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『アサヒカメラ』に載った最初の写真 [カメラマンになる周辺など]



この写真は『アサヒカメラ』の「中高校生のひろば」みたいなコーナーに載ったもの。見てみると興譲館高校となっているが、投稿したのが高校生の時で、実際に撮ったのは中学2年のとき。棒を持っている先生は中学2年生のときの担任で数学のY田先生。(愛のある先生だったな〜)転任になったので中2の時でまちがいないと思うが、ひょっとしたら1年の時かもしれない。(どっちでもまああまり変わらない)
今なら体罰だとかなんだとか問題になってしまうが、こんなことではそんなことを誰も考えなかった。(少なくともこのときはそうだったろうと思う)
この写真以前に、新聞に写真が使われたことがあった。夜の10時ころだったろうか、家のすぐ前で交通事故があり、その音でカメラを持って飛び出したのだった。ストロボをたきながらいろんな角度でバシャバシャと撮っていると、そこに地方新聞の記者が遅れてきた。その記者にフィルムを貸してもらいたいというようなことを言われ、渡したのだと思う。後日、彼が現像したそのフィルムを返してもらい、使用料として3000円もらったように思う。やはり高校生のことだった。
話しがそれたが、この写真がカメラ雑誌に載った初めての写真。
学校の帰りに、デパートに入っている書店でアサヒカメラのこの号を立ち読みし、パラパラとめくりながら自分が撮った写真に出会ったときは突然のことで驚き、そして嬉しかった。
写真を大きくして見ると、学級目標らしきものに「協力しよう」とあったりとか、赤線で囲んだ写真の評とかが何となく読めておかしい。
アサヒペンタックスSP、レンズは50ミリf1.8で撮影。(55ミリだったかな、忘れた)
ちなみに、高校時代のその後にとある写真コンクールで入賞してニコンのFMというカメラをもらった。それからはニコン派になっていった。今は派閥に属していない。



IMG_8957 のコピー.jpg

カメラの歴史、ったって個人的な(3) [カメラマンになる周辺など]

コンパクトカメラもいくつか使ってきた。
水中で使えるニコンのカリブというカメラを買った。そこそこごつい感じで好き嫌いがひとによってあるかもしれない。
水中では使ったことがあるかないかくらいなのだが、アジアの「みずかけ祭り」みたいなところで気楽に泥まみれになることができる。もっとも、いまでは土地の人もカメラには気を遣って、カメラを持っているとわかると、水をかけたりはしないようにしてくれた。そうやって使った後に水洗いできるのもまたよかった。残念なことに、裏蓋を開閉するつまみが壊れ、部品がないということで修理不能になったままお蔵入りになってしまっている。
リコーのGR1というカメラは高かっただけあって優れものだった。ちょっとした仕事でも充分な画質だったし、大きさもよかった。男性用のシャツの胸ポケットにちょうど入る大きさだった。首からストラップをつけて胸ポケットに入れておくと、どうしてもさっと撮りたいときにセカンドカメラとして使ったり、海外の撮影だと、たとえば仕事が終わって晩ご飯に行くときに、一眼レフを持って行くのはおっくうだが、何かしらカメラを持って行きたいときに活躍した。
ニコンの28Tiというコンパクトカメラも買ったが、これはあまり使われなかった。これも高価なコンパクトカメラであったが、性に合わないところがあったのだろう。使ってみないとわからない。
オリンパスの手頃なコンパクトカメラも使ったことがあった。(名前は覚えていない)ごくごく普通のコンパクトカメラだったので、ごくごく普通に使ったのだった。何も問題はなかったが、山奥に住んでいるSさんの所に行ったとき、そこの家にはカメラがないことがわかって、置いてきた。
僕が手にしたコンパクトカメラで、ダントツに好きなのが、ローライ35(Rollei35)だ。とにかく小さくてかわいい。レンズもカールツァイスの流れを汲んだものでローライのライセンス生産のテッサー(Tessar)。と書きながらも、使ってみて「やっぱりテッサーはいい味してるな」などと違いは僕にはわからない。
露出計がついているが、絞りもシャッタースピードもピントもマニュアル。ピントは距離のメモリが書いてあるだけで、カンで合わせる。こういう作業を不便だと感じる人には向かない。こういう作業を自由だと思える人に向く。
首にぶら下げて新宿をあるいていたときに、女性に「かわいいカメラ!!」といわれたことがあった。僕がかわいいわけではない。
銀塩の時代が続いていたら、散歩にはこれを持って出かけたい。持っていることが楽しいカメラはいい。

思い出せるものをつらつらと書いてみた。デジタルカメラももちろん持っているが、ここには書かない。


これを書いている今、台風19号が来ている。中心部は朝方通り過ぎたが、なんせのんびりとしたヤツでしかもでっかいときているからやっかいだ。一昨日の夕方から雨戸は閉めっぱなし。庭を覗くとなんだかスッキリしてしまったような感じ。隣家との隙間を灰色の風が吠えながら直線の束になって飛んで行く。

カメラの歴史、ったって個人的な(2) [カメラマンになる周辺など]

大学に入ってFMの後継機になるFM2を買った。このカメラも僕にはしっくりくるものではあったが、強いてどちらかといえばFMのほうが性に合う。それを書いて説明しようとするとするとなかなか大変なので、ここでは省略したい。
レンズは28ミリ、105ミリ、300ミリ、などと買い足していった。
次には、マミヤのユニバーサルプレスという6×9判のカメラを、奨学金がまとめてでたときに買った。これは究極のマニュアルカメラというか、きわめて原始的なカメラだった。
この原始的なところに功罪があって、罪は安全機能がないのでとにかくミスが多かった。引きブタをしたままシャッターを押す、引きブタを抜いたままフィルムバックを外してしまう、意図しない多重露光をしてしまう、などなど。
多重露光が簡単にできるというのは、これはこれで便利なところがあって、友人のYにデータを作ってもらって、皆既月食の連続写真を撮った。月は満月と三日月とでは明るさがとても違っていて、何時何分に皆既月食なので、その前の何時何分にはどのくらいの露出、つぎには何時何分にどのくらいの露出、というふうにデータを作ってもらったのだった。僕は教育学部の国語科にいたが、Yは理科にいた。理科はやっぱり頭が違う。真冬の暗い公園に行ってガチガチになった雪に三脚をさして撮影したのが懐かしい。
大学時代に、FM2をもう一台買った。

カメラマンとして独立したとき、このFMとFM2が2台の、都合3台だった。仕事が回転しないうちはどうしようもなかったが、ギャラをもらうようになると、すぐにこれではいけないと、当時のニコンの最高級機だったF3Pを2台買った。一般にはF3として出回っていたが、「P」がつく分ちょっとだけ違っていた。ちなみに、この「P」は、きっとプロフェッショナルのPか、プレスのPだと思うのだが、いまだに正確なところは知らない。
いずれにしても、このF3Pは、僕の写真生活において、一番お世話になったカメラだ。本当にいいカメラだと思う。なかなか壊れないし。それに何よりも視野率100パーセントというのが、仕事上では必要だった。
これは、完全なマニュアル機というわけではなく、電池が切れると不便するものではあったが、まあ、モータードライブから電池を融通するので切らしたことはない。しかし、どういうことがあるかわからないので、同じ形をした完全なマニュアル機(たとえばF3Mechanicalのような名前で)を作ってもらったら、プロでニコンを使っていれば必ず買っただろう。特に海外などへの長い撮影旅行には持って行きたい。
話がそれたが、仕事をし始めてからはレンズを買い足していった。14ミリ、20ミリ、24ミリ、28ミリ、35ミリ、50ミリ、55ミリマクロ、85ミリ、105ミリマクロ、180ミリ、200ミリマクロ、300ミリ、300ミリ(f2.8)、500ミリ。忘れているのもあるかもしれない。
ちなみに、もし旅行に1本だけというなら、20ミリ(f2.8)を持って行きたいと思う。
仕事用にマミヤRZという中判(6×7)のカメラも買った。RZは大きくて重くて、仕事以外では使ったことがない。
次に、その頃に買ったコンパクトカメラのことも書きたいと思う。



カメラの歴史、ったって個人的な(1) [カメラマンになる周辺など]

ひとがどんなカメラを使ってきたかなど、興味がないだろうが、自分自身のメモとして書きたい。
小学2年生頃になると思うが、おもちゃのようなカメラを自分のお小遣いで買った。これは、8ミリ幅(たぶん)のロールフィルムを入れて実際撮ることができた。シャッターは簡単なバネ式、絞りはなく(たぶん、F16とか、22くらいだったのだろう)、ピントはもちろん固定。どちらかというと針穴写真に近い。
このフィルムの現像はカメラ屋も困ったようだったが、やってくれた。友だちのKの輪郭が映っていたのを覚えている。
8ミリのロールフィルムは、カメラを買ったプラモデル屋(模型材料店)に、カメラと一緒に商品になっていたのだが、その店もよくそんなものを置いておいたものだと思う。後にも先にもその時しかそのフィルムは見ていない。
1,2年経ち、そのころうちにはカメラがなかったので、うちでコンパクトカメラを買った。当時はヤシカが頑張っているような時代で、「明るくても、暗くても。ヤシカC−35」などというコピーがテレビから流れていた。うちで買ったのがそれかどうかは覚えていないが、ヤシカのカメラだった。小学4年頃だったように思う。カメラらしいカメラは初めてだったから、喜んで使った。そのカメラを持って自転車で出かけたりした。しかし、物足りなさを感じるには時間がかからなかった。
小学5年頃、母に月賦で一眼レフのカメラを買ってもらった。アサヒペンタックスSP。
http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-05-21
このときのことは、ここに書いている。
当時、アサヒペンタックスSPはよく売れたカメラだった。レンズが「スクリューマウント」といって、なんのことはないただのねじ回し式のマウントだというような欠点(というか、時代遅れなところ)はあったが、いいカメラだった。
お小遣いを貯めては28ミリとか105ミリを買っていった。
小学校の高学年から高校にかけていろんなものを撮った。朝一の電車に乗ってうちよりさらに田舎にいって軒下に干してある干し柿を撮ったり、高校の文化祭でピンクレディーの「UFO」を踊る同級生の女の子を撮ったり、飼っている猫を撮ったり。
そんなものしか撮らなかったが、それでも僕を自由にさせてくれるには充分な道具だった。
この頃から一眼レフ(フィルム)の時代だった。僕自身は一眼レフ(フィルム)の時代に生まれ合わせたことを感謝している。
高校生の時に写真のコンテストに入賞してニコンの「FM」というカメラを賞品にもらった。このカメラは、SPもそうではあったが、このニコンFMも完全なマニュアルカメラで(露出計等は電池がないと動かないが、写真を撮る働きとしては電池がなくとも機械的に動くという意味)性に合っていたし、手になじんだ。
カメラマンをしていると、時折「こうこうこいうように使いたいのだけれど、どのカメラがいいか」と聞かれたりする。じつは、カメラというのはカタログに載っているスペックでははかれないものがあって、それは、手になじむか、何となくしっくりくるか、デザインも含めて持っていて気持ちがいいか、といったようなこと。カメラは身体の延長線上にある。その延長線上のカメラは、カメラとしての性能は大事ではあるけれども、それ同様に、「それは私の延長線上のもの(道具)だ」といえるか、というのは重要なことだ。SPもそうだったが、FMも自分の延長線上のものだった。
システムとしてはSPには未来がないのはわかっていて、いずれは違うものにしなければならないのはわかっていた。互換性のない他社になかなか踏ん切りがつかなかったが、これを機会にニコンになってゆくことになる。






あれから50年後のヒロシマに僕はいた [カメラマンになる周辺など]

今日は、あれから69年たった。
僕は、あれからちょうど50年後の時に、仕事でヒロシマにいた。
暑い一日だった。
式典が始まる前から、一日の酷暑を思わせる暑さだった。
式典、原爆ドーム、路面電車などのヒロシマの風景、それから被爆者の取材、
などが詰まっていて、最後の撮影は、
川面を哀しげに流れゆくたくさんの灯籠だった。
一日が終わったときには、身体は吹き出ては乾き、乾いては吹き出た汗で
べとべとだった。
僕は、この日ヒロシマにいるということを、
なにかとても大切な、かけがえのない体験のように思えた。
だからどうだということではないけれど、
今でも、そう思う。

今日はひどい雨だった。


Aスタジオ顛末記11〜これぞ職人というもの〜 [カメラマンになる周辺など]

いずれはK多さんのことも書きたいと思っていた。
しかし、書きにくいなあとずっと思っていた。どうして書きにくいのかというと、毎日淡々と職人技をこなしてゆくから、なにがどう凄いと説明するのが難しいのだ。たとえば同じように職人技のN澤さんなら、夕陽での撮影でポラを切ったら露出が大はずれで「何やってんだ!ばかやろー!!」とポラホルダーを砂地にたたきつけながら怒鳴られたり、というようなことがあったりするのだが。K多さんもそんなふうに感情が激することもあるだろうとは思うが、K多さんは奥歯をぐっとかみしめる人なのだ。

