニスタンには興味があった。
それで、ムジャヒディンに同行してのアフガニスタン行きを決めた。
みぞれが降り始めた頃だった。
そのころからいまいち体調がよくなかった。風邪気味な感じで、出かけるまでには治さなければと思っていたが、治らないまま出発することになった。
アテンドしてくれるムジャヒディンがいて、彼とバスを乗り継いだりなどなどして、デポに着いた。デポというのは、武器庫というか補給基地というかそのようなもので、実際にはただの小屋にしか見えないが、そこにしばらく滞在することになった。諸般のタイミングをみてアフガニスタンに行くのだ。
デポはどの辺りにあるのか全くわからなかったが、パキスタンとアフガニスタンのほぼ国境あたりで、パキスタン側であったろうと思う。ムジャヒディンたちとそこでしばらく暮らすことになったわけだが、僕の体調は日に日に悪くなっていった。
尾籠な話しで申し訳ないが、ある朝大便をしたら、それが真っ白だった。そんな現実を見て、やっと風邪ではないと知った。
目も真っ黄色いことがわかった。疑いようもなく肝炎だった。このままここにいて治るのを待つか、ペシャワールに帰るか、を選択しなければならなかった。そりゃ、帰る方を選んだ。
帰るといってもひとりで帰ることができないので、最後のバスに乗るまではまた誰かの手を借りなければならない。
悪寒と脱力、最悪な日々だった。
途中までムジャヒディンにアテンドしてもらい、最後のバスを降りペシャワールに戻ってきた。
ひとり、前と同じ安宿にたどり着いたときには、疲れが噴出した。
しばらくバナナと水をとるだけで、薄いベットに張り付いていた。



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トルコのチャイ屋では僕は超能力者だった [旅のこと]



トルコでは、「地球の歩き方」には決して載ることはないだろう小さな町でもよくバスを降りた。
町のたたずまいや、どんなふうに人は生きているのだろうかと思い、いつもいくらかの期待を持ちながら降車したものだった。
明るいうちであれば、何はともあれチャイ屋を探して休む。
田舎の町に限らず、トルコではそこここにチャイ屋がある。トルコのチャイ(紅茶)は、ほとんどの場合小さなグラスのカップに砂糖の多い紅茶がでる。熱い紅茶を受け皿に注いで少し冷まして飲んだりもしていた。
チャイ屋にはたいがい正方形のテーブルがあり、それを囲んで人生の先輩たちがカードゲームをしている。全国的によくやっていたのはセブンブリッジのようなゲームだった。
僕はその隣の正方形にひとりで座り、チャイを飲みながら男たちをなんとなく見る。
ゲームが終わったタイミングで、エクスキューズを入れてちょっとだけカードを貸してもらう。
貸してもらったトランプをシャッフルして一人にカードを「一枚」引いてもらう。
我が輩がそれを当てる。トルコ語でたとえば「ダイヤの8!!」のようにもっともらしく言うと、それを見ていた男たちは「オッー!!」と驚き、歓声を上げる。
もう1回やってくれなどと言われるが、超能力だから1回やるだけでもものすごいパワーを使うからもうできないと言って丁重に断る。決してばれるといけないから、ではない。
男たちはゲームに戻り、僕は僕の正方形にもどりチャイの残りを飲む。

勘定してもらおうとレジにゆくと、店のおやじは手を後ろに組んで首を横に振る。
お代はいらないというのだ。
あそこの人たちが払ってくれた、と嬉しそうにさっきのテーブルを指さす。
男たちのテーブルに行ってお礼を言うと、男たちは口々に「凄かったぞ」「明日も来いよ」などといいながらこれまた嬉しそうにしている。
僕は曖昧な返事と曖昧な笑顔を浮かべて店を出る。明日はもういないと思いながら。





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イエメンの濁流 [旅のこと]

首都サナアのYさんやSさんのところに居候をさせてもらいながら、国内のあちこちに撮影旅行をしていた。

そのときは、昔の南イエメン側、それもだいぶオマーンに近い方に撮影に行っていた。
おんぼろなバスで変わり映えのしない茶色の土漠の風景を、ひたすら東へ向かっていた。路線バスはエアコンなどあるわけなどなく、風がないよりはいいので、熱風を受けながらペットボトルの水を飲み続けていた。
村もないところでバスはゆっくりとため息をつくように停止した。何事かと前方を見るとトラックやバスが列をなして停まっている。
乗客たちはぞろぞろとバスを降りて先の様子を見に行く。バスやトラックや乗用車が30台ほどもずらっとならび、その先には、上流のどこでどれほど雨が降ったのかわからないが、低い地鳴りをたてながら濁流が流れている。川幅は50メートルほどもあったろうか。

ワディ(川、枯れ川)に水が戻ったのだ。枯れ川というのは日本人には少しわかりにくいが、乾季などの雨がない季節には全く干上がってしまい(そうである方がほとんどだが)、ごくまれにこうして流れが戻る川のこと。ふだんは流れがないので、橋を架けたりせずに川底を横切って通る。

濁流ではどうしようもない。流れが退くまで待つしかない。
足止めを食らった人々の多くが、することもなく珍しい濁流を眺めていた。
すると、川の向こう側から、二十歳前後とおぼしき数人の若者が、叫声をあげながら渡り始めた。
それにつられるようにして、こちら側からも向こう側からも若者たちが、おれが一番に渡りきってやると言わんばかりに騒ぎ立てながら渡り始めたのだった。
流れの中程にもさしかからないうちに、若者たちは濁流に足を取られ次々と濁流に流され、あれほど騒ぎ立てていた声も濁流に沈んだ。あっという間のことだった。
流されながらもたまたま岸に押しやられ、近くの灌木につかまることができた者もいた。流された者の中には、見ているうち空をつかむようにあがいていた手が沈み、うつぶせになりそのまま流されていった者もいた。

騒動がおさまり人々がバスに戻り、戻ってきた老人のひとりが
「二人死んだ」と言っていた。

アラビアでは、「水がなくて死ぬことよりも、水で死ぬことの方が多い」という言葉があるやに聞いたことがあった。




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ソーアン、トルコ語でタマネギのこと [旅のこと]

20代の後半ころに、インドからエジプトまで1年間バックパッカーをやっていたことがある。撮影旅行といってもいいが、どちらにしても超貧乏旅行だった。
トルコには3ヶ月以上滞在し、ほぼ一周した。ほとんどは安宿に泊まるのだが、古代遺跡の円形劇場に野宿したりもしたし、カッパドキアの岩に掘られた穴倉に寝たこともあった。学生たちが共同で借りているアパートにしばらく泊めてもらったりもした。

安食堂では大鍋に数種類の料理が並べてある。当たり前だがどれもトルコ料理でトマトベースのものが多く、挽肉料理だったり、ナスの煮物であったりした。日本人には口に合う。
それぞれの鍋ごとにひと皿いくらと値段があって、これくださいと指をさして注文する。それをテーブルの上のかごに入ったパンを適当にとって食べるというスタイルだった。付け合わせとして生のタマネギがつくことがあった。小ぶりで半切りにしてでることが多かった。
なんせ貧乏旅行なので、料理を半分注文したりもした。そうすると、笑顔でうなずいて、ひと皿分盛ってくれて、それで、半皿分の料金を取るのだった。そのうえ、ゆっくりとパンを食えるだけ食う。嫌な顔をされるどころかテーブルのパンを盛りたしてくれたりもしてくれた。
たぶん、付け合わせのタマネギをお代わりする人はほとんどいないと思うが、タマネギをお代わりしたりもした。「ソーアン、ソーアン」と言って、お代わりを頼んだ。はじめのうちはなかなか通じなかったが、それは、発音が悪いことはもちろんだが、タマネギのお代わりをする人がいないという証拠でもあった。だんだんと発音がよくなったようで、スムーズに通じるようになった。(それもいかがなものかと思ってしまうが)
半切りの生のタマネギをそのままかじるのだが、辛い。その辛さが胃を沈め、食を進める感じがしっかりと伝わって、トルコ料理にはいい。

そんなことを思い出したのは、サラダに入れるタマネギを切って、その端っこをそのままつまみ食いしたからだった。タマネギの辛さがそんなことを思い出させた。涙が出そうになったのはタマネギの辛さのせいではない。
トルコではよくしてもらったと今でも思う。







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みずうみコレクション(7)白龍湖 [旅のこと]

私の育った町の外れには、白龍湖という、湖というよりはむしろ沼に近いような湖があった。私の育った町は、南に米沢、北にその町がある置賜盆地という水田が広がる、さほど大きくもない盆地にあった。
盆地であるから、その昔は湖底であったのだろうが、そのまた深いところが白龍湖となって残っていた。
私が小学生の頃は、周りの水田と湖の境が判然としないような状態だった。それよりもまだ10年くらい前だと、谷地船という底の平らなボートに乗りながら田植えをしている写真が残っている。

白龍湖にはヘラブナと雷魚がいた。
湖の一角に小さな桟敷をもうけるようにして売店を兼ねた小さなボート小屋があり、黄色い塗料のはげた貸しボートがつないであった。
小学生の頃、日曜日の午前に、糸と釣り針をつけた一本ものの竹竿に、ヘラブナ用の餌としては定番だった練りポテト(?)をもって出かけたことがあった。子どもだったから、ボートに乗ろうとは思ったこともなく、いつも湖と陸との境だと申し訳程度に木の杭を打ったこちら側からウキを投げた。
白龍湖では、一度たりとも当たりがあった試しさえない。いつもポテトが溶けてなくなっていた。釣れないつまらなさを、腹が減ったことを言い訳に昼前には帰った。
そうやって何度かひとりで釣りに行った記憶があるが、釣りからは遠のいていった。魚は、私には釣れないものだということを学習してしまった。

白龍湖からそれほどはずれないところを国道が通って、上山市、山形市へと抜けていた。その辺りは急な上り坂になり、鳥上坂(とりあげざか)といった。坂上からは盆地が見渡せた。特に山形市の方面から米沢市の方に向かうときには、山間を走っていた風景から一変して、眼下の白龍湖、丁寧な長方形に形取られた水田。それから、天気が良ければ米沢市の向こう側に横臥する吾妻連峰が見えた。空も広がった。

母のことがあった頃だ。一度白龍湖に立ち寄ったことがあった。田舎を離れてから初めてだったと思うので、30年ぶりだったかもしれない。
ボート屋はつぶれ、ボートも浮いてはいなかった。あんなボートでも浮いていないと物足りないとは思うものの、いつまでも谷地船に乗って田植えをするわけではあるまいと思う。
湖と陸の境には茅が生え、湖と陸の縁が明瞭になっていた。そして何よりも、沼のような湿地のような白龍湖は、年老いたように小さくなっていた。
私の思い出を守るためにこの世が存在するわけではない。私の思いとは関係なく流転することをまた知っただけだ。





