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海外ひとり旅の事件簿(10)クエッタでヤツは目をぎょろつかせて待ち伏せしていた2/2 [旅のこと]

数日後にバスに乗って国境に向かった。
ギョロ目が同じバスに乗っていた。
いろいろあるが、まぁ自然、旅は道連れとなる。

夜も明けきらないうちに国境についた。国境には小さな村があって、旅人相手のお茶屋が開いていた。極寒の中でお茶を飲み、あとはじっとして過ごした。
その頃はイランイラク戦争の真っ最中で、イランの国境入りは緊張するものがあった。バスでとりあえず近場の町、ザヘダンまで行くのだが、その間、10回くらいもチェックがあった。
その時はもうひとり日本人男性がいたので、3人で安宿に泊まることになった。宿に落ち着いて、最初にやったことは両替だった。闇でドルが30倍らしいことがわかっていた。ただ、どこでどうしたらいいかがわからない。・・・時効ではあるが、そのあとのことは省こう。
ザヘダンをでるとき、ギョロ目と僕は一緒だった。
ギョロ目はS本さんといって、結局テヘランまで一緒でそこで別れることになる。ちょうど一ヶ月間一緒に過ごした。
それまで、よく一緒に朝食のナンを買ってきて、部屋で紅茶をいれて飲んだ。(ちなみに、個人的には今まで食った中で、イランのナンが最高にうまいと思う。)そうした共同の食事代などはきっちりと割り勘をした。そんな感じも僕には合っていた。ボール紙で丁寧にチェスのコマと板をつくって、チェスをして遊んだりもした。
イスファハンだったろうか(違うかもしれない)、ある晩やることもなく二人で部屋にいたとき突然電気が消えた。窓から外を見ると真っ暗で美しい夜空が浮かんでいた。ろうそくをつけた。すると、すぐにホテルのボーイが部屋に飛び込んできて、ろうそくを吹き消し、窓から離れろ、という。
何事かと思いながらも言われたとおりにしていると、しばらくして、爆音とともに窓ガラスがピシピシとゆれた。
後でわかったのだが、すぐ近くの総合バスターミナルに爆弾が落ちた。そこは、この町に着いたときに降りたところだった。
そういうことの一つひとつが二人の間でお互いの考え方や生き方や、そうしたことを深く話す機会となった。

S本さんは、今ではとても大切な友人のひとりだ。
奈良の山奥で暮らしている彼の家には何度も世話になった。当時世田谷にいた僕のマンションに奥さんと子どもたちとで泊まりに来たこともあった。二番目の子は女の子でまだ2才か3才と小さく、S本さんとあぐらをかいて酒を飲みながら話をしていると、その子が僕の股ぐらにすぽんと入ってきたのも懐かしい。

あのギョロ目は、クエッタの寒い路上で、他の誰でもない僕を待っていたんだなと思う。




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海外ひとり旅の事件簿(10)クエッタでヤツは目をぎょろつかせて待ち伏せしていた1/2 [旅のこと]

その年の冬、クエッタにいた。
初めての海外旅行が、インドからエジプトまでのバックパッカー撮影旅行だったが、クエッタというのは、パキスタン西部にある町で、当時はパキスタンからイランに陸路で抜けてゆくルートにある町で、イランとの国境まで距離はあるものの、ここから先は町らしい町はない。
余計な話だが、その昔は(と僕が書くのだからだいぶ前のこと、アフガン戦争前だ)、インドからイランに抜けるのには、アフガニスタンを通った。それで、クエッタはよっぽどの物好きでなければ通らないルートだったらしい。まあ、おもしろいルートではなかったということだ。
話を戻す。
絵はがきを少しまとめて買って、お茶屋に足を運んでは絵はがきを書いて過ごしていた。それが終わった次の日の午前中に、郵便局に行って切手を貼って投函した。
ちょっとした一仕事をし終えた感じのさわやかな疲労感と、その日のすっきりとした空気感に包まれてホテルに戻ろうと歩いたいた。
突然、
「日本の方ですか?」
建物のかげからにゅっと顔がでた。ひょろ長く、ニット帽をかぶって、そして何よりも目がギョロッとしていた。いわゆるぶっ飛んでいる感じだった。まずいヤツに声をかけられたと思ったが、仕方がない
「ええ・・・」
彼の話はこうだ。自分はイランに行く(目的地はスペイン)のだが、イランの情報がないので、もし何か知っていたら教えて欲しいということ。地獄からの使者かと思ったが、とりあえず日本人なので放っておくわけにもいかない。
イランに関しては、ものすごく古いガイドブックだったが、それを見て多少はわかっているところもあったので近くのお茶屋に入って話しをすることになった。(古いというのは、そのガイドブックには「ギリシャで所持金が足りないことがわかったら、売血ができる、病院は・・・」そんなことが書いてある。日本語です)

その日は1,2時間くらい話したのだろうか。
おれは、これでこのギョロ目に対して果たすことを果たしたとホッとした。



アフガニスタンに入りかけたところで肝炎を発症してやっとの思いでペシャワールに戻った [旅のこと]