Aスタジオにロケアシスタントを依頼するのは、たいがいはスタジオのOBで、K多さんもその一人なのだが、同じスタジオマンが行った方がカメラマンにしてもスタジオマンにしても都合がいいので、自然と「担当」のようになって、同じカメラマンの所に行くことになる。
僕は、K多さんのところに長くロケアシスタントとしてお世話になった。ロケアシスタントというと屋外にゆくイメージだが、ほとんどはK多さんのスタジオでの撮影だった。
僕が世話になっていた頃、K多さんのスタジオは赤坂にあって、六本木の大きなホテルのあたりから赤坂に抜ける細い通りをちょっと入った所にあった。朝、住み込んでいた麻布のあたりから芋洗い坂を登ってそこまで行って、夜は六本木のネオンの中をへとへとになった身体を引きずって帰ってゆく。
事務所兼スタジオの玄関には「K多写真事務所」とシールをはった看板があったが、いつからだろうかその看板の「事」が落ちていて、「ムショ」になっていた。Aスタジオとはいいながら、住み込んでいたのは「タコ部屋」だったから、タコ部屋からムショ通いをしていたということになる。
あほな話はさておき、
K多さんは商品などの「物」を専門に撮っていた。いわゆる「物撮り」を専門にしていた。
K多さんのスタジオでは、深夜・朝方までの撮影になることもよくあった。

リンゴ(アップル)が表紙に写っているわりと売れているマップがあるが、あのリンゴもK多さんが撮っていたことがあった。
デコラ板の上にリンゴを1個のせて、カメラ位置からリンゴを凝視するK多さん。この向きはどうか、この角度はどうかと長いこと見つめ続ける。そのあと、僕はテントレ※の上から当てたストロボを前に動かしたり後ろに動かしたり、光量を上げたり下げたりする。これでどうかというところで、K多さんは4×5のポラロイドをきる。ポラを切っては明るい蛍光灯の下でチェックする。ときどき「これはどう思う?」などと聞かれるが、僕にはよくわからない。
そのうち壁にびっしりとリンゴのポラロイドが貼られ、早く撮らないとリンゴがしわしわになっちゃう、などと思っている僕とは違い、それでも納得がいくまでリンゴに向き合っているのだった。そもそもK多さんは、リンゴがしわしわにならないようにエアコンを効かせて、ちょっとした冷蔵庫状態にしていたのだった。先の先までいろんなことを考えているのだ。
K多さんの仕事は一見地味だったが、万事がそんなふうに慎重で、完璧なものを求め続けた。他のいろんなカメラマンにも大切なことをたくさん教わったが、K多さんにも仕事人としてのカメラマンというものの在り方の大切な本質に触れるものを教わったように思う。

僕が独立してから、僕にきた物撮りの仕事で、これはいろんな意味で僕の手に負えないという撮影があった。カクテルグラスに瓶から注いでいるところの写真と、そのカクテルグラスが飲み終えた状態で置かれている写真、というものだった。だが、注文はそれだけではなく、その2枚の写真がいいぐあいに重なり合わないといけないものだった。(・・・説明するのが難しい)
手に負えなかった僕は、K多さんは忙しいし、K多さんの撮影料の相場も知らないながらも「もしよろしければ、もし失礼でなければ、合わないようでしたら本当に断ってください」と念を押してそこを紹介した。
K多さんは快く引き受けてくださったようだった。
その編集者に別件で後日伺ったときに、彼は
「そうそう、すとちゃん、K多さんの写真、凄いよ。」といってK多さんの撮った写真を「特別に」見せてくれた。
本当にきれいな仕上がりだった。
同業者としてこんなことを言ってしまっていいのかと言われそうだが、K多さんのこの写真なら仕方がない、僕にはこんなに美しくは撮れないと思った。編集者が感動したのがよくわかる。
それに、万が一にもすとうに迷惑をかけてはいけないからと、いつもにまして気合いの入った仕事だというのが写真を見ていて伝わってきた。(勝手な思い込みかもしれないが、きっとそうだと思う)
そういう人なのだ。

今年の5月にK多さんからのインクジェットでプリントアウトしたはがきが届いた。
5月末で事務所を閉め、現役を引退するということが、淡々と書いてあった。
驚き、そして、寂しく、それから、改めての感謝の思いもあり、あれほどの職人がというもったいないと思う気持ちもあり。ひょっとしたら身体をこわしたのだろうかなどなど、いろんな思いが交々に湧いては胸に痕跡を残していった。
K多さんのムショに通ったのが懐かしい。
物を見るときは厳しいけれど、人を見るときは優しい、K多さんのあの笑顔が懐かしい。









※テントレは、撮影台の上に、天井のように張ったトレーシングペーパーのこと。「天トレ」。ストロボをそのトレーシングペーパーの上からあてて、光を柔らかくする。

Aスタジオ顛末記10〜キャベツの千切りが得意なわけ〜 [カメラマンになる周辺など]

Aスタジオにはこのようなことを知らないで入ってしまったのだが、年功序列で一番下が、つまり一番後に入った者が食事を作らなければならなかった。これを知ったときこころから「失敗した」と思った。こころから失敗したと思ったことは、その後もたくさんでてくるので、振り返れば、まあ序の序の口といったところだが。
それまでは、大学のひとり暮らしで野菜炒めとかカレーライスとかは作ったりしていたが、他の人の口に入るものを作らなければならないとなると意味が違う。
Aスタジオには高校・専門学校・大学などを卒業してやってくるのがほとんどだった。僕が入った当時でそんな若い連中が10人ほどいた。僕らは一日中よく身体を動かしていたから、とにかく腹が減る。それに楽しみといったら食べることくらいしかないから、どうしても食うことにはうるさくなってくる。
Aスタジオの食事は一日2回、朝飯と晩飯。朝から掃除をしたりロケに出たり、もちろんスタジオでの撮影があったりだから、ブランチの時間の朝飯は作り置きしておいて、手の空いた者から各自で摂ることになる。晩飯は、スタジオに入っているのは仕方がないとして、スタジオマンがみんな一緒に摂っていた。
僕が入ったときのチーフは、人一倍味にはうるさかった。今にして思えば、写真を撮る人として大切なことをたくさん学ばせてもらったと思うが、その頃はまだまだそうは思えなかった。

先輩に食事の段取りは一応教わり、それに、料理の本も何冊か置いてあったので、それを見ながらどうにかこうにか作ることになる。これも仕事と一生懸命作った。
金曜の夜はカレーライス、火曜日の夜はトンカツと決まっていた。メニューを決めるのも一苦労なので、これが決まっているだけでもありがたかった。
そんな生活のまだ間もない頃、トンカツの食事の時にチーフが不機嫌な顔をして、キャベツの千切りを箸でつまんで言った。
「誰だ、この千切り切ったのは」
「ぼ、僕ですが・・・」(ストウ、おずおず答える)
「馬の餌じゃねえんだぞ!!!」
チーフは吐き捨てるように言って、箸に取ったキャベツを皿に投げつけて戻した。
たしかに、いわゆる千切りの幅の20倍はあった。というか、それを千切りとは言わない。
それでも、俺は一生懸命作ったのにそんな言いかたってないだろう・・・と思うと、悔しさと悲しさでいっぱいになったが、
「すいません」
と一言言って、とにかく耐えた。ちきしょう!と思ったが耐えた。

料理のことなのでついでに書くと・・・
あるときご飯にグリンピースを混ぜて炊き込んだ豆ご飯を作ったことがあった。
チーフは、茶碗から箸でグリンピースをつまみ上げ、また吐き捨てるように
「俺はこれが大きれえーなんだよ」
と聞こえよがしに言って、グリンピースを一つひとつ箸でつまんでは取り出して全部捨てた。
ちきしょう一生懸命作ったんだぞと思いながら、その時も耐えた。

僕の一番下生活は、途中いろいろあったものの、一年くらい続いた。食事作りは、すぐ上の先輩が手伝ってくれたりしたこともあった。それに、おいおいと僕もロケアシスタントに出たり泊まりの仕事もあったので、そういうときはほかの先輩が作ったが、それ以外は、一年間も毎週毎週トンカツあげたり千切りを切ったりしていた訳だ。台所に立って千切りをするたびに、ちきしょう!と思いながら。

スタジオ生活にもすっかり慣れたころのあるトンカツの晩、チーフが千切りをつまんだ。そして、また言った。
「誰だ、今日の千切り切ったのは」
「僕ですが」(ストウ、普通に答える)
何を言い出すのかと思う。この晩飯何か問題あるわけ?と思う。
「この千切り、98点だな、・・・いや、100点だな」
と言った。
おれ、別に料理を勉強しに来たわけじゃないし、100点もらってもな、だいたい点数付けられる筋合いじゃないしと思いながらも、
「ありがとうございます」
と答える。

その頃は、普通に千切りができるようになっていたので、もうどうでもよかった。
キャベツの千切りがかなり得意なのは、そんなわけだった。
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「亜愛一郎の事件ファイル」(ってタイトルだったかな?)    ・・・宣伝です、すいません [カメラマンになる周辺など]

この仕事の話がきたのは、今年の4月、まだ上田にいるときだった。
テレビ番組の制作会社の知らない女性からメールがあって、要はこうだ。
人の顔を撮っている天才カメラマンが主人公のサスペンス番組を作るのだが、その設定で主人公の部屋には彼が撮った人の顔の写真が所狭しと張りめぐらされている。その写真にすとうの写真を使わせてほしいのだが・・・。
その後やりとりがあって、それで「すべて僕の写真を使うということだったらいいです」と返事をし、そういうことになった。
メールをくれたのは助監督のKさんで、Kさんはゴールデンウィークに上田にやってきて、かき集めておいた海外で撮影した写真のデータのやり取りをし、それから、上田城のあたりとか青木村の道の駅とかで、行楽の家族やカップルに声をかけて(ここがKさんのだいじな仕事)撮り足した。
結局、主人公の亜愛一郎(あ、というのが姓、あいいちろう、というのが名)が撮った写真のうち、いろいろあって竜雷太の写真を除いて、すべて僕の写真が使われているらしい。らしいというのは、できあがったものを見ていないので。
それで、つい先日その制作会社のTさんから電話があって、

11月13日(水)午後9時から
水曜サスペンス(ミステリー?)「亜愛一郎の事件ファイル」(?)

東京12チャンネル、じゃなかった、テレビ東京系列で放映されるのだそうだ。ちなみに、主演は市川猿之助。どんな使われ方をしているのか不安と期待が入り交じる(不安が9:期待が1くらいかな。いや、不安が97%かな)。うちにはテレビがないので僕自身はテレビでは見ないのだろうが、自分が見ないのに言うのも何だが、よろしかったら見てみてくださいね。以上、宣伝でした。
それにしても、天才カメラマンが主人公という設定で、僕の撮った写真を使って大丈夫なのだろうか・・・。その件クレームがきても、僕のせいではない。
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Aスタジオ顛末記9〜くさやスナックでカラオケを歌う〜 [カメラマンになる周辺など]

そういえばこんなロケに行ったことがあったことを思い出したので、今頃だけれども書き足そうと思う。
Aスタジオを御用達にしてくれていた大御所のカメラマンIさんの仕事だった。もちろんアシスタントもいるが、Aスタジオからもロケアシスタントとして2人いった。
新聞の全面広告用の撮影で、撮影するものはフロッピーを入れる特殊な紙でできたケース。それを300枚くらい割り箸で立ててドミノ倒しのように並べ撮影するというものだった。
ロケ地に選ばれたのが三宅島だった。火山が噴火してできた一面が礫の丘陵。そのさまが、SF映画の火星の風景に使われそうな、そんな日本離れしているというより地球離れしている、そんな風景のところがロケ地だった。

島に行って探しに探してどうにか撮影場所が決まると、イントレを2段に組んだ上で大判カメラのアングルを決めた。次に割り箸を刺せるように準備している僕たちに、Iさんがハンドマイクを口にして「もっとも右、もうちょっと」だとかの指示をして、それに従って延々と割り箸を突き刺して紙のケースを立てていった。
初日はそんなことをしながらIさんがめどが立ったと思ったところまでやって、マークキングをしながら割り箸を抜いた。そして、イントレをがっちりと固定して、三脚の石突きの位置などもにマーキングをしておわりになった。

その晩は、連れだって飲みに行くことになった。宿の人に聞いたには、島にはスナックが2軒あるということで、だいたいの場所も聞いて、それで適当にどちらかに行くことにして出かけた。
一軒のスナックにはいりテーブルに着くと、島生まれだろう愛想のいいお姉さんが皆におしぼりをくばってくれた。
手渡されたおしぼりで手を拭くと、・・・ちょっとこのおしぼり臭くない?と心の中で眉間に少し皺が寄った。
これって、何の匂いだったかなと鼻を近づけてもう一度匂いをかいだ。そう、くさやの匂いだ。ここ、くさやの産地だからね。でも、どうしておしぼりに匂いがつくかね。好きな人にはたまらないらしいこの匂い、ぼくはかなり苦手な方だと思う。手にもくさやのにおいが移った。
ビールやらおつまみやらをオーダーして、まず出てきたお通しは、これまたくさやだった。
スナックといっても女性が同席してお話しするということもないスナックで、お酒の出る喫茶店が夜もやっているといった程度の健全性だった。
はじめのビールが終わるとウイスキーになり、年功序列、僕が水割り作りに励んだ。近頃はどうなのかわからないが、当時はきっちりと年功序列の残っているカメラマンの世界、上からの指示命令は絶対的なものがある。
水割りをみんなに作ってはちびちびグラスを口に運んでいた。
そのうち酔いも回って、みんなはマイクを握ってはそれぞれにはやり歌を歌い出した。体をくねらせて声を振り絞ってのりのりに歌い始める先輩もいた。
Iさんがふいにこう言った。
「おい、すとうも何か歌え」
ぎく。僕は応えた。
「僕、本当に下手ですから、勘弁してください・・・」
一応食いさがってみた。Iさんは
「いいから歌え」
がっくり。すとう、
「・・・はい」