みずうみコレクション(6)ウユニ塩湖 [旅のこと]

みずうみコレクションといっても、なにか特別な湖や川や海をコレクションしているわけではない。世界遺産を制覇するぞとか、そういったノリでは全くない。ただ個人的に思い出に残ったものをたまに書いているだけだ。
そんなコレクションではあるけれども、ウユニ塩湖はその中でも変わり種のひとつだ。

その夏、ペルー、ボリビアへ1ヶ月半の撮影旅行をした。日本の夏休み(といっても、フリーのカメラマンなので勝手に休んだだけだが。その間、多少仕事をなくした)、南半球では真冬。
ボリビアで一ヶ月くらい過ごしたと思う。町から町へバスで移動するごとに、標高が変わり、緯度が変わり、気候が変わったのを記憶している。
何という町からだったか憶えていないが、(ロンリープラネットのガイドブックを開けば、思い出すのだろうが、そのガイドブックは他のガイドブックと一緒にガムテープに縛られた段ボールに押し込まれたままになっている)その夕方ウユニ塩湖のほとりの町までゆくバスに乗った。ウユニ塩湖とは関係ないが、そのバスはボリビアで乗ったバスの中でもおんぼろで、昭和30年代のおもむきで、窓が閉まりきらないところがあったし、それに、一番後ろの席の真ん中だったから、だいたい想像してもらえると思う。
南半球では南にゆくほど寒くなる。バスは南下していったし、そんなバスだったから、真夜中を待たずにシュラフを出してすっぽりと身体を入れた。
真冬の午前4時頃にバスは小さく地味な町に着いた。

ウユニ塩湖への一日ツアーに参加した。雪原のように真っ白い塩の平原が続くなかをバスは走った。お客さん向けに平原の中で停まると、ガンガンに固まった塩を靴の底で砕いたりした。ほとんど砕けることはなかったが、お土産に少しはもって帰ったかもしれなかった。
塩湖の中に、島のように少しばかり突き出たところがあって、そのひとつに上がって時間を過ごした。そこには巨大なサボテンがあって、なにか珍しい生き物を見るようにして写真を撮った。
http://www.ningen-isan.com/tabisora/pic6.html
帰路についたときには夕暮れ時だった。
http://www.ningen-isan.com/tabisora/pic16.html

みずうみコレクション(5)アラスカの氷河 [旅のこと]

仕事でアラスカをクルージングしたこととがあった。べつに自分で船を漕いだわけではないから、正確にはクルージング船に乗っかっただけだが。サンフラワー号といっただろうか、違うかもしれない。

「クルーズ」という雑誌の仕事だった。日本郵船が所有していたクルーズ船を宣伝したいということで、プレスツアーのうちのひと組で乗せてもらったのだった。
バンクーバーから出航して、アラスカのいわゆる「フライパンの取っ手」といわれる(だったと思う)のところを往復するというコースで、アラスカにしてはだいぶ南部を4,5日くらい航海したのだったと思う。

この船旅のメインは、なんといっても氷河。
狭いフィヨルドに入ってゆくと、いちだんと空気が冷えてくるのがよくわかった。そこをさらに奥まで低速で入ってゆくと、その突き当たりに氷河の断崖があった。「目の前に迫った」とでも表現したいところだが、その氷河の断崖はビルの5階か6階建ての高さがあるので、崩れ落ちたときに近くにいては危険なので近づけないのだ。
そのドッカーン!!と崩れ落ちるかどうかはわからないが、崩れ落ちる瞬間を撮らなければいけないので、三脚に300ミリ、f2.8をつけたF3を立てて構えていた。(300ミリf2.8は、買ったはいいものの、それほど使う機会がなく、使ってみたくてわざわざアラスカまで持って行った)
クリアブルーの巨大な塊が海に帰る瞬間はなんとも言えない迫力があった。船上の観客からはどよめきが起こる。
この頃はまだ地球温暖化のことは話題に上らない時代だったが、振り返って思えば地球温暖化は刻々と進んでいたのだろう。
本当はオプションで別料金なのだが、そこは仕事なのでヘリで氷河の上空を遊覧飛行するというのにも乗って撮影した。
それなりのスピードで飛んでいるのだろうが、それでも白い氷河は延々と続き、所々に悪意を持ってジャックナイフで切り裂いたような黒いクレバスがあった。

コレクションの「みずうみ」とは関係ないことになるが、この仕事をしながら、感じたことがあったので付記しよう。この仕事というのは、サンフラワー号の宣伝になり、クルーズという雑誌の記事としてなり立っているページを作るための写真を撮ること。
人はそれぞれ自分の「ものを見る距離」つまり、対象物に対して自然にとろうとする距離、そういうものがあるように思えた。その「距離」を肯定的な言葉で言えば「感性」とも言えるのだろうが。その自分の感性を信じることはそれはそれで大事なのだが、人に伝えるときには、その決まり切った感性は、平板な伝え方しかしない、つまり、雑誌の誌面になったときに、読者がページをめくるときに、そのページのどの写真にも同じ距離をとって見てしまうので、変化がつかず、写真の善し悪しとは別に、飽きやすいページ構成になってしまう。ということ。今の自分にとっては当たり前すぎることであるけれども、当時は今よりもものを知らなかった。
いまここで書きたいことはちょっと違うのだが、別の機会に続けようと思う。

また違うことなのだが、氷河→流氷→流氷飴、で流氷飴を思い出す。
大学の友人に網走出身のYがいた。
Yがある夏休み明けに、帰省のお土産に「流氷飴」をくれた。どんな味だったか忘れたが、その流氷飴をたいしておいしくない、というようなことをYに言ったのだった。Yはちらといやな顔をして、おまえには二度とお土産は買ってこない、というようなことを言った。
悪気があったとか、なかったとか、そういうことではない。あの時はすまなかった。氷河はとくにこれといったこともなく思い出すのだが、Yの流氷飴はいまだに溶けきらないで胸の辺りにある。

アラスカの氷河からはだいぶ離れてしまった。

みずうみコレクション(4)四万十川 [旅のこと]

四万十川には、仕事でも行ったし個人的な撮影旅行などでも行った。5、6回くらいは行っているかもしれない。
初めて行ったのは「エンジョイ・アクアリウム」という隔月刊の雑誌(今はない)の「水の旅」というコーナーの仕事だった。このコーナーはレギュラーで撮らせてもらっていたが、毎回あちこちの川や湖などにひとりで行って撮影して文章を書いていた。もちろん編集者と打ち合わせをして今回はどこそこへということは決めるのだが、それ以外は全くひとりで自由にさせてもらっていた。
前置きはそれくらいにして。
その仕事で四万十川に撮影に行かせてもらったのが最初だった。
高知でレンタカーを借りて、四万十川の下流から上流へと川沿いを走り、途中あちこちで車を駐めては撮影した。それからまた上流から下流へとくだった。
四万十川には沈下橋という素朴な橋がかかっているのが印象的だった。沈下橋というのは、欄干を付けてない作りで、水量が多いときには橋ごと流れの中に潜らせて流れに対する抵抗を少なくしたものだった。四万十の清流と緑には、文化・風俗を感じさせる沈下橋はよく溶け込んでいた。どうでもいいことだが、この欄干のない橋を車で渡るときは、怖い。
話を川に戻すが、なんといっても圧巻なのが「最後の」とか「日本一の」という形容詞が付けられるその清流だった。
水というのは色や形はなく、その色も形もないものをどうやってどこそこの湖だとか川だとか海だとかというふうに差別化するか、というのは非常に難しい。しかし、それをしないことには水の写真にならなかった。
それで、四万十川では当然ながらその透明具合を写したいと思うわけで、それがまた悩むところなわけだった。

流れの中に腰の辺りまで入りながら釣りをしているおじさんを見かけた。なかなか風情のあるいでたちだったので、川岸から写真を撮らせてもらっていいかと声をかけた。おじさんは
「おー」と、いいよという返事をくれた。
それで、まあ、他に誰もいないからまあいいかと思って、ズボンを脱ぎ、ウォーキングシューズを脱ぎ、靴下を脱いで、下半身トランクだけになって川に入った。(思い出すとかなりみっともない格好だ)
首にぶら下げたカメラ。足の裏には磨いたように丸い小石があたる。転ばないようにしないと。
おじさんの方にいった。すぐ近くまで行って
「冷たいっすね」と話しかけた。
「それじゃあ、冷たいだろう」とトランクスまで流れに浸かった僕を見て相好を崩した。

おじさんは、釣り糸を入れたまま問わず語りに四万十川のことをいろいろと話し出した。上流のどこぞの川岸で採掘が行われたこと、手長エビがめっきり減ってしまったこと。
「・・・昔はこの川もきれいだったけどな、最近は汚れてきてよー」
といいながら、咥えていた短いタバコを川に捨てた。
おじさん、そうやって川にもの捨てるからじゃないの・・・、と思ったが言わなかった。

四万十川では、このことが一番印象に残っている。
川は勝手に汚れてきたわけではない。誰かが汚したから汚れたのだ。
このおじさん、特段悪い人だとは思わない。ただ、魚籠の中の釣果には神経質になるのだろうが、吸い殻の行方には関心がないようだ。
日本のある種の有りようを象徴しているように思えてならなかった。






みずうみコレクション(3)ガンジス川 [旅のこと]

初めての海外がインドというのは、カレーを食べたことのない人が、いきなり激辛10倍カレーを注文するようなものかもしれない。

インド、ベンガル地方の「軽かった」といっていたところが、いつの間にか今は「凝る肩」になっていたが、そこからワーラーナシー(バラナシ、ベナレス、と当時はいっていた)に電車で行き、そこ、バラナシにあった日本人宿に部屋をとった。
その宿はネズミも出たし、何かが特に良かったわけではない。しいて言えば女将さんが日本人で、日本人しか宿泊しないので、比較的治安がよかった。
その3,4階建てのだいぶ年老いたコンクリートの建物は、ガンジス川沿いに、まさに川に面して建っていた。乾季であれば川の水かさも引き、ガートとよばれる沐浴のための川岸の階段がむき出しになるのだろうが、泊まっていたときは、水位が高く建物の真下まで、ホテルを飲み込むようにガンジス川が迫っていた。
ホテルの最上階にあった食事の間の窓から眼下からガンジス川を見下ろすことができた。
日本では、川上から流れてくるものといえば、大方想像がつく。希有なものとしては大きな桃があるが、実際に見た人には出会ったことはない。ガンジス川では、浮くものでお金にならないものが流れてきた。
時折死体が流れ下ってきた。
うつぶせの男の、男とわかったのは睾丸もソフトボールほどに膨らんでいたからだったが、腹部ばかりではなく全体ががぱんぱんにふくれあがって、顔を水面に埋めたまま、それから両腕も力なく頭の脇に放り投げてあった。
その男は、ちょっとした川の流れの具合でホテルにまとわりつくようにして、少し頭の向きなどを変えながら、いつまでもよどみの中にいた。
食事の間から、僕はしばらく青黒く膨らんだ男を見ていた。