長い旅をしていた20代の頃のこと。
パキスタンのペシャワールには長いこと滞在していた。長居していたのは、僕にとっては居心地のいい、適当に古く、適当に雑然とした町だったからのように思う。(最近ペシャワールに行ったという友人に聞いたら、今も全く変わっていないとのことだった。「全く」を強調していた)
長居していた安宿でジャーナリストのM氏と出会うことになった。M氏はアフガニスタンとのパイプがあって、パイプというのはムジャヒディン側で、ペシャワールで暮らすアフガン難民やあっちとこっちを行き来するムジャヒディンたちにだいぶ顔が利いたようだった。(そういえば、M氏の紹介で知る人は知る田中光四郞さんが拳銃を構えている写真を撮らせてもらったことがあった。話しはそれるが、地雷を踏んでなくなった南条直子さんともこの安ホテルで話したことがあった)
そのM氏からアフガニスタンに取材に行かないかという誘いを受けた。もちろんお金をもらっての取材ではなく、ルートは手配してやるから撮ってきた写真で元を取って、アフガニスタンの現状を伝えて欲しい、ということだ。
僕の知っているアフガニスタンは、尊敬する写真家のひとりである東松照明の『泥の王国』という写真集に凝縮されていた。東松照明のあの視点はなんと言ったらいいのかわからないが、人も風景も暮らす町も、僕の胸には沁みる。(あるときアサヒカメラに載っていた桜の写真が目に入り「あ、東松さんの写真だ」と思って名前を見たら東松さんの名前があったときは嬉しかった)
好んで物騒なところに行きたいわけではないが、そんなアフガニスタンには興味があった。
それで、ムジャヒディンに同行してのアフガニスタン行きを決めた。
みぞれが降り始めた頃だった。
そのころからいまいち体調がよくなかった。風邪気味な感じで、出かけるまでには治さなければと思っていたが、治らないまま出発することになった。
アテンドしてくれるムジャヒディンがいて、彼とバスを乗り継いだりなどなどして、デポに着いた。デポというのは、武器庫というか補給基地というかそのようなもので、実際にはただの小屋にしか見えないが、そこにしばらく滞在することになった。諸般のタイミングをみてアフガニスタンに行くのだ。
デポはどの辺りにあるのか全くわからなかったが、パキスタンとアフガニスタンのほぼ国境あたりで、パキスタン側であったろうと思う。ムジャヒディンたちとそこでしばらく暮らすことになったわけだが、僕の体調は日に日に悪くなっていった。
尾籠な話しで申し訳ないが、ある朝大便をしたら、それが真っ白だった。そんな現実を見て、やっと風邪ではないと知った。
目も真っ黄色いことがわかった。疑いようもなく肝炎だった。このままここにいて治るのを待つか、ペシャワールに帰るか、を選択しなければならなかった。そりゃ、帰る方を選んだ。
帰るといってもひとりで帰ることができないので、最後のバスに乗るまではまた誰かの手を借りなければならない。
悪寒と脱力、最悪な日々だった。
途中までムジャヒディンにアテンドしてもらい、最後のバスを降りペシャワールに戻ってきた。
ひとり、前と同じ安宿にたどり着いたときには、疲れが噴出した。
しばらくバナナと水をとるだけで、薄いベットに張り付いていた。



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トルコのチャイ屋では僕は超能力者だった [旅のこと]



トルコでは、「地球の歩き方」には決して載ることはないだろう小さな町でもよくバスを降りた。
町のたたずまいや、どんなふうに人は生きているのだろうかと思い、いつもいくらかの期待を持ちながら降車したものだった。
明るいうちであれば、何はともあれチャイ屋を探して休む。
田舎の町に限らず、トルコではそこここにチャイ屋がある。トルコのチャイ(紅茶)は、ほとんどの場合小さなグラスのカップに砂糖の多い紅茶がでる。熱い紅茶を受け皿に注いで少し冷まして飲んだりもしていた。
チャイ屋にはたいがい正方形のテーブルがあり、それを囲んで人生の先輩たちがカードゲームをしている。全国的によくやっていたのはセブンブリッジのようなゲームだった。
僕はその隣の正方形にひとりで座り、チャイを飲みながら男たちをなんとなく見る。
ゲームが終わったタイミングで、エクスキューズを入れてちょっとだけカードを貸してもらう。
貸してもらったトランプをシャッフルして一人にカードを「一枚」引いてもらう。
我が輩がそれを当てる。トルコ語でたとえば「ダイヤの8!!」のようにもっともらしく言うと、それを見ていた男たちは「オッー!!」と驚き、歓声を上げる。
もう1回やってくれなどと言われるが、超能力だから1回やるだけでもものすごいパワーを使うからもうできないと言って丁重に断る。決してばれるといけないから、ではない。
男たちはゲームに戻り、僕は僕の正方形にもどりチャイの残りを飲む。