仕方ないから歌本で何か選んで歌った。途中まで歌ったあたりで、スタッフとしゃべっていたIさんは言った。
「すとう、もういいから」
すとう
「・・・」
だからへただって言ったのに・・・。
ちなみに、それ以来いちどもカラオケで歌ったことはない、と思う。心理学の用語でトラウマという。


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焦点を合わせること、またその周辺のこと [カメラマンになる周辺など]

一連の「人間遺産」の仕事で撮ったような、人の顔のアップの写真のピントについて少し書きたいと思う。
人の顔というのはかなり立体的なもので、あの撮影の現場では明るさの条件が悪いことが多く、そのようなときは絞りを開放にしてそれに合わせてシャッタースピードを決めるという撮り方をしたから、ピントが合う奥行きはそれほどないことが多かった。パソコンの画面で見ているにはそれはわからないが、大きく伸ばしたオリジナルプリントでは、明らかに被写界深度が浅い写真が多いことがわかる。※1
人の顔を撮る時は、ごく特殊な場合を除いて目にピントを合わせるのが基本だ。顔とはいっても目にピントが合っていないと「ピントが合っていない」と感じる。心理学的にもおもしろい考察になると思うが、ここではそれはさておく。
レンズに対して顔が正面を向いていれば、基本的には両目に対して距離が同じなので両目にピントが合う。斜めから見れば距離が違ってくるので、どちらかの目にピントが合って、どちらかにピントが合わないということがおこる。その場合には、より近い方の目にピントを合わせる。その方が一般的には自然に見えるように感じる。被写界深度が深い場合ならともかく、浅い場合は特に不自然に見えやすい。
いずれにしても目にピントを合わせるのだが、ここでもうひとつ問題が起こる。
目は立体であり水晶体であるので、目のどこにどのように合わせたらいいのか。撮影しながら試行錯誤を繰り返した。
さて、それでどこに合わせたらいいかという僕なりの結論では、水晶体と下まぶた(というのだろうか、日本語を知らない)の境目に合わせるのがいい。「目にピントが合っている」と見える。ひょっとしたら一種の錯視かもしれないが、合っていると言っていいと僕は思う。

オートフォーカスになったときに、ピントが合っているという画面表示が楕円だったり四角だったりと「面」でファインダーに表示される。※2僕にとってこれはどういうことかというと、細かいことになるが、ピントがまつげの先に合っているのか、それとも下まぶたに合っているのかがわからないということ。それは非常に大きな違いで、つまり、ピントが合っているか合っていないかわからないということになる。
デジタルの一眼レフカメラでは、レンズにマニュアルフォーカス機能があるので、マニュアルで合わせればいいだろうということになるが、ところが実際にはできない。マニュアルでフォーカスを合わせる人はほとんどいないということを前提として、メーカーはピントグラスをアニュアルでしっかりと合わせられるようには作っていないからだ。ピントグラスにヤマといわれるぎざぎざがあって、そこでピントがわかるようになっているのだが、デジタルカメラではそのぎざぎざがほとんどない。使いもしないところに費用を使うのは無駄だとメーカーが考えるのは当然だし、買い換えるものとしての家電製品となってしまった今となっては、そのような道をたどるのは推して知るべしだろうが。誤解を恐れずにいえば、今のファインダーはおおよその目安でしかない。
ピントを合わせるということは、何を見るかということであるし、何を撮るかということである。それは当然、何を意識しているかということにも及ぶ。※3

焦点のことからちょっとそれるが、愛用していたカメラはニコンのF3P※4にマットのピントグラス、それにモータードライブをつけていた。「人間遺産」の撮影ではコダックのPKRというリバーサルフィルムを使っていた。コダック自体倒産してしまったし、それよりもPKRというフィルムは10年くらい前に製造中止になっている。このPKRも含めコダクロームというのは「外式」といわれる現像方式のフィルムだが、この作りのフィルムはコダック独自のもので粒子が非常に細かい。PKRは実効感度がISO50と低くラチチュードも狭く非常に扱いにくい。しかし、何ともいえないナチュラルな感じと粒子の細かさが、大地に根ざして生きている人たちを撮るのにはとてもしっくりきた。

僕は何かを伝えるために写真を撮る仕事をしたと思うが、じゃあ200年前に生まれていたらどうだったのだろかとも思う。銀塩の写真装置はわずか180年位前にフランス人のナダールが作った。(・・・間違っているかも)画家や音楽家であれば1000年前であっても表現できるが、写真を撮るということはそうはいかない。科学技術の産物である写真装置がないと何もできない。お手上げだ。

焦点を合わせるということから、愛用したカメラのことフィルムのことなどに及んで、訳がわからなくなった。訳がわからなくなったついでに書けば、ピントを合わせられる目を授けてもらい、意図通りにしっかりとピントを合わせられるカメラに出合い、それを使うことのできる体を授けてもらい、そして、それらが同じタイミングで与えられた。銀塩の時代は短かったが、その時代に巡り合わせてもらった。なによりもたくさんの編集者に写真を撮る仕事を与えていただいた。写真を撮る仕事人として、いろいろなことの符号が合っていたというのは本当に幸運だったと思う。
いずれにしても、振りかえれば感謝以外になにも言う言葉ことはない。





※1 ニコンの105mmマクロレンズをよく使った。写真展「イエメンの顔貌」を開催したとき、90センチ×60センチに伸ばした写真を見て、ある方に「これは4×5(シノゴ)で撮ったのですか?」と聞かれたことがあった。
 
※2 こうしたオートフォーカスでは、フレーミングにも大きな不都合をきたす。

※3 意識は大げさに言えば人生そのものになる。実際にどのようなことが起こっているかではなく、それをどのように受け止め感じるかで変わるのだから。しかし、自分は何に焦点を当て何を意識しているのか、ということにさえ気づかないうちに時間が過ぎてゆく傾向が強くなりつつあるように感じられる。
大学生の頃に読んだ写真論争で「ネガのないポラロイドは写真なのか」というのがあった。今となっては笑い話にもならないような話だが、写真を撮る人間が写真をどのように意識・認識しているかという意味では古くはないし、デジタル化し加工の容易になった今も潜在しているテーマであると思う。

※4 一眼レフの高級機種ではピントグラス(ピントを合わせるための磨りガラス)を交換できるものがある。さまざまな種類があって目的によって使い分けたりすることがある。マットというのはその一番シンプルなもの。またF3はファインダー視野率100パーセントというのも重要な点だった。ちなみに、ニコンF3Pの、Pはプロフェッショナル仕様のPかプレス仕様のPかいまだに知らない。僕のF3P、2台とも海外での仕事も含め故障なくがんばってくれた。

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住宅展示場にて [カメラマンになる周辺など]

家を買いに行ったわけではない。
仕事でとある住宅展示場に撮影にいった。住宅メーカーの仕事ではなく、住宅を展示している会場を運営している会社の仕事で、新聞のチラシ用に、様々なメーカーの住宅が見本で建ち並びそしてそれがあたかも素敵な新興住宅街のようになっている、そんな風景を撮影するものだった。
お客さんの少ない平日の撮影だったが、それでも撮影中に何組みかのカップルがその展示場に来て、「街を散歩しながら」いろんな住宅メーカーの家を見て歩いていた。気になったところで、そのメーカーの営業マンなりに話を聞いたりするのだろう。そして、話しがすすめばご成約ということになるわけだ。
撮影が終わり、出されたお茶をすすりながら、住宅展示場の担当の方としばし世間話になった。こういう撮影は多いのかとか、どの家が気に入ったかとか、今どき住宅はいくらするものなのか、そんな四方山な話になった。
そんななかで、50代も半ばを超え定年が遠からぬ担当の方はこんなことをいった。
「・・・お客さんたちは、どうも家を見てないんだよな。」
「???。家を買いに来て、家を見ないんですか?」
「どうもそんな気がするんだよなぁ。家を見てない気がするんだよなぁ」
「何を見に来てるんでしょうかね?・・・」
「・・・どうも営業マンを見てる気がするんだよなぁ。どうもそこなんだよなぁ・・・」
と。家を見ないで家を買う、人というのはそういうものか、と思った。

その担当の方はいろいろな住宅メーカーと組んで、一緒になって家を売るということをしてきた。いろんな住宅メーカーの「内側から一緒になって」家を売るということをしてきた訳だから、住宅メーカーの体質の違いや、さまざまな営業マンを何十年にもわたって、ひょっとしたら何百人かの営業マンを見てきたのだろうと思う。
もし彼の言うとおりだとしたら、生涯の大きな買い物を営業マンで決めるとしたら、営業マンの何で、何を見て、何を感じて、たぶん一回きりだろう大きな買い物の決断をするのだろうか。僕は営業マンではないけれども、営業にも足を運ぶことを思うと他人ごとではなく興味深いものがあった。


こんなだいぶ前の話を思い出したのは、先の「なぜ『所得倍増計画』は達成されたのか」を書いているときだった。
書きながら当然その頃の自分自身を振り返ってみることになる。僕は何を考えて生きていたのだろうかと、あるいは自分の在りようはどうだったのだろうかと。
自分のことは見えないものだからわからないけれども、きっと、飢えた痩せ犬のようにもの欲しそうな目をしながら、見境なしに「仕事くれ、仕事くれ」と吠えていたのだろう。周りが視界に入らず自分自身の腹を満たす餌を探すためだけに突っ走っていたのだろう。振りかえるとそんなふうに思えるところもある。
ある意味では、最初の一年はそれでいいのだろう。とにかくがむしゃらに、ただそれでいいのかもしれない。しかし、それが何年にもわたって続けば習い性となり、何か本来の思いからは大きく離れてゆくのかもしれない。
独立した頃にこんなことを思った。3年間は写真を撮る仕事ならどんなことでもしよう。それは、お金が必要だし、写真は撮り続けてゆかないと腕は上がらないし、人間関係を広げてゆかなければならないし。
「3年間は・・・」と思ったその裏には、「3年経ったならば・・・」という思いがいつもあった。その時には、3年経ったらどうしようという具体的な構想は全く何もなかったけれども、それでも焦りにも似たそうした思いが沸々としていた。

仕事帰りの車の中だったりで、親しくなった編集者に、何度か全く同じようにこんなことを言われたことがある
「すとうさんは、営業が下手ですよね〜」(カッコワライ)
「そうですか・・・」(カッコニガワライ)
仕事の発注先の人に営業ベタといわれるのは、ちょっと嬉しいところもあるが、それはさておき、営業ベタを補って余りある凄い写真を撮るので仕事を発注しているとでもいうのだろうか。まさか。
カメラマンとして独立した2年目の春に所得倍増計画をたて、額の大小はさておき、まがりなりにも実現した。ただ単に人間関係が広くなったからとか、がむしゃらに頑張ったからというのではなく、自分の中の何かが変わっていった結果としてそうだったのであれば、それはとても嬉しいことだったとは思うが、実際どうだったかはわからない。どうしてこんなふうに生かしてもらえたのか、わからない。
よく売れる営業マンの方々から「家の売り方」を学びたいものだが、今からでは遅きに失するだな。


写真の原体験、あるいはレッスンの始まり [カメラマンになる周辺など]

幼稚園に通っていた頃、近所の同じ歳のTくんの家によく遊びに行っていた。今時なら危ないからとすぐに御法度になりそうだが、家の中では折り紙の手裏剣ごっこをしたりして遊んだのを覚えている。手裏剣だから友達をめがけて子供ながら真剣に当てようとする。投げつけあったりもしたが、あるときは手裏剣を受ける方がビニールの刀を持ってそれを受けたりした。いちどきりだが、投げつけられた手裏剣を刀で振り払って受けたことがあって(もちろんまぐれで)、その時はTくんも僕も「おー!!!」と感嘆をもらした。

Tくんの家は、ごく普通の二階建てだったが、ちょっとした広さの庭と、たぶん家庭菜園の畑とがあった。Tくんの両親が教育熱心だったからだろうと思うが、庭のはずれの日陰に手作りの鉄棒があった。隣の家の裏手にあたるのと、かえでの木があったのとで、そこでは日中でも暑くなることなく遊ぶことができた。
夏の日だったと思う。
僕は逆上がりもできないから、鉄棒で遊ぶのはあまり好きではなかったし、何をして遊んだのかも覚えてはいないが、子供のことだから何かしら適当なことをして遊んでいたのだろう。
しばらくして、Tくんのお母さんが帰ってきた。僕らの姿を見かけると、
「あら、なおとしくん来ったんがぁ。んじゃ、一緒に写真でも撮っかぁ」
と僕たちに声をかけてそのまま家に入って、まもなく小さなカメラを持って戻ってきた。
Tくんと僕は鉄棒の前に並んで立たされた。
Tくんのお母さんが小さなカメラを持って僕らを撮る姿を、僕は限りない不思議な思いと静かな興奮で見ていたのを覚えている。カメラというものを。写真を撮るということを。きっとぽっかりと口を開けて呆けたように見ていたことだろうと思う。
もちろんカメラというものを知ってはいたし、それ以前に写真を撮られたこともあるはずだった。けれども、それ以前の写真を撮られた記憶はなく、このときがカメラというもので写真を撮られるということの初めての「体験」になった。

その頃に出会ったものは、人生を大きく左右するのかもしれない。母の胎内にいるときから愛との関わりは始まり、愛についてのレッスンが始まる。しかし、ひょっとしたらこの時期に自分自身に内在するものと取り巻くものとの出合いから興味というものが芽生え始める、あるいは自己実現のレッスンが始まる頃なのかも知れないとも思う。
もしそうだとすると、芸能の世界で6歳の6月6日に芸を覚え始めるとよいなどといわれるが、あながちいい加減なことでもなく、それなりに理屈がつくのかも知れない。