泊まっていたある日、釣り竿それからテグスに針を持っていることを思い出した。
道具を持って川岸に出てはみたものの、どんな仕掛けだったかも覚えていなかったし、だいたい、餌もなかった。
と、ちょうどそこに木製の小舟が漁から戻ってきた。舳先の方に乗っていたじいさんに道具を見せて、どうしたらいいか聞いた。
じいさんは、釣り竿を一瞬いぶかしく見はしたものの、そこは漁師でどれどれと仕掛けを作って、最後に船底に飼っていたのか寄生していたのか、生きたゴキブリを取り出して針につけ、その辺に放り込んだ。
あっという間に釣れた。
のは、大きなナマズだった。
じいさんはそれをくれたので、ホテルに持って帰って日本人の女将さんにやった。
女将さんは、
「カレーにしようかしらね」といってもらった。
宿の食事にするほどの量はないので、宿泊客には出なかった。
台所近くを僕が通りかかったときに、ナマズのカレーを作ったから食べないかといわれた。
僕はもらわなかった。


みずうみコレクション(2)カスピ海 [旅のこと]

パキスタンのクエッタという町からバスに乗ってイランに入ったのだが、そのとき同じバスに乗り合わせた日本人ひとり旅のSとテヘランまで同行した。
イラン・イラク戦争中だったことがあって、テヘランまでたどり着いた頃には、彼はストレスがたまり一刻も早くイランを出たがっていた。僕もストレスはたまっていたものの、カスピ海を見てみたいと思っていたので、そこで別れることになった。
最終的には、彼がトルコまでの長距離バスに一日早く乗った。

そして、次の日僕はカスピ海までのローカルバスに乗ることになった。
テヘランからカスピ海までは、何という名前だったかそこそこ高い山脈を越えてゆく。
峠を越えテヘランの向こう側を下り始めると、快晴の乾いた空気から一変して、空気が全体に白っぽく重ぼったくなってきたのを覚えている。
二月か三月の寒い季節だった。
海岸のどのあたりでバスを降りたのか全く覚えていない。小さな村だったような印象があるのは、すべてがもやに包まれていたからかもしれない。

バスを降りると、カスピ海まではすぐだった。
そこは、たまたまそこは、小石と砂とが緩い弧を描き、遠浅から透明で小さなさざ波が寄せては小石と砂に吸い込まれていた。
形のわかるものはそれだけで、すべては深いもやの中だった。
太陽の方向も全く見当がつかないほどに深く閉じ込められた世界だった。
浜を、どちらにということもなくふらふらとしていると、もやの遠くから手こぎボートのきしむ音。そして、櫂から飛び散る水音。そして、話し声が聞こえてきた。漁師だろう年老いた男たちが何かしら言葉を交わしている。もちろん何を言っているのかわからない。
そのなかで、ただ一語わかったのは、
「ハラショゥ!!」
ここはもうそういう文化圏なのだなあ、と思うとずいぶんと遠くに来たものだという感慨があった。
そんな感慨を別にすれば、僕のカスピ海はもやに包まれ、その大きさを想像することもできないままだった。

僕には海がわからない。
日本海を海だと思っていたし、太平洋も海だと思っていた。生まれ育った町の外れには白龍湖という「湖」があって、それは周りを囲まれているので、当たり前のことながら湖だった。
たぶん、小学校の3年か4年のころだったのではないだろうか、世界地図にカスピ海を見つけ、白龍湖よりはだいぶ大きいだろうが、それでも陸に囲まれたこの湖を
「なんでこれが海なんだべ・・・」
と不思議に思いながら地図に見入ったことを覚えている。
ちなみに今の僕には「海」は大きな水たまりかな。











みずうみコレクション(1)前書き [旅のこと]

僕は海から遠く離れた盆地の町で生まれ育った。
生まれて初めて海をみたのは、いつかは覚えていない。
高校生くらいからだろうか、海に対するあこがれは強くなったように思う。それが理由で海岸沿いにある市の大学に行ったわけではない。(入ることができるところが限られていただけだった。その大学でなければ琉球大学を受けるつもりだった。……関係なかった)
その市には港もあったが、千代の浦という浜があって、・・・それもコレクションしているので、いずれ書く機会があるかもしれない。
気がついたら、という言い方で大きく間違いはないと思うのだが、海や湖や川の、そういった水たまりの仲間のようなものを、心の中でコレクションしていた。メモしておいたわけではないし、ただ思い出・印象としてなんとなくコレクションしていただけが。
それをいつからか僕は「ミズウミ・コレクション」と名付けていた。

コレクションの趣味はない。といいながらも海外から帰るときに、その国の使いそびれた小銭を持って帰って何となく集めている。その国の文字で書かれているものは、ほとんどどの国かわからなくなっている。ブータンの神社で古銭を拾って、ガイドのにーさんにどうしよう?と聞いたら、「大丈夫、もらっときな」といわれ、そのままもっている。この一枚も布袋の中に混じってある。
外国の切手を少し。国によっては全くおもしろくないが、チェコスロバキア(当時)の絵柄の素朴さと紙質の悪さ、それに吐きそうになるくらいの質の悪いのり。そんなこともコレクションしていた。
それから、エアラインのシルバーも集めていた。今はどの航空会社もファーストクラスは別にして、フォークとナイフはプラスチック製だとか聞いた。もう二度と乗ることのないエアラインのシルバーもだいぶ持っていたが、以前沖縄に引っ越したときに友人に分けて手元にはほとんどない。誤解ないように付け加えると、勝手に持ってきたのではなく、ちゃんと了解をもらって頂戴してきたものばかりだ。

僕のミズウミ・コレクションは、たとえば埃をかぶったジュークボックスのようなものだ。何かの気まぐれで針を落とすことがあると、ひとりその時代のその世界に帰ってゆくことができるような、僕にとってはそのようなものかもしれない。
久しぶりにコインを入れて……。まだ動けばいいのだが。






ボリビア、コロニア・オキナワにて [旅のこと]


過日とある印刷物に載せたものを、転載したいと思う。ボリビアの日本人町としては、コロニア・サンファンというところもあって、そこでも移民1世の方にはお世話になった。衛星放送があって、リアルタイムでNHKを見ることができた。衛星受信できないところの奥さんが、夕方「朝の連続テレビ小説」を見に来ていた。

・・・・・・・・・・・・

もう20年も前のことになってしまうが、ボリビアのコロニア・オキナワというところを訪れたことがあった。その名の通り沖縄からの移民が築き上げた町。
移民一世の方々は大方80歳前後となり、やるべきことは既にやり遂げ、そして、当時はゲートボールに打ち込んでいた。
午後の3時きっかりに集まり練習開始。時間を計り俊敏にボールを打ち、てきぱきと次の人に代わる。背筋のピンと張ったウチナンチュたち、全南米大会でも指折りの強さだというから驚きだ。
そこで知り合った大城さんにお誘いを受けてご自宅にうかがうと、早速度数の高いお酒が出され、大城さんの苦労話や笑い話を肴に過ごした。
夜も更け酔いも回ると、大城さんは三線を取りだしてひとり弾き始めた。三線の音は異国の夜に吸い込まれてゆく。目を閉じながらも指はなめらかに動き、哀切な弦の響きが流れ続けた。
地球の裏側の故郷をどんなふうに思いながら三線を弾いていたのだろうか。







海外ひとり旅の事件簿(9)デングフィーバー!! [旅のこと]

「フィーバーする」などというのは、死語になったのだろうか。
最近の言葉たちは寿命が短くて・・・。もっとも、4000年前(?)のメソポタミアのくさび形文字を解読したら、
「最近の若者は言葉が乱れている」
などとも書いてあったのだそうだ。そういう意味では、言葉は常に変化し続けるもののようなので、言葉の寿命が短いというのも不思議でも不自然でもないだろう。
最初から道草を食ってしまった。

サモアの首都、と書いて思い出せなかったのでちらと調べた。そうそう、アピアだった。
僕はアピア滞在中にデング熱にかかった。(いまさら知恵熱でもないだろうから、まあ、間違いない)
泊まっていた安宿は、町の中心から歩ける程度の町外れにあって、のんびりしたところだった。(アピア全体のんびりしているが)町の中心からアスファルト道路をしばらく歩いて宿に帰るのだが、宿の手前50メートルほどだろうか、小川が流れ丈の低い茅が生えているところを通る。
そこで何度かさされてしまったのだ。
安宿にはイギリスの医学生の団体が研修で泊まっていた。その医学生と相部屋だったのだが、僕が熱を出して寝込み始めると、彼は大丈夫か、とか心配してくれはしたものの、心配するよりもうつされないか心配だったのを隠せず、彼がいる間蚊取り線香を絶やさないようにすると、それはベリーベリーグッドだ、と何度も言っていた。
人にはそれぞれ旅の道具が違うわけだが、僕にとっては南方旅行の必須アイテムにキンチョウの蚊取り線香があった。(イギリスには蚊取り線香はあるのだろうか?)
イギリスの医学生は20人ほども泊まっていたので、相部屋の彼は、仲間の部屋に遊びに行っていることが多く、部屋にはほとんど寝に帰るだけだった。デング熱にうかされた男と一緒にいたくないのは当然だ。
僕はうかされながらも「時間が経てば大丈夫」という確信があった。(根拠のない確信というものだろうか)
それで、熱にうかされながらもとにかく寝て、日中に一度、近くの中国系のおばさんがやっている雑貨屋に食料を買いに行って、帰ってまた寝て、ということを一週間くらい繰り返した。それで何となくもとにもどった。
デング熱は、マラリアに比べれば遙かに致死率は低いが、死なないわけではない。
この時はまだ母は生きていたので、母が僕がこんなことになっていると知ったら、心配で心配で心配でたまらなかったことだろう。

今書きながら、どうしてマラリアではなくデング熱と確信したのだろうか?と思う。事前に読んだガイドブックにデング熱の汚染地域と書いてあった印象が強かったのかもしれない。マラリアの汚染地域でもあるはずだと思うが。