勘定してもらおうとレジにゆくと、店のおやじは手を後ろに組んで首を横に振る。
お代はいらないというのだ。
あそこの人たちが払ってくれた、と嬉しそうにさっきのテーブルを指さす。
男たちのテーブルに行ってお礼を言うと、男たちは口々に「凄かったぞ」「明日も来いよ」などといいながらこれまた嬉しそうにしている。
僕は曖昧な返事と曖昧な笑顔を浮かべて店を出る。明日はもういないと思いながら。





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イエメンの濁流 [旅のこと]

首都サナアのYさんやSさんのところに居候をさせてもらいながら、国内のあちこちに撮影旅行をしていた。

そのときは、昔の南イエメン側、それもだいぶオマーンに近い方に撮影に行っていた。
おんぼろなバスで変わり映えのしない茶色の土漠の風景を、ひたすら東へ向かっていた。路線バスはエアコンなどあるわけなどなく、風がないよりはいいので、熱風を受けながらペットボトルの水を飲み続けていた。
村もないところでバスはゆっくりとため息をつくように停止した。何事かと前方を見るとトラックやバスが列をなして停まっている。
乗客たちはぞろぞろとバスを降りて先の様子を見に行く。バスやトラックや乗用車が30台ほどもずらっとならび、その先には、上流のどこでどれほど雨が降ったのかわからないが、低い地鳴りをたてながら濁流が流れている。川幅は50メートルほどもあったろうか。

ワディ(川、枯れ川)に水が戻ったのだ。枯れ川というのは日本人には少しわかりにくいが、乾季などの雨がない季節には全く干上がってしまい(そうである方がほとんどだが)、ごくまれにこうして流れが戻る川のこと。ふだんは流れがないので、橋を架けたりせずに川底を横切って通る。

濁流ではどうしようもない。流れが退くまで待つしかない。
足止めを食らった人々の多くが、することもなく珍しい濁流を眺めていた。
すると、川の向こう側から、二十歳前後とおぼしき数人の若者が、叫声をあげながら渡り始めた。
それにつられるようにして、こちら側からも向こう側からも若者たちが、おれが一番に渡りきってやると言わんばかりに騒ぎ立てながら渡り始めたのだった。
流れの中程にもさしかからないうちに、若者たちは濁流に足を取られ次々と濁流に流され、あれほど騒ぎ立てていた声も濁流に沈んだ。あっという間のことだった。
流されながらもたまたま岸に押しやられ、近くの灌木につかまることができた者もいた。流された者の中には、見ているうち空をつかむようにあがいていた手が沈み、うつぶせになりそのまま流されていった者もいた。

騒動がおさまり人々がバスに戻り、戻ってきた老人のひとりが
「二人死んだ」と言っていた。

アラビアでは、「水がなくて死ぬことよりも、水で死ぬことの方が多い」という言葉があるやに聞いたことがあった。




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ソーアン、トルコ語でタマネギのこと [旅のこと]

20代の後半ころに、インドからエジプトまで1年間バックパッカーをやっていたことがある。撮影旅行といってもいいが、どちらにしても超貧乏旅行だった。
トルコには3ヶ月以上滞在し、ほぼ一周した。ほとんどは安宿に泊まるのだが、古代遺跡の円形劇場に野宿したりもしたし、カッパドキアの岩に掘られた穴倉に寝たこともあった。学生たちが共同で借りているアパートにしばらく泊めてもらったりもした。

安食堂では大鍋に数種類の料理が並べてある。当たり前だがどれもトルコ料理でトマトベースのものが多く、挽肉料理だったり、ナスの煮物であったりした。日本人には口に合う。
それぞれの鍋ごとにひと皿いくらと値段があって、これくださいと指をさして注文する。それをテーブルの上のかごに入ったパンを適当にとって食べるというスタイルだった。付け合わせとして生のタマネギがつくことがあった。小ぶりで半切りにしてでることが多かった。
なんせ貧乏旅行なので、料理を半分注文したりもした。そうすると、笑顔でうなずいて、ひと皿分盛ってくれて、それで、半皿分の料金を取るのだった。そのうえ、ゆっくりとパンを食えるだけ食う。嫌な顔をされるどころかテーブルのパンを盛りたしてくれたりもしてくれた。
たぶん、付け合わせのタマネギをお代わりする人はほとんどいないと思うが、タマネギをお代わりしたりもした。「ソーアン、ソーアン」と言って、お代わりを頼んだ。はじめのうちはなかなか通じなかったが、それは、発音が悪いことはもちろんだが、タマネギのお代わりをする人がいないという証拠でもあった。だんだんと発音がよくなったようで、スムーズに通じるようになった。(それもいかがなものかと思ってしまうが)
半切りの生のタマネギをそのままかじるのだが、辛い。その辛さが胃を沈め、食を進める感じがしっかりと伝わって、トルコ料理にはいい。

そんなことを思い出したのは、サラダに入れるタマネギを切って、その端っこをそのままつまみ食いしたからだった。タマネギの辛さがそんなことを思い出させた。涙が出そうになったのはタマネギの辛さのせいではない。
トルコではよくしてもらったと今でも思う。