興味というのは一粒の種にたとえれば聞こえはいいが、どちらかというと白癬菌のようなもので、洗って落ちるようなものではなく、体の中にしみ込んでしまっているものなのだろう。
小学校の2年生のころだったろうか、あの小さなカメラと同じようなものを、お小遣いをためてプラモデルなどを売っている店で買った。その小さなカメラは8ミリ幅のロールフィルムを使っていて、つまり普通のフィルムのようにパトローネという缶に入っているのではなく、遮光用の黒紙とフィルムが一緒に軸に巻いてあるのを使っていた。
そして、レンズは五円玉の穴ほどの凸型の一個のガラス玉。F/11だったろうかF/16だったろうか書いてあったが、そんな表示も実際にはてきとうに書いたものだったろうと思う。いずれにしても、晴天の屋外でならひょっとしたら写ることがあるかもしれないといった程度のものだった。そんなものではあったが、それは模型ではあったかもしれないがおもちゃではなく、カメラに違いなかった。僕の大事な大事な最初のカメラになった。

あのときTくんと一緒に撮ってもらった写真、あのような条件だったらきっと僕たちの形さえ写ってはいなかったはずだ。でも、僕の心には生涯にわたってはっきりと残るほど強烈に焼き付けられたものがあった。生涯つきあうことになる原体験が生まれた。
手裏剣の方に興味がいっていたら今時忍者になるわけにもいかないだろうから、スパイにでもなっていたのだろうか。全く想像がつかないが殺され役だったな、きっと。






なぜ「所得倍増計画」は達成されたのか [カメラマンになる周辺など]

まがりなりにもフリーのカメラマンとして独立して、しそふりかけのスパゲッティーとか、大家のおばさんのカレーライスとか、霞とかでどうにか食いつなぎながら、一年が経とうとしていた。フリーランスの一年目、普通などはないだろうから他の人と比べても意味がないだろうが、味わい深い、あるいは味わい深すぎたともいえる一年だった。とにかくどうにか生き延びてきたという感じだった。
バブルのごく走り、今にして思えば決して悪い経済状況ではなかったけれども、それでも僕自身は海に浮かぶ何か小さなものにすぎなかった。身の丈以上に体裁をつくろっていたら、時おり吹く風でたつ小さな波にも、すぐに呑まれて沈んでいたのだろうと思う。そんな小ささだったから、だからたまたま沈まずにすんだのかもしれなかった。
そんな小さなものでも確定申告をしなければならなかった。初めての確定申告。もちろん税金を納めるような立場ではないどころか、確定申告をするのは、源泉徴収されている分を返してほしいがためだ。こんな収入のわずかな人間からの10%の原泉徴収は厳しい。働いた分をちゃんと返してもらいたい、というのが正直なところだ。
下北沢に住んでいたので、小田急線で隣の駅、梅が丘にある北沢税務署に用紙をもらいにいって、わからないながらとにかく書き込んだ。事務仕事の得意なフリーのカメラマンというのは聞いたことがないが、僕もご多分に漏れなかったので、訳が分からないままとりあえずそれなりに下書きを完成させて、申告の期間ぎりぎりに税務署にもっていった。
当時はその季節限定で無料の申告書作成相談をしてくれる税理士なのだったろうか、そういう人が税務署にたくさんいて、僕も番号札を受け取って並び、記入の相談にのってもらった。おおかた問題はないようだった。
ただ、たまたま見てくれることになってしまったその税理士なのだろう人が、申告書に一通り目を通したあと
「君ぃ、赤字だけどどうやって食っているの?え?」
と上から目線でいってきたので、いくら何でも失礼だろうと少し腹が立ち、
「女に食わせてもらってますけど、なにか・・・」
と少しけんか腰でいったら、その人、むっとしたものの返す言葉がなく黙っていた。
でも、本当はウソでした。すいません。そんなに甲斐性がありませんでした。

どうにか初めての確定申告書の提出を済ませて部屋に帰った。そして落ち着いたところで改めて申告書の控えの用紙を取り出してまじまじと見た。記入したところの少ないその控えの用紙を見ながら、じわっと悲しみがこみ上げてきた。
「これではいくらなんでも少なすぎる・・・」
そして僕は、めどや当てや方法など何もないままに「所得倍増」を決めた。来年の申告のときまでに所得を倍にすると。決めたはいいがどうやったら収入が倍になるのかは、全くわからない。今でもそんなことはわからない。わかる人がいたら教えてほしい。

2年目になっても、やれることといったら一年目とほとんど何もかわることはない。いろんな編集部に営業にいったり、人と会ったり。多少なりとも知り合いの編集者ができたりしたので、なるべく通うようにしたり。そして、一回一回の撮影を誠実にやることでしかなかった。
この頃だったように思うが、名刺入れに名刺を入れるのではなく、名刺を注文したときに100枚入ってくるあのプラスチックのケースごと持って歩いていた。異業種交流会だとか、友達の友達だとかとにかく仕事に少しでもつながりそうな人と会っては名刺を渡していた。そんなふうだったから、ケースに入った100枚の名刺もみるみる減っていった。

そして一年はあっという間に過ぎ、二度目の年度末を迎えた。やっぱり慣れない確定申告書に数字を書き込んで、それをまた足したり引いたりした。
最後の欄に出てきた数字は、前の年を倍以上上回っていた。一年前にたてた、あの全く無計画な「所得倍増計画」は達成したのだ。倍増、すばらしい響きだ。気持ちがうわずってきてしまった。よくやったとそれこそ自分をほめてやりたい。「やっぱ、おれってえらいなぁ〜」こんな感じで。
ひとしきり感慨にひたり、そして高揚もおさまり、改めて二年目の申告書の金額を見てみる。倍以上になったとはいえ、それでもその額はほんのわずかなものだということに気づいた。倍になってもやっぱり少ないこの数字。
とっても少ない+とっても少ない=やっぱり少ない
その数字をよくよく眺めながら、僕ははたと得心がいった。倍にでもならない日にはやってゆけないくらい最初の年がひどかったのだ。そう、所得倍増計画を達成し得たのは、前年の収入があまりにも、あまりにも、あまりにも少なすぎたからに他ならない。苦笑するしかなかったが笑い事でもなかった。


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Aスタジオ顛末記3〜二重橋だよおっかさん〜 [カメラマンになる周辺など]

あのS山さんの事務所によくロケアシ(出張アシスタント)に行っていたことがあった。
S山さんはヌードはもちろん週刊誌の表紙、シノラマなどの撮影を一日にいくつもやっていたから、アシスタントは3人いたが仕事の内容ごとに、撮影の種類ごとにメインで担当するアシスタントが違っていて、外での撮影が終わると、別のアシスタントがスタジオで週刊誌の表紙の撮影をスタンバイしていて、というような具合だった。
その当時のシノラマの撮影では、結婚式場でゴンドラに乗って式場に下りてくる二人を撮ったり、日曜日の朝の新宿御苑の家族だったりなど、日本的風景というか、そんな風景をS山さん的な独自の視点で切り取るということをしていた。僕はそちらの方の手伝いに行っていた。

何月のことだったろうか。その日は、皇居前広場に行った。
朝から快晴で暑い日だった。4×5(シノゴ)という大きなカメラでの撮影で、僕はS山さんが仕事をしやすいように、かぶりという布、写真屋さんが大きいカメラでバシャン!と撮るとき、カメラを覗く時に使っているあの黒い布を、かぶせたり外したりということをしていた。このかぶりというのは、急いでいると結構ぐちゃぐちゃになってしまい、ストレスになる。それをアシスタントが一人手伝うと、それだけで仕事がとても楽になる。それに、カメラを覗かないときには、S山さんの後ろで広げて持って、カメラやS山さんに直射日光が当たらないように日陰を作るということをしていた。

修学旅行、二重橋、記念写真。
二重橋前でひな壇に整列して記念写真を撮るところ、を撮影ということだった。今撮った写真がそのままセピア色になってしまいそうな、日本のステロタイプな風景。ちなみに、ものによると二重橋といわてれいるのは、あれは本当はそうではなくて、あの奥に架かっている地味な橋が二重橋なのだそうだ。
だけども、たとえば母が東京見物に来て、ここに連れて来たら、やっぱり僕は
「おかあさん、あそごさかがった橋が、島倉千代子がうだってだ、二重橋だごで。ほらほら、二重になってだべ」(おかあさん、あそこに架かっている橋が、島倉千代子も歌っていた二重橋ですよ。ほら、二重になっているでしょ)
「せっかぐだがら、写真でも撮ってもらうべ」(折角だから写真を撮ってもらいましょう)
といって、近くの人に頼んで記念写真を撮りたいと思う。本当はあれは間違いで、あの奥にもう一つ橋があってここからは実は見えなくて・・・、といったら、母はなんとなく残念に思うことだろう。思い出のある人には、あれこそが二重橋であり、それでいいと思う。

話はそれたが、そんなふうにして愛しいステロタイプを撮影していた。
ひな壇には学生たちがぞろぞろと立っては教師がなんやかんやといい、そして降りては、また違う高校生がぞろぞろと立っては降り・・・、S山さんは三脚ごともって微妙に移動させて位置を変え、そして磨りガラスをのぞき込んでアングルを決めピントを合わせ、そしてレリーズを右手にシャッターチャンスをうかがう。
僕は黒いかぶりを腕を伸ばして持ちながらS山さんの一挙手一投足に意識を集中させて次にすることを読みながらも、まわりや被写体にも意識を向ける。ここには車はこないが、ときには「車入りま〜す」などといったりするわけだ。

僕はその時のことをよく覚えていない。見ていたひな壇に、あれっ見たことある人のような・・・、そのあたりからいろんなことがはっきりしない。全体が不透明な乳白色の中、まさか、えっ、うそだろ、そんな言葉がまばらに飛んだような気がする。
僕が勤めていた高校の修学旅行がひな壇にいたのだ。見知った先生たちがいたのだ。
僕はなんとなくうつむいたが、めざとい先生に見つけられたようだ。言葉をかけられたようにも思うが、よく覚えていない。誰だか先生が僕の写真を撮ったようでもあったが、記憶は霞んでいる。この時の記憶がみごとに霞んでいるのは、よっぽど見られたくなかったのだろう。
さぞや、教員をやめてこんなことしているのかと思ったことだろう。恥ずかしく思うことはないのだが、それでも恥ずかしかった。教員をやめて黒い布持ってつっ立っている、なにやってるんだかと自分自身思う。見られたくなかった。これは自分が選んだステップなのだから恥ずかしく思うことはない。しかし、恥ずかしく思っていい。悔しく思っていい。青春の蹉跌なのかと思っていい。もし蹉跌だとしたら、それは一歩前に進もうとした証拠なのだから。

だいぶたって、なにかの機会にスタジオで経理をしているS原さんにそのことを笑い話として話したことがあった。そうしたら、S原さん、ただでさえ目がくりっとしているのに、それをまたぐりっと見開いて、
「だからだめなのよ、すとうくん。わかる?そういうのもチャンスなんだから。そこで、S山さんに、今ひな壇に来ているのは去年まで勤めていた高校の修学旅行生なんです、と、言うのよ(言うのよ、はフォルティッシモ)。そしたら、S山さん、お、って思うでしょ。そうして覚えてもらうのよ、わかる?すとうくん。そういうところからチャンスは生まれるのよ、わかる?」
ロケアシで行っていて、仕事中にそんなこと言えないですよS原さん、とは言えなかった。あのでっかい頭にあのちりちりに爆発した髪して、ぎょろ目を見開いてキリキリと一瞬を待ってレリーズ握っている後ろから、そんなこと言えないですよ、と思ったが。S原さんに言わせれば、僕の人生はチャンスを逃しっぱなしなのだろう。本人はつまづいてさえ気づきもしないようだが。


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写真展のこと4 〜おまけコーナー〜 [カメラマンになる周辺など]

会場で流したBGMは、音楽関係の仕事をしていたHさんにお願いして一本のテープを作ってもらった。彼には、パネル貼りする前の展示用の写真を見てもらい、イエメンの写真だからといって、アラビアの音楽や土の臭いものではなくて、透明でしかもストレートに魂に触れるようなもので、それでいて力強い感じのものを、という欲張ったリクエストをしたが、Nightnoiseの楽曲を中心にぴったりのものを作ってくれた。会場で誰の音楽なのかよく聞かれた。

来てくださった方でこんな方がいた。一通りじっくりと見て、そして
「いやあ、すごいね、すごいですね。みんな違うターバンしてますね・・・」
人はおもしろい。あれほど写真を見ていたけれども、そんなことには僕は全く気づかなかった。それほどに写真は自由であっていいのだと改めて思った。

「滞空時間」を考えた。写真展にかぎらず時にはもうちょっと見ていたいと思っても居場所がなかったりすることがあったなあ、と思ったので、備え付けの長いすの他に椅子を何脚か、一人でもいられるようなバランスを考えて配置した。それから写真だけを見ているのも時にはしんどくなったりしたなあ、と思い下に添付したようなA4見開き、4ページの印刷物を作った。だいぶ刷ったように思うが手元には一枚残っているだけだ。
今読み返すと、今すぐ書き直したいような恥ずかしいところばかりのぺらぺらなものでも、作るときは苦労した。市川さんにも本当にお世話になった。
独立してちょうど10年目だったらしいが、正確な自分の独立記念日を知らない。アジアを旅した頃から
「我ガ輩ハかめらまんデアル。仕事ハマダナイ」
などと言っていたが、その頃も数えてだったろうか。

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写真展のこと3 〜真夏の打ち上げ花火〜 [カメラマンになる周辺など]