イエメンにいたとき、マラリアで入院した日本人旅行者を見舞いに行ったことがあった。見舞いに行ったときには容態は落ち着いていたが、話を聞くと、本当に死んでしまうかと思ったらしい。
マラリアは地域によって千差万別ある。日本で予防薬を買ってゆこうと思っても、合うかどうかわからないので、買いようがない。だいたい、日本ではマラリアの薬を買うこと自体かなり面倒くさい。
短期間であれば「ダメ元でこれ飲んでおこう」ともできるが、マラリアの薬は身体に負担が来るので、長い旅をしているとむやみに飲みたくはない。

話が蚊の飛ぶようにあちこち行ってしまっているが、知り合いの沖縄のねーねーと話をしていると
「あの、筋の入った蚊、いるよー。昔からいるさぁねぇー」
という。ヒトスジシマカ、のことだろう。本土にもいることはいると思う。
もちろん沖縄でもデング熱はなくなっていることになっているが、
「免疫があるのかわからんけどよ、罹ってもわからんのと違うかねぇー」
とのこと。そのあたりは、僕としてはコメントしようがない。
口蹄疫、鳥ウイルス、マラリア、狂犬病、PM2.5、・・・。直接目に見えないものは恐ろしい。




海外ひとり旅の事件簿(8)ラサ、高山病は大変危険です [旅のこと]

成都に一週間も泊まっただろうか、その間にチベット、ラサまでの安チケットを探した。
ちなみに、成都では本家本元の麻婆豆腐屋にいった。本家の麻婆豆腐は辛い。辛いというのは、とうがらしではなく、山椒の辛さなのだ。知らないものだから大盛りを頼んでしまい(ご飯はお代わり自由)、汗だらだらかきながら何杯ご飯をお代わりしたことやら。
汗のかきようが半端ではなく、まわりの中国人家族から笑われてしまう始末。

閑話休題。
チベットに入るには、その時々の中国政府の裁量で、自由だったり、グループでなら入っていいとか、全くだめだとか、・・・そんなことが普通な時だった。(いまはどうなっているのだろうか・・・)
僕が行こうとしたタイミングでは、グループ旅行可、だった。それで、旅行代理店がツアー旅行を企画しバックパッカーに売るということをしていた。もっとも、今の日本では当たり前のシステムだが。
そんなチケットで成都からラサまで飛んだ。

また話がそれるが、飛行機のとなりの座席に座ったヨーロッパ人のバックッパカーの彼は、映画「SEVEN YEARS IN TIBET」を見て、それで憧れてチベットに行こうと思ったのだそうだ。そんな話を目をうるうるしながら話してくれたのだった。
その彼にしばらくしてからラサの町中で出会ったが、「チベットはどう?」と聞くと、ちょっとへちゃむくれなペコちゃんのような顔をして「まあまあ……」と答えただけだった。
人の体験はそれぞれだ。

閑話休題。形ばかりのツアーながら唯一ツアーの体をなしていたのが、ラサ空港からラサ市街までツアー用のマイクロバスが手配されていたということだけだった。
僕はわざわざマイクロバスの助手席に座った。思い返せば、すでにハイだった。兆候は出ていたのだ。
一応ツアー用のマイクロバスではあるので、マイクがあった。コンダクターに使っていいかと聞くと、スイッチを入れてくれた。僕は重いマイクを手にして
「レディーズ、アンド、ジェントルメン、ウエルカム、トゥ、ティベット!!!」
とかなんとか大声で言ってマイクロバスの中を頼まれもしないのに盛り上げていた。
この段階で重体だと気がつかなければいけなかったが、由もなし。

ラサの町に着いた。忘れていたが、もうひとつツアーらしかったのは、最初の3泊が決まっていたこと。そのホテルの前でマイクロバスを降り、部屋に案内されると、後でわかることだがラサの中で一番賑やかなところだった。
荷物を置いてさっそくお茶でもとおもい、トラディショナルなお茶屋に入った。
たまたま入ったそこは、なかなかいい感じの店で、チベットのおっちゃんたちのまねをしてミルクティーだったかを飲んでいた。
疲れが出たのだと思った。頭が重くて痛い。全身もなんだか脱力状態だ。そのあたりで、ひょっとして高山病かと気がつく。遅すぎだ。

ホテルに戻る。ベットに横になるが、ここで不運に気がつく。町の中心、とにかくやかましい。それに日が入って部屋の中は暑い。頭を抱えたまま脂汗がだらだらだ。どうにもしようがない。
と、そこで、いいことを思い出した。
たしか、酸素を売っているらしいことを聞いていた。テーブルコンロに使うくらいのボンベに入っていて、それを使えば楽になるとかならないとか。
頭は割れんばかりにズッキンズッキンする。全く力が出ない。それでもこのあたりだったら薬屋があるはずだからと外に出た。
言葉も通じずにどうやって買ったのかわからないが、薬屋を探して買った。この国の物価にしたらえらい高かったが背に腹は変えられない。

ホテルの部屋でボンベを包んでいる薄いセロファンをやぶり、付属の口あてをあててシューシューした。
楽になる(気がしただけかも)。助かった!!!と思う。
思うまもなく、あれれ、もうなくなっちゃたの?1分も使ったか使わないうちにだった。
このがっかり指数のメモリは振り切れた。ブースカが言えば「シオシオのパー〜〜」というか。高山病も忘れてしまうくらいだった。(忘れられないけど・・・)
とにかく、どうしようもない。せいぜいが、水をたくさん飲むことくらいだ。クラクションのよく響く暑い部屋。ここで横になっているしかないのだ。痛い頭にはクラクションが脳髄まで響くようだった。

どうやって過ごしていたのかわからない。
たぶん果物などを買って食べていたのだろう。ロビーの方が静かで涼しかったから、なるべくロビーにいたような気もするが、そこはそこで、話したりするのも辛かったから、元気な日本人に話しかけられたりするとこれまたしんどかった。それに横になれなかったし。
どうしても横になりたいときは、クラクション地獄へ帰って横になった。早く夜にならないかとそれだけを思って、頭痛と闘いながら昼を過ごした。
SEVEN DAYS IN TIBET 、一週間くらいで強烈な頭痛からは解放された。しかし、本調子に戻るにはまだまだ日にちを要した。

後日の話になるが、
東京で車に乗って仕事に行く途中だったか、ラジオのニュースで、
「××石油の○○さんが、△△山で高山病で死んだ」
というのを聞いて驚いた。○○さんは旅先で出会っていろんな話をしたヤツだったから。(合掌)

おまけなのだが、
高山病にはバファリンが効く。(あくまでも個人的な感想です)どうしてかというと、薬の成分的にはわからないが、人体実験をしたから。この実験は、チチカカ湖のあたりに泊まっていたときにやった。あくまでも個人的な感想で言えば、3割くらい楽になる感じがした。もちろん、彼のように生命の危機がある場合には効かないだろう。痛みを和らげるという効果という意味で。
これもついでだが、僕はほかにインド、ラダック地方のレーでも高山病にかかったことがあった。
高山病対策として一番いいのは、高いところに行かないことだ。
だが、ことわざにいう通り、どうしても高いところに行きたがるようだ。






海外ひとり旅の事件簿(7)カイロのレシート偽造屋 2/2 [旅のこと]

で、その偽造屋がホテルに戻るのを待って、彼の部屋に相談に行くと……

額面はいくらでもいいから銀行で両替をしてそのレシートを持ってくるように、偽造の料金は書き込む額面の何パーセントと決めてある、ということだった。
書き込む額面を決めるために、まず、安いフライトを探さなければならない。今ならネットで検索をするのだろうが、当時は一軒一軒旅行代理店をあたるしかなかった。
数件ほど聞いてゆくと、料金はどこもほとんど同じようなものだった。しかし、一店だけ特に安い旅行代理店があった。他店と比べて格安というわけではなかったが、安かった。どうしてその代理店だけが安くできるのだろうと考えると、僕はちょっとしっくりこないものがあって、それでだいぶしっかりと間違いないか確かめた。代理店の人は満面の笑顔で間違いないという。
そのチケットを予約して、10ドルほどだったろう、銀行で両替をしてレシートを偽造屋の彼の所に持って行った。そして、その安いチケットを買うのにちょうどいい分の額面で偽造を頼んだのだった。

数日後に偽造のレシートを取りに行き、偽造屋に支払いをした。偽造屋はアラビア語が堪能なのだろう、きれいな(たぶん、きれいな)アラビア文字で書き直されたレシートを僕にくれた。
次の日、早速そのレシートを持って、チケットを受け取りに代理店にいった。
そして僕は無事に日本までの帰りのチケットを手に入れた。

数日後、観光とショッピング(自分にはなんと似合わない響き!)から安宿に戻ってレセプションに行こうとすると、レセプションでオヤジが、きつくネクタイをした身なりのしっかりした男二人に「彼だ」といった、ようだった。
そして、二人はレセプションで鍵を受け取ろうとする僕を呼び止めた。
汗をだらだらかいて帰ってきたから、それ以上に汗が出たのかどうかはわからない。ひょっとしたら、汗が引いてしまったのかもしれなかった。覚えていない。この異国でいったいどうなってしまうのだろうと思うと、心臓がばくばくした。ばくばくしているのに生きた気がしないのは不思議だ。
この国では、拘留されるのだろうか。それなりの額のバクシーシ(袖の下)で済まそうとするのだろうか、それともそれ以上のことが起こるのだろうか。

「エジプトエアーの者ですが……」
といわれ、どういうことが起こるのかわからなかった。少なくとも僕が確信したポリスではなかったのは救われた感じだ。しかし、悪い知らせには違いない。
スパイ感たっぷりの二人の話はこうだ。
あの旅行代理店で発行したあなたのチケットは、代理店の間違いで無効なものなので、プラスいくらいくらを支払ってほしい、ということだった。
どうりで安かったわけだ。
ちょっとだけほっとしながらも、オー・マイ・ブッダ!!!とかおおげさに驚いたふりをしたあげく、それは僕の責任ではないし、代理店が支払うべきではないのか、とかとか、スパイの二人に食ってかかったように思う。
こういうのを、盗っ人猛々しいというのだろう。……すいませんでした。
エジプトエアーの人が言うには、どうしてもプラスいくらいくらのバンクレシートが必要なのだと。
聞いていると、決まりである以上きっとそれを出さないことには、彼らとしてもどうにもならないのだろうと思えた。
で僕は、被害者感たっぷりな感じで折れた。そして、内心助かったと思った。
そして、また偽造屋に行かなければならなかった。