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みずうみコレクション(7)白龍湖 [旅のこと]

私の育った町の外れには、白龍湖という、湖というよりはむしろ沼に近いような湖があった。私の育った町は、南に米沢、北にその町がある置賜盆地という水田が広がる、さほど大きくもない盆地にあった。
盆地であるから、その昔は湖底であったのだろうが、そのまた深いところが白龍湖となって残っていた。
私が小学生の頃は、周りの水田と湖の境が判然としないような状態だった。それよりもまだ10年くらい前だと、谷地船という底の平らなボートに乗りながら田植えをしている写真が残っている。

白龍湖にはヘラブナと雷魚がいた。
湖の一角に小さな桟敷をもうけるようにして売店を兼ねた小さなボート小屋があり、黄色い塗料のはげた貸しボートがつないであった。
小学生の頃、日曜日の午前に、糸と釣り針をつけた一本ものの竹竿に、ヘラブナ用の餌としては定番だった練りポテト(?)をもって出かけたことがあった。子どもだったから、ボートに乗ろうとは思ったこともなく、いつも湖と陸との境だと申し訳程度に木の杭を打ったこちら側からウキを投げた。
白龍湖では、一度たりとも当たりがあった試しさえない。いつもポテトが溶けてなくなっていた。釣れないつまらなさを、腹が減ったことを言い訳に昼前には帰った。
そうやって何度かひとりで釣りに行った記憶があるが、釣りからは遠のいていった。魚は、私には釣れないものだということを学習してしまった。

白龍湖からそれほどはずれないところを国道が通って、上山市、山形市へと抜けていた。その辺りは急な上り坂になり、鳥上坂(とりあげざか)といった。坂上からは盆地が見渡せた。特に山形市の方面から米沢市の方に向かうときには、山間を走っていた風景から一変して、眼下の白龍湖、丁寧な長方形に形取られた水田。それから、天気が良ければ米沢市の向こう側に横臥する吾妻連峰が見えた。空も広がった。

母のことがあった頃だ。一度白龍湖に立ち寄ったことがあった。田舎を離れてから初めてだったと思うので、30年ぶりだったかもしれない。
ボート屋はつぶれ、ボートも浮いてはいなかった。あんなボートでも浮いていないと物足りないとは思うものの、いつまでも谷地船に乗って田植えをするわけではあるまいと思う。
湖と陸の境には茅が生え、湖と陸の縁が明瞭になっていた。そして何よりも、沼のような湿地のような白龍湖は、年老いたように小さくなっていた。
私の思い出を守るためにこの世が存在するわけではない。私の思いとは関係なく流転することをまた知っただけだ。





みずうみコレクション(6)ウユニ塩湖 [旅のこと]

みずうみコレクションといっても、なにか特別な湖や川や海をコレクションしているわけではない。世界遺産を制覇するぞとか、そういったノリでは全くない。ただ個人的に思い出に残ったものをたまに書いているだけだ。
そんなコレクションではあるけれども、ウユニ塩湖はその中でも変わり種のひとつだ。

その夏、ペルー、ボリビアへ1ヶ月半の撮影旅行をした。日本の夏休み(といっても、フリーのカメラマンなので勝手に休んだだけだが。その間、多少仕事をなくした)、南半球では真冬。
ボリビアで一ヶ月くらい過ごしたと思う。町から町へバスで移動するごとに、標高が変わり、緯度が変わり、気候が変わったのを記憶している。
何という町からだったか憶えていないが、(ロンリープラネットのガイドブックを開けば、思い出すのだろうが、そのガイドブックは他のガイドブックと一緒にガムテープに縛られた段ボールに押し込まれたままになっている)その夕方ウユニ塩湖のほとりの町までゆくバスに乗った。ウユニ塩湖とは関係ないが、そのバスはボリビアで乗ったバスの中でもおんぼろで、昭和30年代のおもむきで、窓が閉まりきらないところがあったし、それに、一番後ろの席の真ん中だったから、だいたい想像してもらえると思う。
南半球では南にゆくほど寒くなる。バスは南下していったし、そんなバスだったから、真夜中を待たずにシュラフを出してすっぽりと身体を入れた。
真冬の午前4時頃にバスは小さく地味な町に着いた。

ウユニ塩湖への一日ツアーに参加した。雪原のように真っ白い塩の平原が続くなかをバスは走った。お客さん向けに平原の中で停まると、ガンガンに固まった塩を靴の底で砕いたりした。ほとんど砕けることはなかったが、お土産に少しはもって帰ったかもしれなかった。
塩湖の中に、島のように少しばかり突き出たところがあって、そのひとつに上がって時間を過ごした。そこには巨大なサボテンがあって、なにか珍しい生き物を見るようにして写真を撮った。
http://www.ningen-isan.com/tabisora/pic6.html
帰路についたときには夕暮れ時だった。
http://www.ningen-isan.com/tabisora/pic16.html

みずうみコレクション(5)アラスカの氷河 [旅のこと]

仕事でアラスカをクルージングしたこととがあった。べつに自分で船を漕いだわけではないから、正確にはクルージング船に乗っかっただけだが。サンフラワー号といっただろうか、違うかもしれない。