たとえば、写真をどのくらいの高さに飾るかで、その写真の印象が大きく変わる。このくらいかなと思う高さから2センチも高くなったら、写真はずいぶんと偉そうになってしまう。低すぎれば萎縮してしまう。写真の間隔、それに角からはどのくらい離したらいいか。もちろんどの写真をどこに飾るかなど、ひとつひとつが写真を見る新しい視点を学ぶ機会だった。

写真展用の無料の会場では、たいがい献花はお断りといことになっていて、このドイフォトプラザでもそうだったのだが、僕が案内に書くのを忘れて、初日の夕方にはいっぱいの花が届いた。一つ一つと届くたびにサインをして送り主の名前を見ては、ああ、あの人からだと本当に嬉しく思った。大学の恩師からも届いた。特別ですよ、と係の方の許しも出て会場にずらっとならべて飾った。花はいい。黒い四角い空間の空気が柔らかくなって、そこにいる人の気持ちまでもが和む感じがする。なにより、人の思いがちゃんと伝わってくる。
初日の夜のオープニングパーティーには本当にたくさんの人が来てくれた。僕は会場の中にいて酔っぱらっていたからわからなかったが、誰だかが
「すとうさん、大変なことになってますよ。入りきれなくて階段の下までいっぱいですよ」と教えてくれた。こうした案内の常として、会場に入る人よりも余計めに案内を出すが、ほとんど来てくれたのだろうか。ご挨拶もできない方がたくさんいて申し訳ないとは思いながらも、会場はごった返してどうしようもなかった。こんな夏の盛りにありがとうございます、とにかくまあ飲んでいってください、という気持ちだった。お酒も用意していたが、お祝いに持ってきてくれた赤ワインとビールやらで飲みきれないほどになっていた。

真夏の朝の渋谷は遅い。夏休みの期間ということもあって、9時に渋谷の駅を降りて大きなスクランブル交差点でもそれほど人通りはなく、山手線に平行した道をカメラのドイまで歩く。渋谷にしては閑散としている。途中のハンバーガーショップでハンバーガーとコーヒーを注文して、窓に向いた丸イスに座って簡単な朝食をとる。そこでゆっくりするが、それでも10時よりもだいぶ前に会場に着いて、そのまま夕方の閉める時間までそこにいるのが、その週の日課になった。不思議とその週は仕事が入らなかった。
会場に明かりを入れ、BGMを流し、受付の準備をする。それからペットボトルに水を汲んで、ずらっと並んだ大小のアレンジメントの一つ一つに水をやる。そして、誰もまだいない会場でひとりでイエメンの人たちをしばらく見ている。
視線のエネルギーが長方形の会場の中央あたりに集中し、この人たち一人ひとりを懐かしく思いだし、そしてこの人たちに会って、こうしてこの一人ひとりの視線を通して人はかけがえのない存在であり、人は確かに繋がっているのだということを伝えるためにイエメンに行ったのだと改めて思う。一人ひとりの視線を感じながら、どれもがかけがえのない出会いであったと思う。
こうしてひとりで展示された写真を見ている時間は、贅沢な時間だった。

朝日新聞のマリオンという情報コーナーにも写真付きで載せてもらったということもあって、たくさんの人が見に来てくれた。初めてお会いする方で、二日続けて来てくれた人もいた。彼は会場の真ん中あたりに置いたベンチに30分以上も座って写真を見ていった。僕が毎朝早くに座って一人ひとりの視線を感じていたその場所に座って、何かを感じて味わっていった。見に来た友達が絶対見た方がいいからというので来ました、といってきてくれた人もいた。『ピア』を丸めてもったカップルが来てくれた。いつもの友達、久しぶりの友達、大学の恩師で釧路を離れて八王子に住んでいらっしゃる先生、それから葉山にすんでいらっしゃる恩師※もきてくれた。僕が席を外したときに来てくれた見知らぬ方は「波動の高さを感じます。ますますのご活躍を」とメモを残していってくれた。この年の春にプレスツアーで一緒になった編集やカメラマンや旅行関係の人がまとまって来てくれたりもした。こうして足を運んで写真を見てもらえたことは、本当にありがたいと思ったし心から嬉しかった。

何日目かの夜、明大前のマンションのベランダに脚立を立てた。そこに座ってオープニングパーティーで残った赤ワインの栓を開けて、それを味わいながら僕はひとり泣いた。8階から見える住宅街の窓の明かり、その中を左から右へと京王線の車両の蛍光灯が煌々と輝きながら明大前駅に停まろうとする。すべてがにじんで何もはっきりとは見えなかった。明日までにはこの目の腫れはひかないだろうな、と思いながらも涙があふれてしかたがなかった。今晩はこのままぼくを泣かせておいてあげようと思った。
様々な思いがぼくの心のひだのあちこちに触れていた。このときの感慨をうまくいう言葉が今でもわからない。充実していなかったかといえば充実していたし、達成していないのかといえば成し終えた感じもあるし、だからといって充実感や達成感といった言葉でまとめきってしまえる感じではなかった。

中学生だった頃、近所の本屋で、アサヒカメラやカメラ毎日や日本カメラなどの写真雑誌をよく立ち読みした。同じ町内なので、お店のおじさんとは顔見知りなだけに、ヌード写真などがあるとちょっときまりが悪い思いになって、どきどきして少し体が汗っぽくなって。それでも写真に興味があったから立ち読みを続けた。どの写真雑誌にも新刊の写真集の案内や写真展の案内のコーナーがあった。そのページになると、ああ、こんなふうに写真集を出したり写真展がしたいな、できたらいいな、とあこがれを持って見ていた。いつもいつもこのときのことを思い出したり、この時のことを考えていたわけではない。遠いあこがれは伏流水になって流れていたのだと思うし、はるか見えなくなりそうになりながらも、赤いテールライト※※が僕を待っていてくれたのだと思う。
写真展を一回したからといって何かが変わったというものでもない。確かに変わったのは、パネルが場所をとって、狭い部屋がますます狭くなってしまったことくらいだった。自己満足といってしまえばそれまでのことだけれども、これが確かに僕が作りたかったもののひとつだし、これでいいのだと思った。

写真展が終わった次の週、用事があってドイフォトプラザに行くと、係の方が、本当は内緒なんですけどね、木村伊兵衛賞の選考の人がすとうさんの資料をくださいってもらっていきましたよ、と教えてくれた。木村伊兵衛賞か。文学界でいえば芥川賞のようなもの。選考のシステムを知らないが、図録を作ったわけでもないし、まさかもらえるとも思わないが、そういう方にも多少は評価されたのだろうと嬉しかった。

山形の年老いた母は甥に連れられて、見に来てくれた。明大前の狭いマンションに一泊して、次の日またもう一度見るといって会場に来て写真を見て帰った。嬉しかったのだろうと思う。
思い返せば、せっかく来てくれたのに何もかまわずじまいだった。
「体さきーつけでな」(体に気をつけてね)
と言って田舎に帰って行った。

一週間の打ち上げ花火はあっという間に終わった。
4冊の芳名帳に見に来てくださった方々の名前が残った。







※ 国語科教育が専門だったK村先生。お亡くなりになったことを聞き、結局お会いしたのはこのときが最期になりました。ありがとうございました。(合掌)
※※ 中島みゆき「ヘッドライトテールライト」
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写真展のこと2 〜セレクトとはいうけれど〜 [カメラマンになる周辺など]

実際に展示する写真をセレクトし始めると、収拾がつかなかった。
イエメンの風景と人物とそれに食べ物や分類不能なものまであって、あれもだしたい、これも発表したいととりとめのないものになっていた。それでもどうにかして納得のいく写真展にしたかった。

ポジ(スライド)のままではイメージがよくつかめないから、気になった写真はとりあえずキャビネに伸ばして、それを毎日毎晩畳の上にとにかく広げては、右へ置いたり左へやったりして。またポジフィルムにルーペを当ててこの写真はどうかとひっぱりだしたり。そしてまた写真を広げて、これでもないあれでもないと悩み、途方に暮れていた。
どの一枚にもその時の思い出があって「ああこのときは・・・」と、はかどらない引っ越しのようなもので、自分の思い出の世界へと入っていったりした。そして振り出しに戻っては、自分はいったい何をやっているんだろうと思い。

そんな作業を続けながら、僕は疲れた。そもそも納得のいく写真などはないのだ、写真展なんかをするのは所詮無理なのだとも思った。
そしてまた気がつくと、改札口できっぷを買えずにつったっている自分がいた。自分の行き先がわからない。
セレクト(選択)とはいうものの、何かを捨てないと始まらなかった。捨ててゆく作業だった。考えてみれば当たり前だが、何らかの意図に従って一枚一枚を外してゆく作業だった。もっともそうして一枚一枚外してゆけるのならそう苦労はしないのだった。
自分自身の意図がわからない。自分のことなのに本当はどうしたいのかがわからない。

必要な物と不要なものと、それから、あったら便利なもの。僕の身の回りには、僕にとってなければ絶対に困るというわけではないがあったら便利なものが満ちあふれていると思う。あったら便利なもの、それらが欲をそそる。必要な物、僕にはそれほど多くはないように感じる。もちろん、不要だけれどもどうしても欲しいとか、役に立つわけではないけれど気になってしょうがないとか、人それぞれで選択すればいいだけで、僕にだってそんながらくたのように見えるものがたくさんある。
セレクト。がらくたというわけでもないが、捨てられないのだ。
たとえば一軒家から四畳半に引っ越すのに似ていて、とにかく本当に必要な物しかもってゆけないし、何か一貫したものがないと収拾がつかない。これも必要だといってもしかたがない。入らないのだから。本当に大事にしたいもの必要なもの以外は、人にやるか捨てるかリサイクルショップへどうぞ。自分の大事にしたい思い出の品々もあるだろうし、それに、自分はこんな生き方をしてゆきたいから、何が必要で何が不要かということを考えなければならないのだろうと思う。
あったらいいと思うもの、それを一つひとつ手放してゆかないと何が本当に必要かわからないのだろうと思う。それほどに僕は不器用だったし。

そうやって自分が手間暇とお金をかけて撮ってきた写真を、捨てる。
愛着や思い入れいっぱいの記念の品々は四畳半の部屋に引っ越すには、ほとんど何も持ち込めない。写真の一枚一枚に愛着を持つのは大切だけれども、だからといって、愛着の度合いで写真を選択してはいけない。四畳半は記念の品々だけでは生活できない。四畳半に持ち込むものは自分の生き方に直接関わるから。
その時は時間制限のある一本勝負で、無我夢中で毎晩イエメンの写真をみていただけだ。畳の上にキャビネを何十枚もひろげて、ああでもないこうでもないと、夜遅くまで繰り返していただけだ。何も選択できないまま、何も変わらないままの作業を続けただけだった。

ある夜ふと気がつくと、イエメンの男たちのアップの写真が僕のまわりを僕を取り囲んでいた。105ミリのレンズを繰り出して撮った男たちの視線と皺。厳しい視線や優しい視線の数々。撮らせてもらうときに本当に怖かったベドウィンの男。彼の視線さえもが心の奥にしまった何か優しいものをみせていた。それらの視線の波動を全身で受けながら、胸のあたりがきゅうっと締めつけられるような感じがしていた。そして、僕がイエメンに行ったのはこの人たちに会うためだったのだなと、なにか強く感じさせられるものがあった。そして、僕が伝えたいこと、探していたものはこの視線の一つ一つに潜んでいて、この一人ひとりが教えてくれた。
伝えたいことは、既に写真の中にあって、自分が撮った写真が僕に教えてくれたのだ。山のあなたの幸はもっと遠くだといわれたけれども、僕が探していたものは、青い鳥のようにすぐ目の前にあった。毎日毎日見ていたものの中に探していたものがあった。ケツァールは僕の右肩に知らん顔してとまっていた。僕が気づかなかっただけなのだ。
写真の彼らは、僕が気づくまで、じっと辛抱強く僕を見守っていてくれたのだと思った。あれから何年も放り出されたままだったのに、我慢強く僕を見捨てることなく僕が気づくのを待っていてくれたのだ。

イエメンで初めて老人に声をかけて写真を撮らせてもらったときのことを思い出す。
早朝だった。まだ店も開いていないスーク(市場)の中。何を待っていたのだろうか、老人が足を抱えて店の前の石の上に座っていた。僕はその顔を見た瞬間、撮りたいという衝動にかられた。でも気圧されるものがあって撮らせてもらうには勇気がいった。逃げ出す理由はいくつもあった。言葉ができないから、こんな人にはまた出会うだろうから、失礼かも知れないから、・・・。
でも僕はカメラを出して、老人に撮っていいかと言葉ではなく聞いた。少しも表情を変えることなく小さく肯いた。数コマ撮らせてもらって、胸に手を当てて感謝して別れた。それだけのことなのに、僕の胸はばくばくと高鳴っていた。30歳になったばかりことだった。

僕はその顔と視線とに対峙しながら新たに作業を続けた。


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写真展のこと1 〜帰っては来たものの〜 [カメラマンになる周辺など]

イエメンにはちょうど30歳の誕生日に発って、ビザの都合などで途中東アフリカに出国したりしながら、のべ1年と数ヶ月間イエメンに滞在して、その後ヨーロッパの数カ国とニューヨークをまわって帰国した。日本を出てからちょうど2年間の旅だった。
イエメンから帰って、ポジをファイルに入れはしたものの、僕はそれ以上のことをする気になれずにいた。自分が撮ってきた写真を直視できなかった。イエメンで一年間かけて撮ってきたものがいろんな意味でたったこれだけのものか、という事実に正面から向き合いたくはなかったのだと思う。
40冊くらいの厚手のポジファイルは積み重ねられたまま放っておかれた。