偽造屋にはなんと言ったか覚えていないが、代理店の間違いで被害を被ってしまって、追加で偽造をお願いしたい、ということを言ったのだろう。代理店の間違いというのは、それは嘘ではなかったし。
で、偽造屋の兄さんの所に書き直されたバンクレシートを受け取りに行くと、兄さんは、大変だったね、お金はいいよ、と言ってくれた。
この偽造屋の兄さん、なんだかいい人だなあと思うと、じ~んときた。

で、この2枚目のバンクレシートを持って、今度はエジプトエアーの本社ビルのカウンターに行った。スパイのようにして安ホテルに来た彼が出てきて、今回はいろいろ申し訳なかった、というようなことを言った。そして、バンクレシートを受け取って手続きを始めた。
彼はチケットを持ってカウンターに戻ってきた。いまとなっては存在しない昔ながらの赤いカーボンの複写式のエアーチケット。彼はチケットを僕に渡しながら、確認してくださいといい、それから、他に私にできることはないですか、と日本語に訳すと変だがそんなことを笑顔で言った。チケットは今度こそ完璧だったし、スパイにお願いすることは他になかった。
アイコンタクトで、お金はいいですよ、というとがわかったし、むしろ、他に人がいるここでは口に出してはいけない、ということもわかった。
なんだか、このスパイもいいやつ~。

というわけで、どうにか帰国の途についたのでした。
ついでのおまけに、……
帰国当日、ほぼ満席のエジプトエアーに乗った。
思い起こせば、この旅の最初は日本からバンコック行きのエジプトエアーに乗る予定だった。ところが、その飛行機が機体不良のために一日遅れるということになったのだった。バンコックからの乗り継ぎはインディアンエアー(エアーインディアかな?)だったから、いろいろな融通が利かず、成田のあのだだっ広い中をあっちこっちに行って、どうにかインディアンエアー(?)を一週間後の便にずらしてもらったのだった。(それで、エジプトエアーのNさんにとってもお世話になることになった。これもある意味事件かもしれないので、後日書く機会があるかもしれない。ないかもしれない)
思えば、それが旅の始まりだった……。

で、窓際の座席に着くと、どうもリラックスすぎる。で、おかしいなと思ってリクライニングが倒れていることに気がついた。直そうと思っても直らない。壊れていた。
スチュワーデス(当時のいいかた)にその旨をいうと、たぶんエジプト人の彼女は
「大丈夫、大丈夫」
と白い歯を見せていう。
大丈夫じゃないと思うけど。
彼女がそう言うのだからとそのまま乗ったが、実際離着陸のときはちょっと違和感があった。それで、インドネシアだったろうか、クルーが入れ替わって、離陸前の点検。
で、スチュワーデスが
「リクライニング直しなさい!」
と怒る。
まったく!!と思う。(沖縄の人だったら「だからよ」というのがぴったりなところ)
エジプトエアーにはいろいろお世話になりましたよ。

海外ひとり旅の事件簿(7)カイロのレシート偽造屋 1/2 [旅のこと]

クフ王のピラミッドに登ったことについてはすでに書いた。
このときの旅は、ピラミッドのてっぺんに登って記念写真を撮ることが目的だったから、それが達成された時点で、まっすぐに日本に帰ろうと思っていた。何よりもお金に余裕がなかったし、それに、疲れていた。
ということで、帰りの安チケットを探すことが懸案事項だった。

カイロのどの辺りに泊まっていたのか全く覚えていないが、町中のやかましいところにある大きな安宿に泊まっていた。
そこには日本人もよく泊まるのだろうと思うが、オーナーか雇われの番頭かわからないが、背の高い斜視の中年オヤジが、僕がレセプションを通るたびに「日本の女の子はと~ってもかわいい!!」とアラビア語と英語を混ぜこぜにしていうのだった。笑い過ごして聞いていたが、通るごとに必ず聞かされ、いい加減うんざりだった。もっとも、それは事件ではない。
話がそれた。

その安宿には、そこで暮らしている外国人も何人かいた。
その中の、あるユダヤ系(だったような印象だが)の20代の男がバンクレシートの偽造をしてくれるという情報をつかんだ。
どういうことかというと、当時のカイロ(エジプト)では、合法的に市中に両替商がいて両替ができた。銀行に比べてレートがいいからそのようなマーケットができるわけだが、どのくらい違っていたのか覚えていない。3割くらい違っていたような気がする。仮にそうだとすれば、たとえば200円の定食が140円くらいになるということだし、20万円のエアーチケットだったら、14万円で済むことになる。
カイロの町中で「世界標準よりも全体的に3割引」というのはそれでやり取りが成り立ち問題はないのだが、どっこい、国際的にやり取りをするエアーチケットの値段はぐしゃぐしゃになってしまう。というわけで、エアーチケットを買うには「銀行で両替したお金です」という証明が必要だった。つまり、国際線のチケットを買うには、その額面分の銀行で両替したレシートを提出しなければならなかった。
時効なので告白するが、僕はホテルに住んでいる彼に偽造を頼み、そのニセのバンクレシートでチケットを買った。事件を起こしたのは僕です。エジプトエアーさん、すいませんでした。(よい子の皆さん、決してまねをしないでくださいね)

で、その偽造屋がホテルに戻るのを待って、彼の部屋に相談に行くと……

海外ひとり旅の事件簿(6)九龍城砦で麻薬パーティー??? [旅のこと]

今はなき香港の九龍城砦。
香港には一度は行ったことがある。二回行ったような気がしないでもないが、だとするといつだったのだろうか、と思うと心当たりがない。きっと一度きりだったのだろう。

中国に入るために、香港に一週間くらい待機していた。
そのころ中国からいわゆるボートピープルが密入国してくるのが大問題になっていた。それで調べてゆくと中国南部ベトナムに近い地方から船が出ているということがわかって、具体的な町、港もわかり、そこに取材に行こうということになったのだった。もちろん僕がそんな町を探し当てたわけではなく、その取材を企画したジャーナリストからの依頼だった。ちなみにTBSの「ニュース23」という番組の仕事だった。

香港でとりあえず僕がしなければならないことは、ちゃんとビデオカメラを回せるように練習することと、ビデオカメラをあまり目立たないようにする入れ物を工夫して作ることだった。
それは程なくすみ、待機の間に九龍城砦にタンケンに出かけたのだったろうと思う。

ネットに載っている画像をいろいろと見てみると、どなたか存じませぬが、こちらの御仁のページの写真が僕の記憶のイメージに近い。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/kyuryu/kyuryu1.html
で、薄暗く狭い通路の上は、むき出しの電線が何十本ととおり、その電線の垂れ下がりのところから何の汚水か、たえず汚水がしたたり落ちていた。こんなところでは人に出会うのは恐ろしい気がする。かといって、全く人に出会わないのもまた気味が悪い。
何人かすれちがったりしたかもしれない。よくは覚えていない。

僕は電線汚水の雨宿りをしながら、どっちに行こうかとか考えていたのだろうか。
たまたま通りかかったの20代だろう若い男性が「どうかした?」というように話しかけてきた。
どういう成り行きだったのだろうか、確かに彼は
「いまからお祈り会に行くところだけど、よかったら一緒に来ないか」
と、僕を誘ったのだった。
さすがに一瞬考えてしまったが、それでもすぐについて行くことにした。
すぐ近く、入った部屋はほとんど何も置いていない真っ白い空間だった。外の電線雨の通路からは全く想像できない。
何人かの若い男女がすでに集まっていた。
かなりやばい気がした。どうしてそう思ったのかはっきりはわからなかったけれど。その「やばさ」を、たとえば「そこにいる人たちが・・・」というのもしっくりこないし、「部屋の作りが・・・」というのもしっくりこない。「雰囲気が・・・」としかいいようがないのだろうが、どう見ても一般的なお祈りを始めようという感じではなく、秘密のお祈りというか、秘密のお祈りのようなものというか、そんな感じが伝わってくる。
この部屋が「お祈り」をするために「幸せになる何か特殊な煙」に満たされてゆくような、そんなイメージが浮かぶ。絶対間違いない。・・・きっとそうに違いない。・・・そうかもしれない、かな。
僕はあいかわらず所在無く立っている。
ちょっとして、司教か坊主か神の御使いかボスかわからないが、そんな男が入ってきて(といってもやっぱり若いのだが)、それに気づくなり、僕を連れて入った彼は、すすすと近寄って何か言った。事情を察したたぶんボスは、つかつかと僕のところに来て、
「折角だけど、初めての人にはちょっと遠慮願っているんだ・・・。悪いね」
というようなことをいった。
よかった、これで出してもらえる。
僕も失礼をわびて、電線雨の通路に出た。こんな電線雨が懐かしく思える。
いつも母に言われたことを忘れてしまう。
「知らない人にはついて行くな」

それだけのことだった。事件は起こらなかった。

書きながら思い出したのだが、香港には、二回行っている。
というのは、香港から中国に行って撮影をして、その帰りまた香港に寄っているからだ。
中国での仕事は、とても緊張するものだった。だから、行きの香港と帰りの香港では、全く違う街だったのだ。
だとすると、帰りの時に九龍城砦に行ったのかもしれなかった。
また思い出した。入社案内パンフレットの撮影でKさんと行ったな。屋台が並ぶ有名なところで軽くぼられたっけ。

海外ひとり旅の事件簿(5)催涙ガスって、こうなんだ [旅のこと]

こうして「海外ひとり旅の事件簿」シリーズを書いていると、本当に危ない思いをしたのに、よくまあすっかり忘れていたもんだと思う。頭の中が、たいしたおめでたい作りになっているんだろうね。
で、そんなには危なくはなかったけれど、忘れていたことを思い出した。
パキスタンのペシャワールでのこと。
町中を歩いていた。たまたま大きな交差点にいた。交差点の真ん中に、丸い花壇のようなところに信号機が立っている。(記憶違いかな、ロータリーだったのだろうか?)日本にはこんなふうに信号機はないけど、イメージしてみてほしい。
で、向こうから100人か200人くらいの男たちの集団が大きな声で何かを叫んだり、拳を突き上げたりしながらやってきた。何事かと思う。
で、反対側からは機動隊みたいな人たちがやってくる。もちろん武装している。たまたま僕はその真ん中。
カメラマンって、ちょっと病気みたいなところがあって、カメラを持っていないとただのおっさんだったり、ただの酔っ払いだったり、ただのスケベ親父だったりするけど、カメラを持つと病気になる。
「撮らなきゃ」と反射的に行動する。
僕はその花壇みたいな信号機の鉄柱に身を寄せて、撮ろうと狙う。
デモ隊と機動隊がさらに接近する。突然、何発もの銃声が響いて、叫声をはりあげながら男たちは散りぢりになり、そこら中を白煙がおおった。やばい、と思って男たちが逃げるようにどこぞの陰だか、たまたま開いていた家の庭にだったか、とにかく駆け込んだ。
最初はそれが催涙ガスだとはわからなかったが、強烈な刺激で目を開けられない。とめどなく涙が滲み出す。鼻の奥まで突き入ってくる刺激は後頭部まで突き抜けそうだ。この感じを言葉にして伝えようと思うのだが、ぴったりの言葉、ぴったりではないにしてもそれなりに伝えられる言葉が、見つからない。
一緒にいたパキスタン人と目が合い、たまらんな、という顔をしあった。
このデモ隊と機動隊の衝突は程なくおさまったが、しばらく涙は止まらなかった。