「クルーズ」という雑誌の仕事だった。日本郵船が所有していたクルーズ船を宣伝したいということで、プレスツアーのうちのひと組で乗せてもらったのだった。
バンクーバーから出航して、アラスカのいわゆる「フライパンの取っ手」といわれる(だったと思う)のところを往復するというコースで、アラスカにしてはだいぶ南部を4,5日くらい航海したのだったと思う。

この船旅のメインは、なんといっても氷河。
狭いフィヨルドに入ってゆくと、いちだんと空気が冷えてくるのがよくわかった。そこをさらに奥まで低速で入ってゆくと、その突き当たりに氷河の断崖があった。「目の前に迫った」とでも表現したいところだが、その氷河の断崖はビルの5階か6階建ての高さがあるので、崩れ落ちたときに近くにいては危険なので近づけないのだ。
そのドッカーン!!と崩れ落ちるかどうかはわからないが、崩れ落ちる瞬間を撮らなければいけないので、三脚に300ミリ、f2.8をつけたF3を立てて構えていた。(300ミリf2.8は、買ったはいいものの、それほど使う機会がなく、使ってみたくてわざわざアラスカまで持って行った)
クリアブルーの巨大な塊が海に帰る瞬間はなんとも言えない迫力があった。船上の観客からはどよめきが起こる。
この頃はまだ地球温暖化のことは話題に上らない時代だったが、振り返って思えば地球温暖化は刻々と進んでいたのだろう。
本当はオプションで別料金なのだが、そこは仕事なのでヘリで氷河の上空を遊覧飛行するというのにも乗って撮影した。
それなりのスピードで飛んでいるのだろうが、それでも白い氷河は延々と続き、所々に悪意を持ってジャックナイフで切り裂いたような黒いクレバスがあった。

コレクションの「みずうみ」とは関係ないことになるが、この仕事をしながら、感じたことがあったので付記しよう。この仕事というのは、サンフラワー号の宣伝になり、クルーズという雑誌の記事としてなり立っているページを作るための写真を撮ること。
人はそれぞれ自分の「ものを見る距離」つまり、対象物に対して自然にとろうとする距離、そういうものがあるように思えた。その「距離」を肯定的な言葉で言えば「感性」とも言えるのだろうが。その自分の感性を信じることはそれはそれで大事なのだが、人に伝えるときには、その決まり切った感性は、平板な伝え方しかしない、つまり、雑誌の誌面になったときに、読者がページをめくるときに、そのページのどの写真にも同じ距離をとって見てしまうので、変化がつかず、写真の善し悪しとは別に、飽きやすいページ構成になってしまう。ということ。今の自分にとっては当たり前すぎることであるけれども、当時は今よりもものを知らなかった。
いまここで書きたいことはちょっと違うのだが、別の機会に続けようと思う。

また違うことなのだが、氷河→流氷→流氷飴、で流氷飴を思い出す。
大学の友人に網走出身のYがいた。
Yがある夏休み明けに、帰省のお土産に「流氷飴」をくれた。どんな味だったか忘れたが、その流氷飴をたいしておいしくない、というようなことをYに言ったのだった。Yはちらといやな顔をして、おまえには二度とお土産は買ってこない、というようなことを言った。
悪気があったとか、なかったとか、そういうことではない。あの時はすまなかった。氷河はとくにこれといったこともなく思い出すのだが、Yの流氷飴はいまだに溶けきらないで胸の辺りにある。

アラスカの氷河からはだいぶ離れてしまった。

みずうみコレクション(4)四万十川 [旅のこと]

四万十川には、仕事でも行ったし個人的な撮影旅行などでも行った。5、6回くらいは行っているかもしれない。
初めて行ったのは「エンジョイ・アクアリウム」という隔月刊の雑誌(今はない)の「水の旅」というコーナーの仕事だった。このコーナーはレギュラーで撮らせてもらっていたが、毎回あちこちの川や湖などにひとりで行って撮影して文章を書いていた。もちろん編集者と打ち合わせをして今回はどこそこへということは決めるのだが、それ以外は全くひとりで自由にさせてもらっていた。
前置きはそれくらいにして。
その仕事で四万十川に撮影に行かせてもらったのが最初だった。
高知でレンタカーを借りて、四万十川の下流から上流へと川沿いを走り、途中あちこちで車を駐めては撮影した。それからまた上流から下流へとくだった。
四万十川には沈下橋という素朴な橋がかかっているのが印象的だった。沈下橋というのは、欄干を付けてない作りで、水量が多いときには橋ごと流れの中に潜らせて流れに対する抵抗を少なくしたものだった。四万十の清流と緑には、文化・風俗を感じさせる沈下橋はよく溶け込んでいた。どうでもいいことだが、この欄干のない橋を車で渡るときは、怖い。
話を川に戻すが、なんといっても圧巻なのが「最後の」とか「日本一の」という形容詞が付けられるその清流だった。
水というのは色や形はなく、その色も形もないものをどうやってどこそこの湖だとか川だとか海だとかというふうに差別化するか、というのは非常に難しい。しかし、それをしないことには水の写真にならなかった。
それで、四万十川では当然ながらその透明具合を写したいと思うわけで、それがまた悩むところなわけだった。