カメラマンにはなった、でも僕はどこへ進んでいったらいいのだろう。カメラマンになろうとしたときに、既にそこにはカメラマンとしての存在する目的があるはずだ、と僕は思っていた。自分自身が自覚しようがすまいが、伝えようとするものが先に自分自身の中に既にあるからこそ、この仕事をわざわざ選択するのに違いないのではないかと。
ただ、何を伝えたいのかわからない。自分がどこへいったらいいのかわからない。電車に乗ってどこかへ行こうとしても、駅の窓口まで行って、そこで行き先がわからずにうつむいてつったているような、そんな状態だった。
イエメンの写真を見たくなかったのは、自分自身本当はイエメンで自分の方向性をつかみたかったけれども、カールブッセの詩のように、山の向こうへ「幸」探しに行ったのと同じように、虚しく悲しい思いで帰ってきたとしか思えないでいたからだったと思う。
イエメンでの撮影旅行も、インドからエジプトまでのピラミッドの頂上をめざした旅行とおなじように、ただ自分の心のままに撮ろうと思っていた。しかし、時折「使える」写真を撮る自分もいた。自分が撮りたいと感じるものの中に、自分が伝えるべき仕事があると信じていたものの、当然といえば当然ながら写真を売ることを考えてもいて、そうしたものが、何かを見えなくさせたのだろうかと思ったりもした。

イエメンで撮ってきたものは、何かしら形にできる分だけは撮ってこようと思っていた。写真集でも写真展でも、スライド会でも、それはどういう形でもいとわなかったけれども、とにかくなにかしら形になる分は、必ず撮ってこようと。
イエメンに行く前にもそんなふうに形できる分は撮ろうと思っていたけれども、帰ってきてからは、どのようなものであれ、形にして免罪符にしようとしていた。自分自身納得できないのはわかっていながら、免罪符にしてそれでよしとしようとしていたように思う。違う言い方をすれば、何も得ずに帰ってきたのだということをごまかしたかった。そんな消極的な気持ちがいつしか大きく働いていた。

カメラメーカーやフィルムメーカーの無料の写真展会場を手当たり次第に調べてみた。もちろんどこも先着順などということはなく、ちゃんと審査やコンペがあって、その審査は毎月であったり3ヶ月に一度だったりしたが、それに合わせてファイルを作り、応募した。しかし、次々と落ちた。次々と落ちながら手を変え品を変え「イエメンの人と自然と」「アラビアに生きるイエメンの男たちと生活」「アラビア半島、人と自然と生活と」、こんなタイトルではなかったが、まあざっとこんな感じのタイトルで、写真をセレクトしなおしてはファイルして応募した。写真として撮られてあるものの現実は見たくないが、そのくせうぬぼれだけはあるという若い時代にありがちな生意気さがあって、「写真見る目がないよな、あいつら」などと人のせいにしていた。
今思い返しても、あちこちに応募したファイルには「何もなかった」。写真は写っているけれども、何もない。そんな虚しいファイルを応募しては人に見せていた。

ドイフォトプラザに引っかかったのはどうしてだったろうか。
今はなくなってしまったが、カメラのドイという量販店が渋谷東京電力のテプコプラザに行くちょっと手前にあった。その7階だったかがプロ向けの現像・プリントを受けつけるカウンター、そして、ドイフォトプラザという写真展用の無料の会場があった。そこにひっかかった。※こうした催し物としては最悪の8月、その一週目の週だった。人は、夏休みの旅行に出かけているか、暑いのでどこにも行きたがらないかのどちらか。こうしたものには足の向かない時期。そんな時期だったからどうしても埋まりきらずにいたのかもしれない。
時期はよくなかったが、このドイフォトプラザの空間はよかった。黒い壁で、トランプよりも少し縦長の一つの空間だった。
『写真へのメッセージ』※※という本の中で「写真展」ということにも触れていて、僕が覚えているところでは「写真展というのは、一枚一枚の写真を見る場ではなく、展示されている写真全体のエネルギーを感じる空間」僕なりに意訳されているかも知れないが、だいたいそういうようなことをいっていた。写真展によっては、細長い通路をぐるぐると巡ってゆくようなこともあるけれども、それは、展示の意図が違っていればそういうことももちろんありだし、前者が正しいというものではないと思う。ただ、僕が今回作りたいと意図するところの写真展の場、としては最適だったと今でも思う。

適当なタイトルの中身のないファイルでとりあえず場所と時間を確保したものの、係の人に相談して、イエメンの写真でという枠組みの中で、タイトルも写真も初めから組み直すことにさせてもらった。納得のいくものにはなりそうに思えなかったが、でもやってみるしかなかった。とにかくやってみるしかなかった。やれるだけやってみるしかなかった。自分にとってはやっぱり大事なことだったから。
あらためて写真展というものに向き合うことになった。





※写真展「イエメンの顔貌」
1997年7月31日から8月5日
渋谷、ドイフォトプラザにて開催

※※『写真へのメッセージ』井岡耀毅・著    ロラン・バルトの『明るい部屋』やスーザン・ソンタグの『写真論』は全くといっていいほど理解できないけれども、この写真論・写真への思いは、平易な言葉で丁寧に著者のこころを伝えようとしていて、多少なりとも理解できたし、少なからず共感できた。それに、土門拳の『写真批評』や『写真作法』のように大上段にかまえていないところも個人的には好きだ。
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Aスタジオ顛末記8〜六本木、種守人〜 [カメラマンになる周辺など]

フィルムのことといっしょに考えてはいたけれども、こんどは現像のことをどうにかしなければならない。
当時Aスタジオを事務所にしている先輩カメラマンが何人かいて、当時の会社名でいえばT現像所、S現像所、Hカラー現像所、モノクロはSアート、赤坂、青山、六本木、広尾あたりの現像所の方が電話を入れれば未現像フィルムを取りにきたり、また現像済みのフィルムをそのつど届けたりしてくれていた。最終便は夜中の11時頃までのところもあった。
Aスタジオが元麻布に新築するのと前後してHカラー現像所は六本木にも営業所を出した。以前の最寄りは青山営業所で、そこは地下鉄で行くような距離だったが、六本木の営業所はその気になれば走ってゆける便利なところにできた。当時はなかったあの巨大なビルのすぐ近くだ。
そのとき所長として来たのがM嶋さんだった。M嶋さんはたぶんK多さんやN澤さんのちょっと下くらいの年で、K多さんの事務所によくお世話になっている頃、毎回いらしていたわけではないけれども、ときおりM嶋さん自身でテスト用のフィルムを持って事務所にいらした。いつも柔和な笑顔の方で、物腰が柔らかく丁寧な方だなあという印象だった。
フィルムというのはエマルジョンナンバー(ざくっというとロット)ごとに、微妙に(ほんとに微妙に)明るさと色合いが違っていて、新しいロットが入荷するたびに現像所内か知り合いのカメラマンの事務所かでテストをして、このエマルジョンナンバーではこうなってますから、このくらい補正して撮った方がいいですよ、という情報を毎月流すのだったが、そのテスト撮影をしなければならない。あまり先輩過ぎると頼みにくいだろうし、頼みやすいからといっても安定しない撮影ではテストとして困る。たぶん何カ所かスタジオのあるカメラマンのところにお願いしていたのではないだろうかと思うが、K多さんのところにもいらっしゃていたのだった。
K多さんのところでは、一杯ずつ入れる美味しいドリップコーヒーを出していたが、営業所に戻ればばたばたと忙しいだろうM嶋さんも、このときは業界の世間話をしたりして、それこそコーヒーブレイクだったのだろう。
僕自身が「ぱしり」として六本木の店頭にもよく行っていたから、M嶋さんが店頭にいらっしゃれば挨拶をするようにもなった。

Fフィルムのあとそれほど経たないうちに、六本木営業所の所長M嶋さんにうかがった。M嶋さんには、独立したときにはHカラー現像所を使わせてもらいますので、今回の旅で撮った分はひとつよろしくお願いします、ということを言ってお願いした。Fフィルムの時にしてもそうだが、思えばずいぶんと勝手なお願いだった。
M嶋さんは快諾してくださった。
フリーとして独立して、この約束はちゃんと守った。Hカラー現像所は新宿にも営業所があって、下北沢に住みはじめた僕にはこちらの方が格段に便利ではあったけれども、わざわざ六本木の営業所まで通っていった。というより、M嶋さんや営業の方など知っていることをいいことに、こまかなお願いをしたり、ときには無理なことをお願いしていた。M嶋さんはきっと、現像が少ないわりにはお願い事の多すぎるやつだなと思いながらも、しょうがないなとにが笑いをしていたのではないかと思う。
1回か2回だと思うけれども、支払いが滞ってしまって、営業の方から催促の電話があったこともあった。後日現像を出しにいったときにM嶋さんに「すいません、ちゃんと払いますので・・・(どうか見捨てないでください)」とお願いしたりした。あの柔和さで、まだ若いんだからとにかく頑張ってやったらいいと、と励ましてくれた。
その後どのくらいしてだったか、M嶋さんが六本木から大阪に転勤になったのだったが、それを潮にやっと僕は新宿店を使うようになった。

このシリーズの一番最初の「Aスタジオ顛末記4〜S原さんのこと〜」をアップした後、じつは当のM嶋さんから、ブログを読んで懐かしく思い出した、とメールをいただいたのだった。最後にお会いしたのがいつだったかも思い出せないほどお会いしていない。本当に懐かしく嬉しかった。
M嶋さんのメールには、今年の3月末で六本木営業所を閉めるということや、M嶋さんが今年の12月で定年退職をなさるということが書いてあった。
あっという間のデジタル化の流れで、現像所が厳しい状況だろうことはよくわかることだ。その当時は六本木の営業所の前の通りに、メルセデスやらボルボやらのカメラマンの車がハザードをあげてとまって、あわただしく現像の出し入れをしていた。活気があって、これでもかというほど忙しかった。
あそこがなくなっちゃうんだなと思うと、終焉といっては寂しすぎるけれど、なにかひとつの時代の区切りとでもいったらいいのだろうかそんなものが感じられて、何とも言い難い寂寥感が肌からつうっとしみてくる。そして、M嶋さんがもう定年なんだなと思うと、感慨深い。今年の12月に僕は日本にはいないだろうけれど、真っ白なカサブランカを大きな花束にして真っ赤なリボンをつけて心の中でプレゼントしよう。ほんとうにありがとうございました、と。もっともM嶋さんはまだまだ若くて元気なので、ご隠居になる予定はなく、次の人生のステージをいろいろと考えていらっしゃるようだが。

ラジオで聞いた。ある女性がこんな実験をした。
「植物に素敵な言葉をかけるのと、ひどい言葉をかけるのとでは育ち方が違うというけれど、本当にそうだろうか」
という実験。その女性はまったく同じ条件を作って、その実験をした。その結果、片方は爛漫ときれいに花を咲かせ、そしてもう片方は・・・、彼女はそれを言葉にしたくない、察してくださいといった。そして、本当にすまないことをしたと胸が裂けてしまう思いだったといった。
僕自身が、くじけそうなときや枯れてしまいそうなとき、そんなときにほんの少しの光や水や愛のある言葉でどれほど救われてきたことか。

M嶋さんにしてもFフィルムの方にしても、若者の夢を寛容に応援してくれた。この先どうなるかわからない若者がやってきて、フィルムをくれとかただで現像してくれとか、思えば本当にムシのいい話をして、それをいやな顔もしないどころか、その時必要だった少しの何かを与えてくれた。その種が生きているかどうかもわからず、その種がどんな花を咲かせるのかもわからずに、ただ優しく見守ってくれたのだった。僕は、この人たちを種守人(たねもりびと)と名付けよう、こんな言葉が僕にはしっくりくる。
同じことをもう一度書こう。こうして年を経て、M嶋さんやFフィルムの方がしてくださったことの意味を少しは味わえるようになって、感謝の気持ちはましてゆく。



追・この旅の出がけには、(株)G一のO西さんなど、他にもたくさんの方にお世話になりました。本当に感謝しております。
それから、Aスタジオ顛末記3をまだ書いていませんが、このまま書かずじまいになるか、そのうち書くかも、といったところです。「Aスタジオ顛末記3〜二重橋だよおっかさん〜」というタイトルにしようとおもってますが。

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Aスタジオ顛末記7〜Fフィルムへ〜 [カメラマンになる周辺など]

Aスタジオには4月に入って、次の年の12月までいたのではないだろうか。だとすると、結局2年弱、1年9ヶ月いたのことになる。スタジオをやめるどのくらい前に「ピラミッドの頂上で記念写真を撮る」と決めたのかそのあたりは定かではない。
スタジオをやめるまでには、ピラミッドに登って記念写真を撮るということを、僕自身のひとつの「イベント」にしようと思っていた。飛行機でカイロまで飛んでピラミッドに行ったのではイベントにならない。コースを作って旅をしよう、そしてその旅の終着点がクフ王のピラミッドの頂上だ。旅、旅は帰るところから離れてゆくのがいい。なぜかはわからないが、それがいいと思った。じゃあ、インドもどうもおもしろそうだし、インドから陸路でエジプトまで。「作戦会議」の結果そう決まった。インドがおもしろそうと思ったのは『全東洋街道』とか『メメント・モリ』とか、そうした大学生の頃に手に取った藤原新也の影響が強くあったのだろう。特に『メメント・モリ』は大学生だった僕には強烈だった。死を想え、か。ちなみに、『全東洋街道』の撮影には、Aスタジオの先輩のOさん(僕が入ったときにはもうフリーになっていた)が、藤原さんのところに助手としていたころに同行したように聞いたが、僕の記憶違いでなければ。
藤原新也のついでというのも変だが、ちょっと思い出したので、ついでに。
旅に出る直前に発刊された沢木耕太郎の『深夜特急』を知り合いの編集者がプレゼントしてくださった。読みたいと思っていたけれども買うのは躊躇してしまっていたからほんとうに嬉しかった。その本の中に
「(インドで)手で食べていたら、食堂の親父がスプーンを持ってきてくれた。いらないと断ったら、どうしてスプーンで食べないんだと聞く。そして私は
「ここはインドだから」
と答えた・・・」
というような内容のくだりがあって、その時はすごいなぁ、かっこいいなぁ、これがインドの旅かぁと思った。が、インドで飯を食いながらそれを思い出して、「あたりまえじゃん」と。ごくあたりまえに普通に右手で食べるようになていた。こんなあたりまえのことを、そんなふうに事件というか出来事として書けることの方がすごいと思った。