何を抗議してのデモだったのか、全く知らない。

海外ひとり旅の事件簿(4)ニセ警官あらわる3/3 [旅のこと]

ということで、走っているタクシーの後部座席で、ドアを開ける開けさせないの必死の攻防が続いた。
今思えば、ナイフで脅されもしなかったし、殴られもしなかったし、それにその偽者焦っていたし、おどおどしていた。太っていてそこそこ大柄ではあったが、小心者だったろうと思う。まあ、不幸中の幸いだったと思う。不幸中であることには変わりないので、そのこところはよろしく。
それで、ドアが開きかかったりするたびに、タクシードライバーが、後ろを振り向き、スピードを落とし、「ひえ〜〜〜、やめてくれ!!!」という顔をする。
僕はちょっとした隙にそのドライバーの頭をこづいたりもしたのではなかったかと思う。彼も小心者だったろうと思う。
どのくらいそういうやり取りが続いたのか。
僕はついに、大きくドアを開いた!!!
その全開になったドアをみて、ドライバーは引きつった顔をしながらキキキーッとスピードを落とした。
それがチャンスだった。
僕はタクシーから飛び降りた。気持ちとしては、ちゃんと立てそうな感じがして飛び降りたが、すっころんだ。痛くはなかった。そのかわり、恐怖がぞぞーっと顔を引きつらせた。
ニセ警官はリヤウィンドウから振り返って僕を見たように思う。そして、タクシーはそのまま行ってしまった。行ってしまったが、あたりには未だ人影はない。戻ってきたら、そう思うと恐怖はつのった。
相手は車だし、もし戻ってきたら逃げ切ることはできないだろう。どうしたものだろうか。カメラを急いでバッグに戻しながら、途方に暮れる。
ちょっと話はそれるが、旅の醍醐味は「途方に暮れること」だと僕は思っている。だが、こういうのはもう二度とご勘弁願いたい。
話を戻す。そうこうしているうちに、さっきのタクシーらしい車がちょっと先の大きな通りを、左から右へと走っていった。僕に気づいたかどうかはわからない。もし僕を探すなら違う道へ行きたがるだろうと思い、その大きな通りの方に行くことにした。

それっきりだった。
どうやってホテルに帰ったのかは覚えていない。


                    完

海外ひとり旅の事件簿(4)ニセ警官あらわる2/3 [旅のこと]

サンタクルスという町にいたときだった、ような気がするが、どこでだったかは記憶が定かでない。まあ忘れてしまったということだが。
その日は日曜日だった。町外れの安宿から、町の中心部あたりを散歩しようと思って出かけた。ガイドブックの小さな地図を頼りに歩いていった。ほうほう、ここがこの教会か、などとのんきに思いながら。
歩いているうちに、閑散とした住宅街になった。通行人が全くいなかった。あとで思ったには、日曜日だったからだろう。家にいる時間か、教会に行く時間か、それとも危険だからと家に隠れている時間だったかもしれないが。
カラフルな家並みがいいなあと思ったので、カメラバッグからカメラを出して写真を撮った。たまには写真も撮る。
カメラをしまうかしまわないうちに、後ろから呼びかけられて、
「今写真を撮ったろう。ここは写真を撮ってはいけないのだ。」
というようなことを言い、彼はニセの警察のIDカードを出して見せつけた。(今思うと、一瞬ですぐにしまったのも怪しかった)
イエメンで、通りからモスクを撮ったときには、通りがかりのじいさんに難癖を付けられたことはあったが、それだって、通りがかりの若い男に助けを求めたら、男がじいさんに何か説教をし始めて、その間にそこを離れて事なきを得た。なのに、この何でもない住宅街を撮って悪いわけがない。・・・と思っても、そこは言葉のほとんど通じない異国、なんとも打つ手がない。
それで、ニセ警官は通りかかったタクシーを止め(このタクシーもぐるだった!と思う)、乗せられてしまった。
タクシーの中で、所持品を見せろと言われ、カメラを2台だし、身体から離してはいけないと思って、ストラップを首にぶら下げた。(池波正太郎ふうに書けば、「それがよかった」)当時はたばこを吸っていたので、出したたばこに鼻を付けてそのたばこの匂いをかぎ、薬物が混入していないかを確かめるふりなんかをした。それから、携帯電話で署に電話を入れるふりをしたり。
やつの目当ては金だ。
最後には、お金を持っているだろう、見せろ、という。
これは、さすがに出したら最後だと思った。こんなむちゃくちゃな警官がいてはいけないし、言いなりになってはいけない。だいたい偽者だし。
僕は、走っているタクシーのドアを開けようとした。運転手はびっくりしてスピードを落とす。ニセ警官はドアを閉めようとする。その攻防が始まった。
                          つづく、かな
   

海外ひとり旅の事件簿(4)ニセ警官あらわる1/3 [旅のこと]

ボリビアは経済的に厳しこともあって、治安がいいとはいえない。
標高が3650メートルだか3700メートルと首都としては世界一標高の高いところにあるラパスでは、その標高の高さを利用しての首絞め強盗というのがはやっていた。
強盗は、後ろからさっと近づいてきて頸動脈をぐっとしめるのだそうだ。そうすると、すっと意識がなくなり、あっと気がついたときには丸裸になっている、ということらしい。
これは、旅人に限ったことではなく、現地の人でも被害に遭うというからなかなか凄い。ちなみに、ボリビアは3ヶ月以上いたが、ラパスはバスを乗り換えただけで、スルーした。乗り換えのバスステーションにいただけでも、なんだかいや〜〜〜な感じがしたのを覚えている。
と書きながらも、ボリビア人には本当によくしてもらったし、沖縄から移住した日系の方にも夕食を招待して頂いたり、ほかの日系の方のところにしばらくお世話になったりと、暖かくしてもらった。素敵な思い出がたくさんある国だ。
それで、本題のニセ警官だが、これには2回もあってしまった。首絞め強盗ほどではないにしても、はやっていたのだろう。そのうちのより思い出深い方を書こうと思う。先に言うと、ガイドブックか旅人情報かであらかじめ噂は聞いていたので「あれだな」とピンときて、どうにか被害は免れたのだが、これを知らなかったら、防ぐのはかなり難しかったろうと思う。
前置きが長くなってしまった。            つづく、と思う

海外ひとり旅の事件簿(3)スペイン洗礼 [旅のこと]

旅には休憩の日も必要だ。
今回はちょっとずる休みして、
「下記、ホームページにすでにアップしているところにお立ち寄りください。」

「スペイン洗礼」
http://www.ningen-isan.com/works/index2.html

ということで。
高校生の頃もずる休みはしたが、実は幼稚園の頃からずる休みをしていた。
母が僕を連れて、わざわざ幼稚園の入り口まで一緒に行き、
やれやれやっと幼稚園に行ってくれたと思い、お店(当時八百屋をしていた)に戻り、
ふと振り向くと僕が後ろに立っていて・・・。
ひとりでとことこと戻ってきたのだ。
母はさぞかしがっかりしたことだろうと思う。
プロフィールの写真のころだ。

ついでなので、大学生になるとご大層に「自主休講」と言ったり、
「ひよる(日和る)」などと言うようになった。
ずる休みに変わりはない。

海外ひとり旅の事件簿(2)スリに遭うのはスリリングなどとは言っていられない [旅のこと]

都合4年半か5年くらい海外にはいたが、スリにはわかっているので2回あっている。気がつかないだけで、何度もあっているのかもしれない。(きっとそうだな)
一度目はエチオピアの首都アディスアベバだった。
町外れのいかにもいかがわしそうな宿に何泊かしていた。
朝、街の中心まで行くバスでだった。バスとして走っているワンボックスに乗り込むときのこと。高めのステップがあって入り口が低いので、片足をステップにあげて、上体を前にかがめることになる。そのとき短パンのポケットから少しお金が覗いたのかもしれない。それを後ろから来た男が、僕に続いて乗り込むふりをして抜き取っていったらしい。もちろん僕は気がつかなかったが、席に着いてから隣の中年の男性が
「スリには気をつけた方がいい」
とアドバイスをしてくれて、わかった。彼は現場を見ていたらしい。ご忠告ありがとう。
もう一回は、タンザニアからケニアにバスで出国しようと、大きなバスステーションに行く、混んだローカルバスの中だった。
確かにそのバスは混んでいた。混んではいたが、後で思うと、何人かがやたらと僕の方に寄りかかってきていたと思う。やられたのはどのタイミングかはわからない。
タンザニアを悪くいうつもりはないが、僕の体験したタンザニアは非常に治安が悪い感じがして、いつも緊張していた。それで、国境を越えるバスに乗って今日でお別れと思うと、その日はちょっとほっとしていて、多少浮かれた気分でいたところが確かにあったように思う。
ポケットにはバスステーションに着いてから、バスの発車まで小瓶のビールを1,2本とサンドイッチでも食べようかと思って、そのくらいの小銭を残していたのだったが、それを盗られたわけだ。一食我慢したのか、ドルで払って食事をしたかは覚えていない。少なくとも気分はビールではなかった。
不幸中の幸い、どちらもその日の行動費くらいだったからどうにかなった。
今度そういうところに旅するときは、ポケットの中に強力バネ式のねずみ取りわなみたいなものをいれておきたい気分。お札を取ろうとすると、フックが外れてバシンと罠がかかるというような。

タンザニアついでに、タンザニアのザンジバル島という島に行ったときのこと。
その宿には自由に使っていい共同の冷蔵庫が置いてあった。
かんかん照りの、からから乾燥の中を半日歩いた帰り道、
「宿に帰ったら冷たい水が待っている!ああ、早く冷たい水が飲みたい!!」
と冷やしておいたペットボトルの水を飲むことだけを楽しみにしていた。帰って冷蔵庫を開けてみたら、冷やしておいた僕のペットボトルの水がほとんど全くなくなっていたのだ!!!
食べ物の恨みは・・・、というが、あの状況では水だって同様。なんとも気持ちの持って行きようがなかった。