流れの中に腰の辺りまで入りながら釣りをしているおじさんを見かけた。なかなか風情のあるいでたちだったので、川岸から写真を撮らせてもらっていいかと声をかけた。おじさんは
「おー」と、いいよという返事をくれた。
それで、まあ、他に誰もいないからまあいいかと思って、ズボンを脱ぎ、ウォーキングシューズを脱ぎ、靴下を脱いで、下半身トランクだけになって川に入った。(思い出すとかなりみっともない格好だ)
首にぶら下げたカメラ。足の裏には磨いたように丸い小石があたる。転ばないようにしないと。
おじさんの方にいった。すぐ近くまで行って
「冷たいっすね」と話しかけた。
「それじゃあ、冷たいだろう」とトランクスまで流れに浸かった僕を見て相好を崩した。

おじさんは、釣り糸を入れたまま問わず語りに四万十川のことをいろいろと話し出した。上流のどこぞの川岸で採掘が行われたこと、手長エビがめっきり減ってしまったこと。
「・・・昔はこの川もきれいだったけどな、最近は汚れてきてよー」
といいながら、咥えていた短いタバコを川に捨てた。
おじさん、そうやって川にもの捨てるからじゃないの・・・、と思ったが言わなかった。

四万十川では、このことが一番印象に残っている。
川は勝手に汚れてきたわけではない。誰かが汚したから汚れたのだ。
このおじさん、特段悪い人だとは思わない。ただ、魚籠の中の釣果には神経質になるのだろうが、吸い殻の行方には関心がないようだ。
日本のある種の有りようを象徴しているように思えてならなかった。






みずうみコレクション(3)ガンジス川 [旅のこと]

初めての海外がインドというのは、カレーを食べたことのない人が、いきなり激辛10倍カレーを注文するようなものかもしれない。

インド、ベンガル地方の「軽かった」といっていたところが、いつの間にか今は「凝る肩」になっていたが、そこからワーラーナシー(バラナシ、ベナレス、と当時はいっていた)に電車で行き、そこ、バラナシにあった日本人宿に部屋をとった。
その宿はネズミも出たし、何かが特に良かったわけではない。しいて言えば女将さんが日本人で、日本人しか宿泊しないので、比較的治安がよかった。
その3,4階建てのだいぶ年老いたコンクリートの建物は、ガンジス川沿いに、まさに川に面して建っていた。乾季であれば川の水かさも引き、ガートとよばれる沐浴のための川岸の階段がむき出しになるのだろうが、泊まっていたときは、水位が高く建物の真下まで、ホテルを飲み込むようにガンジス川が迫っていた。
ホテルの最上階にあった食事の間の窓から眼下からガンジス川を見下ろすことができた。
日本では、川上から流れてくるものといえば、大方想像がつく。希有なものとしては大きな桃があるが、実際に見た人には出会ったことはない。ガンジス川では、浮くものでお金にならないものが流れてきた。
時折死体が流れ下ってきた。
うつぶせの男の、男とわかったのは睾丸もソフトボールほどに膨らんでいたからだったが、腹部ばかりではなく全体ががぱんぱんにふくれあがって、顔を水面に埋めたまま、それから両腕も力なく頭の脇に放り投げてあった。
その男は、ちょっとした川の流れの具合でホテルにまとわりつくようにして、少し頭の向きなどを変えながら、いつまでもよどみの中にいた。
食事の間から、僕はしばらく青黒く膨らんだ男を見ていた。

泊まっていたある日、釣り竿それからテグスに針を持っていることを思い出した。
道具を持って川岸に出てはみたものの、どんな仕掛けだったかも覚えていなかったし、だいたい、餌もなかった。
と、ちょうどそこに木製の小舟が漁から戻ってきた。舳先の方に乗っていたじいさんに道具を見せて、どうしたらいいか聞いた。
じいさんは、釣り竿を一瞬いぶかしく見はしたものの、そこは漁師でどれどれと仕掛けを作って、最後に船底に飼っていたのか寄生していたのか、生きたゴキブリを取り出して針につけ、その辺に放り込んだ。
あっという間に釣れた。
のは、大きなナマズだった。
じいさんはそれをくれたので、ホテルに持って帰って日本人の女将さんにやった。
女将さんは、
「カレーにしようかしらね」といってもらった。
宿の食事にするほどの量はないので、宿泊客には出なかった。
台所近くを僕が通りかかったときに、ナマズのカレーを作ったから食べないかといわれた。
僕はもらわなかった。


みずうみコレクション(2)カスピ海 [旅のこと]