それはさておき、Aスタジオをやめてお金を貯めるべく実家に戻ってアルバイトをはじめた。スタジオにいるときにもらえたのは月々わずかなもので、休みにはとにかく外に出て気晴らしをしたいから、みんなそれぞれにお金は使ったのだと思う。オールナイトの映画に行ったり、カメラを持って少し遠くへ行ったりもした。先輩では六本木に近いという土地柄もあって風俗店に行く人もいた。寒い季節、麻布十番の外れに屋台のおでん屋が出たが、僕はその丸いすに座っておやじさんと話しをしながら遅くまで過ごすのも好きだった。
アルバイト、昼は電話帳の広告を取る仕事をした。朝の7時半頃家の車で山形市の駅前近くのその会社に行く。朝礼をしたら二人組みになって営業の外勤をして夕方会社に戻る。会社が終わると、その足でこんどは夕方から11時過ぎまで同級生のお兄さんがやっている喫茶店で雇われマスターをした。いまカメラマンが似合っているとはとうてい思わないけれども、営業マンにしても喫茶店のマスターにしてもまったく似合っていなかったと思うが、資金を貯めるためだった。
電話帳の広告の仕事では、会社を出るととりあえず喫茶店に立ち寄るのが習慣のようで、いつもの喫茶店に行って、他の人はモーニングセットとかを頼むのだけれど、どうしてもコーヒーくらいは頼まないといけないのが僕には辛かった。しかも毎日。朝は食べてゆくし、ここでお金を払ってコーヒーを頼むのはもったいなかった。何百円づつでも貯めたかった。インベーダーゲームや麻雀ゲームをしたりしていたようだったが、僕はガイドブックや紀行ものなどの本を読んで過ごした。
夕方からの喫茶店でのバイトは、そこのオーナーの妹が同級生で、どういう偶然だったか、たまたまバイトをしないかということになった。Aスタジオ時代の食事作りの腕が買われたわけではない。食べるものはレンジに入れればいいものしか出していなかったのだから。サイフォンでコーヒーを入れたことはなかったが、教えられるままやってみたら、兄さんオーナーからコーヒーの入れ方がうまい、センスがいいと褒められた。
家に帰ると深夜12時前で、それから風呂に入って寝て、目覚ましで起きてという生活がしばらく続いた。

旅費も問題だったが、フィルム代と現像代も大きかった。
で、わしはインドに行く前に考えた。
今回のコースの地図を拡大コピーしてのりで貼り合わせて、一畳くらいの大きな地図を作った。そしてルートを赤の色鉛筆で線を引き、立ち寄る主な都市を赤丸で囲ったり。それをFフィルムの何部に持って行ったか忘れたが、とにかくアポイントを入れてもっていった。宣伝部だったろうか、だとしてもどんなふうにアポを入れるのだろうか。今の僕には不思議だが、当時の僕はとにかく電話してあってもらう約束をとりつけた、のだろう。
打ち合わせテーブルで名刺交換の名刺がないので挨拶だけして名刺をいただいて、で、さっそく「じつはですね」ときりだした。慣れていないから切り出すタイミングというか、落語でいえばまくらというか、話し方すべてがぐちゃぐちゃだったろうと思うが、何はともあれと、力作の巨大な地図をテーブルからはみ出すほどに広げ、ピラミッドの頂上で記念写真を撮ること、そのために旅をすること、カメラマンになるためにスタジオで下積みをしていること、そして今、持ってゆくフィルムがいるのだということを言ったのだろう。旅の途中Fフィルムの宣伝をするとか、帰ってきて写真を使うときにはFフィルムのクレジットを入れるとか、いうようなこといったのだろうが、どのようなことを提案したのか全く覚えていない。今だったらどういう提案をするのだろうと思っても何も思いつかないから、20代の頃のこと、きっと筋の通らない訳のわからないことをいったのだろうと思う。それで、フィルムをくださいと言ったのだから思い返せば赤面ものだ。
たまたま対応してくださった方は45か50歳くらいのがっしりとした体格の方だった。
僕を見たり地図に目を落としたりしながらつきあってくれて、ひとしきり僕の「営業」が済むと、赤線の入った巨大な地図に目を落としたまま、
「いいねぇ・・・」
と独り言のように小さくつぶやいた。そして顔を上げて僕を正視して、
「いいねぇ、夢があって」
と、少し口元をゆるめていった。優しい目をしていると思った。
「その宣伝のことはどうでもいいけど、何本欲しいの?」
「300本・・・」
「300本ねえ。差し上げられるかどうかもわからないし、それに300本は厳しいかも知れないけど、いずれにしても2,3日うちに連絡するよ」
と。
帰り道、お願いする本数が多すぎたかなとも思ったが、多すぎるかどうかを決めるのは僕の問題ではなく、先様におまかせすることだ。僕にとって大事なことは、正直に思いを伝えること、それだけだし、それしかできないのだ。そう自分を納得させながら西麻布の交差点にむかって坂を下った。

その頃はAスタジオは元麻布にスタジオを新築して営業していたが、それまで借りていた雑魚寝マンションもそのまま借りていたので、社長の了解をもらってそのマンションに東京で「営業」しているちょっとの間居候させてもらっていた。
そこに3日後、Fフィルムのその方から電話があった。緊張して後輩から受話器を受け取ると、その方は100本やれることになったといった。35ミリのリバーサルフィルムを100本。少しくらっとしてしまったほど有り難かった。
どこの馬の骨ともわからない若造を門前払いしてもよかったものを、いろいろと手続きをとってわざわざそうしてくださった。Fフィルムにメリットがあるとか広告効果があるとかそういうことでは全くなくて、ただ夢を応援してくれたのだ。ピラミッドの頂上で記念写真を撮るなどというばからしいことや、カメラマンになるのだということを応援してくれたのだ。夢を応援してくれたのだ。
次の日約束の時間までにはだいぶ余裕をもってマンションを出て、Fフィルムのビルまで歩いていった。芋洗い坂を上って六本木の交差点にでる。そこから渋谷方向に六本木通りを西麻布の交差点までいって、そこを少し上ったところまで。六本木通りはスタジオマン当時よく通ったが、午前中のこの通りはいつもしらけた感じがしていた。でも今日はなにかが違って見える。
Fフィルムのそのフロアーにうかがうと、会社の紙袋に丁寧に入れて、ちゃんと用意がしてあった。おまけに胸に会社のロゴの入ったTシャツが2枚はいってあった。お世辞ではなくこのTシャツは丈夫だった。旅のあいだ1年間着続けて全体に薄くはなったものの結局破れなかった。密かにこれもとっても有り難かった。ピラミッドの頂上での記念写真でもこれを着て写った。と思う。

両手で紙袋のとってをにぎって、Fフィルムのその方に深く頭を下げてお礼を言った。
「身体に気をつけてね」
その方はそういって僕を旅に送り出してくれた。その方にはそれっきり会っていない。もう名前も顔もわからない。
こうして年を経て、その方がしてくださったことの意味を少しは味わえるようになって、感謝の気持ちはましてゆく。



追・沢木耕太郎『深夜特急』の1巻目2巻目は、1986.5に出版されたとあるので、この年の夏にインドからエジプトまでの旅に出かけたことになる。ちなみに、帰国はちょうど1年後になった。
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Aスタジオ顛末記6〜ピラミッドへ〜 [カメラマンになる周辺など]

その頃は、スタジオを麻布の方に移転・新築ということで、赤坂のスタジオは閉めて、麻布のマンションに汗臭い男たちがどやどやと住み込んでロケアシ(ロケーション・アシスタント)のサービス、つまり撮影の出張手伝いということを仕事にしていた。
僕は、K多さんのスタジオと、車の撮影を多く手がけているN澤さんのところにお世話になることが多かった。K多さんとN澤さんは、ふたりの人柄的なタイプは違うのだけれども、ふたりとも物撮り(商品撮影)の、たとえるならマイスター級の方だった。Aスタジオ時代を振り返っても、このおふたりには特にお世話になったし、物撮りの基本を教わった。もちろん何も教えてはくれないが。

N澤さんは浜松や広島のスタジオに行って新型やマイナーチェンジした車の撮影を多くしていた。当然泊まりがけでの仕事になる。その頃になるとさすがにミーティングで縮こまることはほとんどなかったものの、それでも地方の小さなシングルの部屋に寝る方が気が楽だったし、浜松のスタジオでは土地柄ときおりお昼に鰻重がでた。鰻重の時は、N澤さんはいつも「すとうには大盛りにしておけ」と注文の人に大盛りを頼んでくれた。嬉しかった。もっともたいがいカメラマンは、アシスタントによくものを食わせる。腹の減った僕らへの厚意ではあるのだけれど、「腹が減っては・・・」という、つまり「しっかり働け」という意味でもあるので、そこは勘違いしてはいけない。いずれにしろ食い物には弱いので、まあ、そういうことでもN澤さんのロケはそんなおまけもちょっと嬉しかった。
デジタル化した今となってはどういうものかよくわからないが、車の撮影というのは、なかなか大変なもので、つまり車という反射するようなものは、車に何を反射させてどのようにライティングするかということで、写されたものが商品そのものになってしまうのだった。その商品のイメージという以上に、商品そのものになってしまう、という責任がついていた。専門的なことはさておいても、かなり技術のいる撮影だった。責任の重い分、当然それだけ神経を使い、時間と手間もかかった。

僕は浜松のスタジオにもよく連れて行ってもらったけれども、広島のスタジオの方が多かったのではないかと思う。
広島のスタジオでは、朝は9時にスタジオに入る。途中、食事休憩と小さな休みはあったが、それ以外はひたすら働く。メインのカットでは、その車が美しく見えるアングルを決め、それから延々とライティングと写り込ませる黒布等をセットしてゆく。カメラ位置からN澤さんは声を張り上げながらライティングを指示してゆく。もっと右だとか左だとか、そのライトじゃなくて一つ手前のやつだとか。スタジオマンはこまめに重いライトを動かす。そうやって一つひとつ丁寧に作ってゆく。メインなどの大きく使うカットは特に神経を使う。丸々2日かけてその1カットを切るということも普通にあった。
この車専用のスタジオでは、車撮影の経験の豊富なスタジオマンがいて、僕はN澤さんのアシスタントとしてカメラまわりのことをするのが仕事だった。露出をはかったり、4×5(シノゴ)のフィルムの詰め替えをしたり、ポラのネガでピントを確認したりなど、相変わらずきりなく仕事があって、気がついたことは全部仕事だった。

夜11時半頃に、軽食だったか夜食だったかが出る短い休憩があった。スタジオマンたちも僕もへろへろになってしまっているが、最終コーナーをぬけ、もう一仕事と気合いを入れ直して最後の直線を突っ走るタイミング。
僕は出していただいたものを食べ、先に真っ暗なスタジオに入って変圧器の主電源をもういちど入れ、ゆっくりと30パーセントまで上げると、タングステンの明かりがスタジオのあちこちでぼんやりとともりだす。BGMに流しているFMのスイッチをオンにすると、ちょうど深夜12時。『JET STREAM』という番組が流れるのだった。オープニング曲は美しく透明なフランク・プゥルセル楽団の「ミスター・ロンリー」。そして、城達也のあのナレーションが静かにスタジオに響きだす。

・・・はてしない光の海を
ゆたかに流れゆく風に心を開けば、
きらめく星座の物語も聞こえてくる・・・

他のスタッフが入る前のちょっとのあいだ、スタジオの冷たいコンクリートに腰を下ろして膝を抱き、ひとり静かに城達也のナレーションとイージーリスニングに耳を澄ます。ジーパンの膝の破れをちょっと撫でたりしながら。一人っきりのスタジオは満天の星座がきらめく荒野に変わり、僕は旅人になる。一曲聴くことができるかできないかのささやかな時間だったが、心安らぐ秘密の世界だった。
他のスタッフが入ってくると一人旅は終わり、N澤さんが入ってくると、ボリュームを下げもしないのに、「悲しき天使」は飛び去り「シバの女王」もどこかに消えて、「サン・トワ・マミー」恋が終わるようにもう世界は消えてなくなって、もう何も聞こえてはこなかった。
そして僕は変圧器を100パーセントまで上げ、また切りのいいところまでがっちりと仕事をして、その日が終わる。