海外ひとり旅の事件簿(1)ラホール発、睡眠薬強盗列車 [旅のこと]

パキスタン中部の都市ラホールから、北部にある古い町であるラワールピンディー行きの列車に乗った。それは、午前にラホールを出発して夜7時頃にラワールピンディーに到着する便だった。ドアのある6人がけのコンパートメントだったから、普通席ではなく、治安のことを考えて、そこそこいい席をとったのだろうと思う。
そのコンパートメントにラホールから乗ったのは、僕とパキスタンの二人連れの青年だった。
僕はウルドゥー語は話せないし、彼らもそれほど英語が話せるわけではなかったから、木綿のしつけ糸ほどの頼りなさでの会話だった。それでも同じ若者であるということと、彼らのおどけたようなジェスチャーもあって、通じないながらも楽しく話していた。

その老人がどこから乗ってきたのか、あるいは乗っていたけど違う車両から来たのか全くわからない。コンパートメントに入ってきて、そこが自分の席として座った。
年長者を敬う習慣もあってなのだろうか、パキスタンの青年たちは社交辞令的になにやら話しかけたが、それは発展することなく、まもなく終わった。もちろん僕にはどんな話だったのか全くわからないが。

老人が中座した。ドアが閉まるとすぐに向かいの二人は肩をすくめるふうだったから老人にはあまり好感を持っていない様子だった。
トイレにでも行ったのだろうと思ったが、それにしてはちょっと遅い感じでもあった。それでも気にもとめずにいた。
老人が戻ってきたときに、大きめのポットを手にしていた。(思い返せば変な話だ)
ポットにはチャイ(ミルクティー)が入っていて、二人の青年にしきりに勧め始めた。どうも、断るのも失礼にあたるような雰囲気で、二人はとりあえず一杯ずつ飲んだ。当然のように僕にも回ってきた。僕もなんだか気が進まなかったが、一杯飲んでコップを返した。
その後も、老人はもっと飲めと二人に勧めた。パキスタンの青年たちは、飲まざる得ないようだったのは覚えている。きっとそういう習慣で、年長者から強く勧められると固辞できないのだろう。僕もお代わりを飲まされたのかどうかはよく覚えていない。

ふと、何かおかしいと思ったときには、老人はいなかった。
全身がひどくだるい。腕も足も、全く身体が動かない。
向かい側に座っている背の高い方の青年は、横になって腕枕で熟睡していた。もうひとりと目が合う。彼の目が言っていた。
「やられたな」
間違いない、睡眠薬を飲まされたのだ。
彼が比較的しっかりしていたからだろう、幸い僕らの荷物は大丈夫だった。彼はまだどうにか身体が動いたので、老人を探してくるというようなことを言って、コンパートメントを出て行った。窓にぶつかるようにして通路を歩いて行った。
彼が出て行ってから、僕はしっかりしろしっかりしろと自分に言い聞かせて、どうにか意識を保っていた。

戻ってきた彼は、コンパートメントのドアを開け、見つからなかったと首を横に振った。

ラワールピンディーに着いたときには、すでに真っ暗だった。秋だった。終点だったから降りられたのかもしれない。どんなふうに列車を降りたのかも、駅舎の様子も全くわからないまま駅舎を出、薄暗い水銀灯の下にバックパックを寝かせ、その上に腰をおろした。
相変わらずもうろうとする意識。たまらない四肢のけだるさ。早く宿を見つけなければと思う焦燥。ゆっくり大きく息をして、とか自分に言い聞かせながらも、ゆっくりしてはいられないと思う自分。

旅をしていて、まっ暗い中を安宿を探して歩くことほど不安なことはない。
どれくらい経った後かはわからない。裸電球がともった薄暗い安宿によたよたと入った。僕が宿帳に名前とパスポートナンバーを書くのを見ている宿の男が盗っ人に見えて仕方がなかった。
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ピラミッドにたどり着き <2> [旅のこと]

カイロの街はとっぷりと暮れながらも、街灯もヘッドライトも店の明かりも煌々と輝き、街全体がいつものようにざわついていた。ギザはカイロまでの通勤圏内のようで、ギザへ向かう終バスの乗客たちも、遅くまで勤めた人たちでそれなりに込んでいた。
どちらから話しかけたということもなかったが、隣に乗り合わせた仕事帰りの青年と話しが盛り上がり、もちろんこれからピラミッドに登るということも話した。彼がそれじゃあうちに来てお茶を飲んでたらいいと誘ってくれた。それをありがたく受けて寄せてもらった。
磁器のティーサーバーいっぱいに入れた紅茶とクッキーを出してくれて、彼は彼で帰宅後のこまごまとした用事をしながら、話しの続きなどをしてすごした。彼は仕事帰りで、しかも明日もあるだろうに本当にありがたかった。
2時だったろうか、2時半くらいだったろうか。彼の部屋の掛け時計を見てそろそろだなと思ったような気もするが、覚えてはいない。彼の家を出た。

ぽつんぽつんと間隔の広い街灯があったが、それも途中でなくなり、ピラミッドの近くに行くと、夜の闇の中に、真っ黒く巨大な三角形のさらに深い闇があるのがわかった。
わずかに手元が見えるだけの漆黒。
ピラミッドの石は夜の空気に冷たく冷えていた。はじめの2段3段は石が大きくどっこいしょと踏ん張って上がらなければならないくらいの大きさだというのも下見してわかっていた。とにかく注意して一段一段慎重に登ればいい。急ぐことはない。
手元の石だけがわずかにわかるだけ。手を這わせ足を次の一段にかけ、そしてその石でいいのかどうか、足で確かめて、そしてまた一歩と登った。下も上も闇の中で何も見えない。
どのくらいの時間がかかったのかわからない。時間を計っておこうとは思いもつかなかった。思っていたよりもあっという間だったのかも知れないし、長い時間が過ぎたのかもしれない。
たどり着いた頂上はだいぶ広さがあるようだった。正確にはその上にもう一段あったのだが、そこにはもともとの高さを示すためのものだろう、丸太でやぐらが組まれて、その丸太がじゃまをして、どうも塩梅がよくなかったから、それにはこだわらなかった。

東の空低く、カミソリで裂いたような細く白い月が輝いていた。その下にはギザの街の青白い街灯がつつましく並んでいた。
僕はあの朝やけを忘れないだろ。
静かに静かに漆黒から群青に、青紫に、天空全体が、たとえば新しい生命の胎動が始まるかのように、そのグラデーション全体がダイナミックに動き色を変えてゆく。巨大なカンバスとなって、ゆっくりと塗り替えられてゆく。
細い絵筆でオレンジ色が南北にすうっとひかれ、そしてさらに鮮やかな黄色い線が地平線に沿うようにひかれ、そしてガラスペンで純白の直線がすぅーっと伸びたあと、朝がその隙間から産声を上げる。宇宙と地球のコラボレーション、今日という新しい命が生まれる瞬間。
美しいと思った。
そして、僕はこうして旅をしてくることができたことを、今こうしてピラミッドの頂上にいることができることを、何か大きなものに感謝した。

もう少し明るくなるのを待って、僕は釣り竿の先に結んだひもに、はずしておいたカメラのストラップを結びなおす。今度は折れたり落ちたりしないように、しっかりと。
釣り竿にぶら下げた一眼レフのカメラは意外と重い。セルフタイマーをセットし、カメラをゆっくり放つと、カメラはとんでもない方を向き、それを調整しようとしている間にシャッターが切れる。なかなかちゃんとこっちを向いてはくれない。あっちを向いたりこっちを向いたり、具合が悪いのを直そうとして手を伸ばしてカメラを押さえようとした瞬間にシャッターが切れたりした。
セルフタイマーをセットして、朝が白んでゆくのに合わせて露出を変えてということを延々と繰り返し、結局モノクロを1本、リバーサル(スライド用のフィルム)を1本、合わせて2本撮影した。

思い起こせばどれくらい前のことになるのだろう。N澤さんの車の撮影の仕事で地方に泊まり込んでいた。ビジネスホテルのベッドに疲れて倒れ込み、そしてふと「ピラミッドの頂上で記念写真を撮ったら爽快だろうな」と思った。それが始まりで、そしてこうして旅をしてきた。そのときの思いが、完結した。ちなみに爽快だったかというと、そういう感じよりも、むしろ、やれやれという感じだったが。

「だからどうした」といわれそうなどうでもいいようなことを自分で決めて自分でやって、それで「やれやれ」で終わったのでは世話がない。でも、僕にとってはこうして、だからどうしたといわれてしまうようなことでも、完結したとこと自体にひとつの意味があったのかもしれない。そして一回一回の完結したときのその体験や感情が、何かを自分の心に植えてゆくのかもしれない。明日の自分の何かを育むのかもしれない。
何かが終わったことは何かが始まることであり、この旅の終わりは新しい旅の始まりであり、ピラミッドの頂上は何かの出発点なのだろう。
何かが完結したということは何かが芽を出して、これから何かが育ってゆく兆しなのかもしれない。
もちろん、そんな事々は後日思ったことだが。

往々にして物事はそうなのだろうと思うが、アイディアを実現するには、段取りをとって、なんだかんだと準備して、障害がつきものでそれを一つひとつクリヤーして、ということに手間やエネルギーがかかるけれども、実際にそれを実行することなどはあっという間なのだろう。
あっという間に撮影は終わった。

行きはよいよい、とはよく言ったものだ。ピラミッド、降りるのは怖かった。本当に怖かった。ピラミッドの上に行くにつれて積まれている石が小さくなってゆくから、そうすると足をかける幅も狭く、なによりも、垂直かと思うほどの急斜面。踏み外せば、地上まで転げ落ちるということ。
ピラミッドの斜面にはいつくばるようにして降りた。降りるときの方が、足場が見えにくいのに、そのくせ遙か遠くの地面が見えるから恐怖心が増す。
カラカラカラと乾いた音をたててピラミッドのかけらが落ちていったのは反対斜面だった。太陽と風で風化して小石となり、音さえも途中で聞こえなくなって地上へ帰っていったのだろう。自分が手をかけている方の斜面は崩れ落ちる感じはない。「ピラミッドの登り方」を教えてもらっていて命拾いしたと心から思った。

途中から見えたが、降りるとお約束通りに係の人がまっていた。ポケットに分けて入れておいた小銭ばかりの袖の下を渡した。
すっかりいつもの朝になっていた。
登ることはもとより、二度とピラミッドを見ることはないかもしれない。しかし、あのピラミッドの頂上から見た静謐としたギザの街の夜景を忘れないだろうし、あの朝やけの美しさを忘れることはないだろうと思う。