パキスタンのクエッタという町からバスに乗ってイランに入ったのだが、そのとき同じバスに乗り合わせた日本人ひとり旅のSとテヘランまで同行した。
イラン・イラク戦争中だったことがあって、テヘランまでたどり着いた頃には、彼はストレスがたまり一刻も早くイランを出たがっていた。僕もストレスはたまっていたものの、カスピ海を見てみたいと思っていたので、そこで別れることになった。
最終的には、彼がトルコまでの長距離バスに一日早く乗った。

そして、次の日僕はカスピ海までのローカルバスに乗ることになった。
テヘランからカスピ海までは、何という名前だったかそこそこ高い山脈を越えてゆく。
峠を越えテヘランの向こう側を下り始めると、快晴の乾いた空気から一変して、空気が全体に白っぽく重ぼったくなってきたのを覚えている。
二月か三月の寒い季節だった。
海岸のどのあたりでバスを降りたのか全く覚えていない。小さな村だったような印象があるのは、すべてがもやに包まれていたからかもしれない。

バスを降りると、カスピ海まではすぐだった。
そこは、たまたまそこは、小石と砂とが緩い弧を描き、遠浅から透明で小さなさざ波が寄せては小石と砂に吸い込まれていた。
形のわかるものはそれだけで、すべては深いもやの中だった。
太陽の方向も全く見当がつかないほどに深く閉じ込められた世界だった。
浜を、どちらにということもなくふらふらとしていると、もやの遠くから手こぎボートのきしむ音。そして、櫂から飛び散る水音。そして、話し声が聞こえてきた。漁師だろう年老いた男たちが何かしら言葉を交わしている。もちろん何を言っているのかわからない。
そのなかで、ただ一語わかったのは、
「ハラショゥ!!」
ここはもうそういう文化圏なのだなあ、と思うとずいぶんと遠くに来たものだという感慨があった。
そんな感慨を別にすれば、僕のカスピ海はもやに包まれ、その大きさを想像することもできないままだった。

僕には海がわからない。
日本海を海だと思っていたし、太平洋も海だと思っていた。生まれ育った町の外れには白龍湖という「湖」があって、それは周りを囲まれているので、当たり前のことながら湖だった。
たぶん、小学校の3年か4年のころだったのではないだろうか、世界地図にカスピ海を見つけ、白龍湖よりはだいぶ大きいだろうが、それでも陸に囲まれたこの湖を
「なんでこれが海なんだべ・・・」
と不思議に思いながら地図に見入ったことを覚えている。
ちなみに今の僕には「海」は大きな水たまりかな。











みずうみコレクション(1)前書き [旅のこと]

僕は海から遠く離れた盆地の町で生まれ育った。
生まれて初めて海をみたのは、いつかは覚えていない。
高校生くらいからだろうか、海に対するあこがれは強くなったように思う。それが理由で海岸沿いにある市の大学に行ったわけではない。(入ることができるところが限られていただけだった。その大学でなければ琉球大学を受けるつもりだった。……関係なかった)
その市には港もあったが、千代の浦という浜があって、・・・それもコレクションしているので、いずれ書く機会があるかもしれない。
気がついたら、という言い方で大きく間違いはないと思うのだが、海や湖や川の、そういった水たまりの仲間のようなものを、心の中でコレクションしていた。メモしておいたわけではないし、ただ思い出・印象としてなんとなくコレクションしていただけが。
それをいつからか僕は「ミズウミ・コレクション」と名付けていた。

コレクションの趣味はない。といいながらも海外から帰るときに、その国の使いそびれた小銭を持って帰って何となく集めている。その国の文字で書かれているものは、ほとんどどの国かわからなくなっている。ブータンの神社で古銭を拾って、ガイドのにーさんにどうしよう?と聞いたら、「大丈夫、もらっときな」といわれ、そのままもっている。この一枚も布袋の中に混じってある。
外国の切手を少し。国によっては全くおもしろくないが、チェコスロバキア(当時)の絵柄の素朴さと紙質の悪さ、それに吐きそうになるくらいの質の悪いのり。そんなこともコレクションしていた。
それから、エアラインのシルバーも集めていた。今はどの航空会社もファーストクラスは別にして、フォークとナイフはプラスチック製だとか聞いた。もう二度と乗ることのないエアラインのシルバーもだいぶ持っていたが、以前沖縄に引っ越したときに友人に分けて手元にはほとんどない。誤解ないように付け加えると、勝手に持ってきたのではなく、ちゃんと了解をもらって頂戴してきたものばかりだ。

僕のミズウミ・コレクションは、たとえば埃をかぶったジュークボックスのようなものだ。何かの気まぐれで針を落とすことがあると、ひとりその時代のその世界に帰ってゆくことができるような、僕にとってはそのようなものかもしれない。
久しぶりにコインを入れて……。まだ動けばいいのだが。






ボリビア、コロニア・オキナワにて [旅のこと]


過日とある印刷物に載せたものを、転載したいと思う。ボリビアの日本人町としては、コロニア・サンファンというところもあって、そこでも移民1世の方にはお世話になった。衛星放送があって、リアルタイムでNHKを見ることができた。衛星受信できないところの奥さんが、夕方「朝の連続テレビ小説」を見に来ていた。