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ピラミッドにたどり着き <1> [旅のこと]

僕はクフ王のピラミッドの下に立ったとき、
失敗したなぁ、と心から思った。
真下から見るピラミッドは垂直かと思えるほどに急峻で、頂上などは全く見えなかった。
これを登らなきゃいけないのか、失敗したなぁ、と。
頭が重力のままに垂れ下がった。
どうしようかな、別に登らなくても、まあ、ここまで長い旅をしてたどり着いたことでよしとしようかとも思った。

カイロの中心部からギザ行きのエジプトの匂いのしみこんだ市バスに乗って、排気ガスの街を抜けた。しばらくすると遠くに三角帽子のシルエットだけがちょこんと三つ並んで見えた。ああ、あれかとちょっとの感慨をもって眺めた。
バスの終点はピラミッドに近いところだった。ここまで来るとどこからでも見えるのでピラミッドまで迷わずに行くことができる。僕はその真下まで歩いていった。観光客がわんさかといるなか、大きな石の積み重ねのその傍らに立って、じっと見えないてっぺんを見やった。そして、
失敗したなぁ、と心から思った。
これを登らなきゃいけないのか。この巨大なピラミッドを。

折角だからクフ王のピラミッドの中に入ろうかと思ったが、なにがしかのお金がかかったのでやめた。三つ並んだ一番小さいところは係員がいなくて無料のようだったので、そこには入った。石で囲われた通路をすれ違う観光客はほとんどいなかった。ほうこれがピラミッドの中かと思ったが、僕自身ピラミッドの中の石の通路にはあまり興味がないようだった。

帰りに終バスの時間をもう一度確認して安宿に戻った。
いよいよ明日だ。
明日の最終のバスでギザに行って、そのあと、あてもないけどどこかで時間をつぶして。少し早め、午前2時くらいを見当に登りはじめよう。
いよいよ明日の夜に登る。

旅の途中ではいろんな人に出会う。そのなかに「ピラミッドの登り方」に詳しい男がいた。たぶん、たまたま僕がクフ王のピラミッドに登りに行くんだということを話し、そこで彼がピラミッドの登り方をレクチャーしてくれたのだろう。
彼が言うには、見張りをしている人がいるので、夜登らないと登る途中で捕まえれれてしまうので深夜に登ること、ピラミッドのあるところでは風がどっちだかの方角からいつも吹いているから、そっち側は風化が激しく危険なので登ってはいけない、降りてきたら必ず見張り係に捕まえられてお金を要求されるから、その分のお金を別にポケットに入れてこれしかないといって出せばそれで放免される、四角錐の辺に近いところの方が傾斜が緩やかだからそのあたりを登った方が登りやすい、とか。世の中は不思議なもので、そんなことを事細かに知っている旅人がいた。頂上までの所要時間を聞くのは忘れたが。

そんなレクチャーをつらつらと思い出しながら、明日のための準備を始めた。明日のために日本から釣り竿を持ち歩いて旅をしてきた。それほど長くはないその釣り竿を伸ばしてその先にリュックの口を閉じるのに使っているひもを外して結んだ。その1メートルくらいのひもの先にはカメラのストラップの中程を結んだ。こうして、セルフタイマーをして、魚を釣り上げるように空中に浮かせれば、ピラミッドの頂上が、三脚を立てることができないくらいとんがっていても、これで大丈夫なはずだ。それに、ここがピラミッドの頂上だということがわかるには背景にギザの街か隣のピラミッドなりスフィンクスなりが写っていなければならない。少し高めに持ち上げて写せば、それらも写るはずだ。我ながらいいアイディアだ。カメラマンたるものこうでなくてはいけない。よく考えたものだ。なんちゃって。
釣り竿からひも、そしてストラップと結び、とりあえずどんな具合か持ち上げてみた。
釣り竿が大きくしなって、カメラが空に浮いた瞬間、釣り竿がぼきっと折れて、あっ、と思う間もなくカメラが落下した。
ベッドの上でごぞごぞと作業をやっていてそのまま持ち上げたので、落ちたところがベッドの上、事なきを得たが、ドキッとした。
日本を出る直前に、釣り具のチェーン店で予算がないからとワゴンの安物を買ったのだったが、それにしても、釣り竿というものはこうやすやすと折れるものでもないだろうと思うのだが。一年間持って歩いた苦労は何だったのか。重さはそれほどないのだが、リュックに荷物を詰め込むたびに、この棒状のものをいい具合にまとめるのは、本当に苦労した。これさえなければどんなに楽に入れられることかとパッキングのたびに思った。それがあっさりこうとは。
折れてしまったものはしかたがない。その折れた元の方を使って、そこに新たにひもをがっちりと結びなおし、その上からセロファンのテープをぐるぐるに巻き付けた。
釣り竿は今度は大丈夫そうだったが、実際持ち上げてみるとカメラはぶらぶらと揺れたり回転したりで、あまりこっちを向いてくれる感じではなかった。その点に関してはいい打開策が思いつかなかったが、20ミリの広角レンズを使うし、フィルムを1本うまくいかなくても2本も撮れば、まあ、どうにかなるだろう。
どこぞの国で買った小さなリュックに、釣り竿とカメラを結びつけたもの、それからフィルムを少し、必要な物などそれしかなかったが、リュックに入れて背負ってみた。明日はこうして登るのかと。









※この釣り竿では、インドのガンジス川で釣りをした。釣れないでいるとたまたま小舟で戻ってきた漁師のじいさんが、どれどれと小舟の中の餌の残り、ゴキブリを一匹釣り針にかけてガンジス川に放り込み、すぐに大きなナマズを釣り上げた。宿に戻っておかみさんにやったら、その晩ナマズのカレーがでた。

※先にも書いたが、このピラミッドに登ることは禁止されている。これは20年以上前の話で、時効ということで書いているが、実際非常に危険だし、決して登ってはいけない。

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いくら番屋、その2 [旅のこと]

野付半島につけたのはラッキーだった。冷めたバイクはどうにか動きだし事なきを得た。
半島のとっつきまで行ってから少し引き返して、この辺りかと見当をつけて通ったところにバイクを停めて、カメラバッグと三脚をもって散策。乳白色のもやの中に白い朽ちた木が林立している。湖のように林の前に広がるのは、浸食してきた海水なのだろう。風もまだ眠ったままの風景が、浸食してきた海面に映される。白く朽ちた木々や枝がもやの中に突き刺さっている、確かにちょっと異様な風景。
そして、しばらくして朝のやさしい光の気配が漂いはじめると、風景はあっというまに表情を失ってしまった。この風景には、沈黙した冷たい光があうのだろうか。

腹がへっていた。野付半島は舗装道路が一本通っているだけで何もないのは来たときに見てわかっていた。とりあえず半島の付け根にある町まで行こうかなと。
一本道を走ると、通りすがり右手側に小屋が見えた。木造でだいぶ年代が経っている感じ、入り口の横にちらと蛇口が見えたから、すぐに小さくUターンした。開け放した戸口をのぞき込むようにして
「すいません・・・」と声をかける。
「すいません・・・」と、もういちど。
出てきたごつい身体の男の顔をまともに見ることもできず、
「すいません、水を少しもらえないでしょうか・・・」と。
「なにすんだ」
と怒ってはいないのだろうが、怒ったように聞く。
「あの、ラーメン作ろうと思って・・・」
ラーメンを作ることが、なにか犯罪を告白するような感じになってしまった。
一拍おいて、
「そんなもの食ってんな。ちょっとこっちにこい」
と、怒鳴ってはいないが、怒鳴るようにいう。ラーメンを食うことがいよいよ犯罪になってしまった、ようだ。中に入れといわれるままに敷居をまたぎ、小屋の端にある木の長いすの片隅に座らされた。裸電球が一個ぶら下がっていた。男たちが何人かいて、陽気にしゃべり、赤い光の中に屈託のない大きな笑い声が響いていた。日本酒の匂いがした。それから魚の匂いがした。ここは番屋なんだ。ちょうど漁からあがって、仲間と骨を休めているところなんだ。
そして、僕だけが小屋の片隅で小さく縮こまって、ベンチに座らされたままじっとしていた。しかられた子供のように居場所がないままにそこに放っておかれた。
しばらくして、男がどんぶりを持ってきて、
「くえ」
といって目の前につき出されたのは山盛りのいくら丼だった。どんぶりからこぼれそうなくらいに山盛りのぴちぴちしたいくらが、裸電球の光を反射して、一粒ひとつぶがきらきらと美しく輝いていた。驚きと申し訳ないようなきもちだった。お礼をちゃんと言っただろうか、どんぶりをもらい、いっしょに差し出された箸を手にして、いくらをこぼさないようにひとくち口に運ぶとすぐに、その一粒ひとつぶが口の中ではじけて、口の中いっぱいにそのうまみが広がった。
その一口で、どんぶりのいくらの輝きはにじんでしまい、よく見えなくなってしまった。たとえサファイヤの山盛りを出されたとしても、こんな気持ちにはならなかっただろう。
ご馳走になっている間も、みんなは僕のことを放っておいてくれた。鼻をかんだり眼を拭いたりしながら、もくもくといくらどんぶりを食って、そんな僕を一人にさせておいてくれた。

お礼にというわけでもないですけど、あとで送りますから皆さんで写真を撮りませんか、と近くの男の人にいったら、一番上らしい男の人に話が行き、よし、みんな外に出ろといって、ぞろぞろと小屋の前に出てきて、横一列にならんで立った。
腕を組んで笑いもしない。そう、この人たちは、おかしくもないのに笑ったり作り笑顔をしたりはしない、そういう人たちなのだなと思う。船の上では作り笑顔は役に立たない、身体を動かして自分の領分をこなすこと、仲間を気遣うこと、きっとそれが全てでそれでいいのだろうと、立っている男たちを見てそう思った。

半島の付け根のあたり、コンクリートの堤防の上に仰向けに寝ころんだ。夕べは徹夜だった。風もなく朝の優しい光が全身を包んでくれて暖かい。ああ、ごろ寝日和だ。うとうとと、ほんのつかのまの小春日和のひとねむり。バイク行で冷えた肩や首筋やそして全身が常温解凍されてゆくようだ。身体が暖かく満たされてゆく感じがしたのは、北海道にふりそそぐ優しい日差しのせいばかりではなかったと思う。

裸電球の薄暗い番屋を思い出す。ご馳走になったきらきらのいくら丼を思い出す。オタモイ岬のニシン御殿ではないけれど、月日は流れ万物は転変する。野付半島のいくら番屋は今もあるだろうか。男たちしかいなくて、酒と魚の匂いがして。はるか遠い道東の竜宮城になってしまったが。

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