・・・・・・・・・・・・

もう20年も前のことになってしまうが、ボリビアのコロニア・オキナワというところを訪れたことがあった。その名の通り沖縄からの移民が築き上げた町。
移民一世の方々は大方80歳前後となり、やるべきことは既にやり遂げ、そして、当時はゲートボールに打ち込んでいた。
午後の3時きっかりに集まり練習開始。時間を計り俊敏にボールを打ち、てきぱきと次の人に代わる。背筋のピンと張ったウチナンチュたち、全南米大会でも指折りの強さだというから驚きだ。
そこで知り合った大城さんにお誘いを受けてご自宅にうかがうと、早速度数の高いお酒が出され、大城さんの苦労話や笑い話を肴に過ごした。
夜も更け酔いも回ると、大城さんは三線を取りだしてひとり弾き始めた。三線の音は異国の夜に吸い込まれてゆく。目を閉じながらも指はなめらかに動き、哀切な弦の響きが流れ続けた。
地球の裏側の故郷をどんなふうに思いながら三線を弾いていたのだろうか。







海外ひとり旅の事件簿(9)デングフィーバー!! [旅のこと]

「フィーバーする」などというのは、死語になったのだろうか。
最近の言葉たちは寿命が短くて・・・。もっとも、4000年前(?)のメソポタミアのくさび形文字を解読したら、
「最近の若者は言葉が乱れている」
などとも書いてあったのだそうだ。そういう意味では、言葉は常に変化し続けるもののようなので、言葉の寿命が短いというのも不思議でも不自然でもないだろう。
最初から道草を食ってしまった。

サモアの首都、と書いて思い出せなかったのでちらと調べた。そうそう、アピアだった。
僕はアピア滞在中にデング熱にかかった。(いまさら知恵熱でもないだろうから、まあ、間違いない)
泊まっていた安宿は、町の中心から歩ける程度の町外れにあって、のんびりしたところだった。(アピア全体のんびりしているが)町の中心からアスファルト道路をしばらく歩いて宿に帰るのだが、宿の手前50メートルほどだろうか、小川が流れ丈の低い茅が生えているところを通る。
そこで何度かさされてしまったのだ。
安宿にはイギリスの医学生の団体が研修で泊まっていた。その医学生と相部屋だったのだが、僕が熱を出して寝込み始めると、彼は大丈夫か、とか心配してくれはしたものの、心配するよりもうつされないか心配だったのを隠せず、彼がいる間蚊取り線香を絶やさないようにすると、それはベリーベリーグッドだ、と何度も言っていた。
人にはそれぞれ旅の道具が違うわけだが、僕にとっては南方旅行の必須アイテムにキンチョウの蚊取り線香があった。(イギリスには蚊取り線香はあるのだろうか?)
イギリスの医学生は20人ほども泊まっていたので、相部屋の彼は、仲間の部屋に遊びに行っていることが多く、部屋にはほとんど寝に帰るだけだった。デング熱にうかされた男と一緒にいたくないのは当然だ。
僕はうかされながらも「時間が経てば大丈夫」という確信があった。(根拠のない確信というものだろうか)
それで、熱にうかされながらもとにかく寝て、日中に一度、近くの中国系のおばさんがやっている雑貨屋に食料を買いに行って、帰ってまた寝て、ということを一週間くらい繰り返した。それで何となくもとにもどった。
デング熱は、マラリアに比べれば遙かに致死率は低いが、死なないわけではない。
この時はまだ母は生きていたので、母が僕がこんなことになっていると知ったら、心配で心配で心配でたまらなかったことだろう。

今書きながら、どうしてマラリアではなくデング熱と確信したのだろうか?と思う。事前に読んだガイドブックにデング熱の汚染地域と書いてあった印象が強かったのかもしれない。マラリアの汚染地域でもあるはずだと思うが。

イエメンにいたとき、マラリアで入院した日本人旅行者を見舞いに行ったことがあった。見舞いに行ったときには容態は落ち着いていたが、話を聞くと、本当に死んでしまうかと思ったらしい。
マラリアは地域によって千差万別ある。日本で予防薬を買ってゆこうと思っても、合うかどうかわからないので、買いようがない。だいたい、日本ではマラリアの薬を買うこと自体かなり面倒くさい。
短期間であれば「ダメ元でこれ飲んでおこう」ともできるが、マラリアの薬は身体に負担が来るので、長い旅をしているとむやみに飲みたくはない。

話が蚊の飛ぶようにあちこち行ってしまっているが、知り合いの沖縄のねーねーと話をしていると
「あの、筋の入った蚊、いるよー。昔からいるさぁねぇー」
という。ヒトスジシマカ、のことだろう。本土にもいることはいると思う。
もちろん沖縄でもデング熱はなくなっていることになっているが、
「免疫があるのかわからんけどよ、罹ってもわからんのと違うかねぇー」
とのこと。そのあたりは、僕としてはコメントしようがない。
口蹄疫、鳥ウイルス、マラリア、狂犬病、PM2.5、・・・。直接目に見えないものは恐ろしい。




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