お疲れさまでした、とN澤さんに挨拶をしてビジネスホテルのシングルのドアを押すと、シャワーを浴びないとと思う間もなく「崩れ落ちる兵士」のようにそのままベッドに倒れた。背中にベッドのスプリングのちょっとしたでこぼこを感じながら、こんな事していていいのかなと思う。こうして「いろは」を学んでゆくためにAスタジオにやってきたこともわかっている。ただ、いつまでもここにいてはいけない。もう一歩どうにかしないといけない。ここに慣れすぎてはいけない。毎晩、疲れ切った身体で思うことは同じ事だった。いつまでもこのままでいいのか、と。
麻布のマンションでは、いつもいろんな事がざわついていたし仲間と雑魚寝していたから、自分の声と静かに話しする時間がなかった。そういう意味でもシングルの部屋でひとりそんなことに思いをはせる時間があったことだけでも本当にありがたかった。

そんなことが重なったある晩も、どこかに落ちてしまいそうな感じ、意識が消え入りそうになっていた。そんな瞬間に、ふと思った。
ピラミッドの頂上で記念写真を撮ったら爽快だろうな、と。
ふと脳裏をよぎっただけのことだったが、その一瞬後には、
「ピラミッドの頂上に記念写真を撮りに行く」と決めていた。登っていいかどうかも、実際登れるのかどうかさえ知らずに。
その晩はちょっとだけ考えたりした。
クフ王のあのピラミッドの頂上はとんがっているのかな、とか。
とんがっていたら三脚はどこにどうやって立てたらいいかな、とか。
立てられないときは釣り竿にぶら下げてセルフタイマーで撮ってはどうかな、とか。
きっと、とても短い時間だったのではないかと思う。あまりにも唐突でばからしく思える想像だったけれども、僕は既にピラミッドの上にいた。

後日、というのは1年後くらいにロンリーなバックパッカーになって旅に出るのだった。日本航空提供の「JET STREAM」の企画意図にぴったりはまったわけだが、バックパッカーには、日本航空などという高価なキャリアはそれこそ雲の上であって、当時はバングラデシュのビーマンと安さを競っていたエジプトエアーに乗ることになる。
「巨人の星」時代から相変わらずはまりやすいというか、騙されやすいというか、その気になりやすいというか。「重いコンダラ」は、こんどはバックパックに入れて歩くことになったし、ピラミッドの頂上まで担いで登ることになった。


追記・後日クフ王のピラミッドに登りますが、このピラミッドに登ることは禁止されています。20年以上前のことで時効なので書いてはいますが。禁止されている理由は知りませんが、滑落して死者が出ているやに聞いたことがあります。たしかに降りるときはほんとうに怖かった。

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Aスタジオ顛末記5〜いずこへ〜 [カメラマンになる周辺など]

半年くらいで一通り仕事は覚え、そうして相変わらず誰がいなくなったとか、いろいろと騒動はありながら、あっという間に一年くらいが過ぎた。そのころには、さすがにそれなりに仕事もできるようになっていた、と思う。スタジオマンというのは、カメラマンになるためのステップの下のステップで、たいがいの場合ここをステップにして、カメラマンのところに助手に行くことが多い。Aスタジオでのこの仕事は、長くやるといったようなものではなく、そこでは自分が師事したいカメラマンのところに自分でアポイントを取って面接にいったりしていた。たいがい2年前後で「進路」を決め、そして、やっぱりある日いなくなるのだった。

高校生の頃、学校の帰りによく写真集を立ち読みした。森山大道、東松照明、濱谷浩、奈良原一高、細江英公、・・・そうした名前が書棚で肩をいからせながらせめぎ合っていた時代だった。東松さんのアフガニスタンを撮った『泥の王国』も凄いなあと思ったし、森山さんのあの独特な迫力の写真も凄いなあと思った。そうした中でも、僕は濱谷浩(はまやひろし)さんの『雪国』が特に好きだった。個人的な感じだが、濱谷さんの「雪国」の写真は特に奇抜な表現は全くなく、淡々と新潟の山の中「雪国」の生活・風物を描いているように見える、けれども何かいい、どこかとても惹きつける何かがある、高校生の僕にはそんな漠然とした感じとして伝わった。高校生としてはかなりシブイ系だったのだろうと思う。

Aスタジオに勤めている頃、たまたま川崎市民ミュージアムで濱谷さんの写真展があったのを見にいった。さすがにその頃は月に2回くらいは休みがもらえた。その写真展では、ごく最近撮った銀座のスナップ写真もあったが、高校生の頃に写真集で見たあの『雪国』のオリジナルプリントもあった。四つ切りと半切で揃えてあったと思う。
懐かしい思いと新鮮な気持ちとで『雪国』のオリジナルプリントを見た。そうして白黒の世界にじっと浸っていると、自然と目尻から熱いものが流れだしていた。そして、それを指先でぬぐいながらプリントに見入っていた。
村の人たちとの人間関係といってしまえばそれまでだけれども、何かしっかりとしたものがあってこそ写し出されるもの、自然でありふれているようだけれども何か深いものが写されていた。その雪国と雪国に暮らす人々に対する慈しみがあった。その人たちを愛しているのがよくわかった。愛が写っていた。
写真を見て涙したのは初めてだった。
はじめて写真には愛が写ると知った。

写真展を見てしばらくしてのころ、濱谷さんに電話をした。濱谷さんは「いまはそうした仕事はしていないから・・・」とおっしゃって断った。僕はあきらめてしまった。今調べてみると濱谷さんは1915年大正4年の生まれになるから、そのころ70手前だった。
今思うと、僕は濱谷さんの仕事のお手伝いもそうではあるけど、それ以上にいっしょに過ごしたかったのだろうと思う。朝になったら庭を掃いて、お茶をいれて、「おはようございます」と挨拶をして、そうした当たり前の日常を過ごすなかで、何かしら濱谷さんの人となりに触れたかったのだろうと。写真は自分自身を写してしまう。だからこそ尊敬できる写真家に師事して、技術や人間関係といったものも大切だけれども、それ以上に何か大切なものに触れることがとても大事なのだろうと思う。いまでもあのときのことを思うと、納得してはいるけれど後悔の念がちらっとしてしまう。断られても、「お会いするだけ一度」とか「一度だけお話を」とか「サインください」とかとか、何かずるずる方式で濱谷さんにお茶をいれられるようにできたはずだったと思うと。濱谷さんが「いまはそうした仕事は・・・」とおっしゃっても、写真を撮るとか撮らないとか、そうしたことは確かに写真を撮る人になるには大事ではあるけれど、でも別な見方をすればどうでもよかったはずで、まずは美味しいお茶を味わってもらえるようなそんな存在になりたかったのだから。でも結局僕はどうしてもそうしよう、とはしないでしまったのだが。
師匠と呼べる人が写真人生の中でいないのは、納得はしているけれど、ときには寂しく残念に思う。

僕は次にどうしたらいいのだろうか。
ああ、早くここから出て行かないと。
ぼやぼやしているとあっという間に時間が過ぎる。何かに追われるように焦っていたように思う。


追・濱谷浩 1915.3.28~1999.3.6
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Aスタジオ顛末記2〜「巨人の星」かよ〜 [カメラマンになる周辺など]

僕が勤めはじめた当初は、Aスタジオは赤坂にあった。赤坂にあったのでAスタジオだった。まわりには有名なところも含めてラブホテルもたくさんあるという土地柄、ということもあって、スタジオは一見ラブホテルに見えなくもない建物だった。実際勘違いしたカップルが受付に来て、僕らは僕らで編集者・さまざまな分野のモデル・発注元の会社の宣伝部などいろんな人種が出入りするから、どういう人が入っても不思議とは思わす、相変わらずの調子で「おはようございます!」と業界的に元気に挨拶をする。どうも様子が違うのを察してそそくさと帰っていったりしたカップルにも出くわしている。受付のカウンターに二十歳くらいの汗臭い男がいて、しかも元気に挨拶されるラブホテルにはあまり入りたくないだろう。思えばあの白い3階建ての建物はもともと何だったのだろうか。思い出すといまでも不思議に思う。そういえば、スタジオの看板も出していなかったのではないだろうか。

入りたてしばらくは先輩といっしょにスタジオに入って、見よう見まねで仕事を覚えてゆく。趣味で写真を撮っているのとはわけが違うプロの現場。撮影してしまったら「あとで」ということはできないので、カメラマンはいうまでもなく仕事によって広告代理店、デザイナー、スタイリスト、編集者、担当者、そしてそのアシスタントたちもそれぞれがやるべき事をやる。誰も失敗は許されない。(というと、いかにも業界っぽい)
のに、のに、スタジオマン時代はいろんな失敗をやらかした。
あるカメラマンさんのスタジオに入った。何に使うのかはわからないが、飛行機の模型の撮影だった。航空会社の受付に置いてありそうな、台座に乗せられて飛行機が斜め上を向いて飛んでゆきそうな、そんな感じのものを撮影する仕事だった。アングルが決まったあと、カメラマンさんが、布で撮影物を拭いてきれいにしたが、思いがけず汚れが落ちないところがあった。「スタジオさん、この汚れどうにかならないかな」と聞かれて「はい」といって相変わらずすっ飛んでいってアセトンをもってきた。これなら良く落ちるはずだった。よく汚れが落ちると確信していたから、アセトンをウエスにつけて自信をもってそこをさっと拭くと、みごとに機体の白い塗料もきれいにはげてしまった。全く僕のミスだった。ただ謝るしかない。他にどうしようもない。
幸いにもと言っていいものか、カメラマンさんはアングルを変えて、まあどうにかなると撮影した。撮影してくれた。
本当に申し訳ございませんでした。
ひらがな名前の女性のカメラマンさんのスタジオに入った。ハッセルブラッドという中判のカメラでモデルの撮影だった。このカメラはマガジン(フィルムを装填するところ)が取り外せるようになっていて、はずしたカメラ部分は遮光幕がむき出しになっている作りだった。人に呼ばれて振り返った瞬間、三脚に取り付けたハッセルブラッドのその遮光幕に指を突っこんで壊してしまった。その女性のカメラマンは激怒し、そのまま受付に行ってどうしてくれるんだと言っていた。他のスタジオマンと交代させて欲しかったようだったが、人手がなくて僕がそのままスタジオに残った。「おまえはもう何もするな」といった感じで、針のむしろだった。僕が悪いのだから仕方がないが。撮影自体は予備のハッセルブラッドでどうにか事なきを得た。
本当に申し訳ございませんでした。
N澤さんのスタジオ、タングステン電球(写真撮影用の白熱電球)での時計の撮影のこと。時計の商品撮影も本当にデリケートな撮影になる。膝くらいの高さの商品台に化粧板を敷き、磨き上げた時計をセットして大判のカメラでアングルを決め、そのあと、上の方から、右から左からとライティングをしてゆく。ライティングは直接光は当てないで、撮影物との間にトレーシングペーパーを垂らして光を柔らかくし、美しい写り込みにする。撮影するものは小さくても熱を持ったライトの数は多く、幅の広いトレーシングペーパーをいくつもたらすので、狭い。そこに体を縮めて入り込み、ほんのちょっといろんなものを動かす。
夜遅くまでの撮影。タングステンの電球で暑い。毎日の寝不足で眠い。当然のように(といってはいけないが)くらくらっとしてしまう・・・。で、がつんと商品代に頭がぶつかって眠気が一瞬で吹っ飛んで
「すいません!」とあやまるが、
「ばかやろう、何やってんだ!」と鉄製の4×5のポラホルダーの角が頭に刺さった。
セッティングはやり直しになる。
本当に申し訳ございませんでした。
仕事柄忘れ物が怖い。
Yさんの出張ロケに大型のストロボに使うための「かさ」を忘れたことがあった。じろっとにらまれて、「しかたないな」といって仕事を続けた。
本当に申し訳ございませんでした。
きりがない、わけではないがまだあるがこれくらいにしておこう。

一日の仕事のシメはミーティングだった。会議・打ち合わせなどと訳してはいけない。その日の厳しい反省会なのだった。上記のように失敗がいろいろとあったから、それでまたいろいろと怒られてしまうというか、怒鳴られてしまうというか。
これは僕ではなく僕よりも後に入ったKのことだったが。ある晩のミーティングの時、彼はものすごく眠かったようだった。僕の隣でパイプ椅子に座って、頭が船こぎをし出したのがわかった。僕は肘でついて彼を起こした。ぎくっと起きたが、またすぐに頭が崩れだした。Mさんがカチンときたのがわかった。
「眠てんじゃねえ!」と彼の膝を蹴った。Mさんは話の筋がよく通っている人で、ほとんど怒鳴ったりはしないし、たとえば「失敗する」ということに関してもそれが積極的によかれと思ってやったことか、それとも怠慢でそうなったことか、ということを厳しく見て判断するような人だった。
彼はすいませんでしたと神妙になったが、すぐにまた宇宙との交信が始まった。
Mさんは激怒し、
「ふざけてんじゃねえ!」と彼の胸に蹴りが入った。Mさんは小柄ではあったが柔道をやっていたこともあって体重のかけ方がいいのだろう、パイプ椅子ごと見事にすっ飛んで事務机の引き出しに頭を激打した。

僕がそこにいた2年弱の間に入ってきた人もそれなりにいたが、辞めていった人もまた多かった。ミーティングで蹴られた彼もその後間もなく辞めてしまった。ひとこと言って辞めるのなら辞めるというのだろうが、「夜逃げ」ということがままあった。Kもやめたのか夜逃げだったか覚えていない。
昼近くになって、先輩が「そういえば、Uはどうした?」と聞く。
そういわれれば顔を見ていない。誰も知らないという。
で誰かがUさんの荷物を見に行くと段ボールふたつくらいの着替えなどがなくなってもぬけの殻。で、
「Uさんの荷物がありません。やられたみたいです」
とだれかが報告。夜逃げ。毎晩誰もが熟睡してしまうから、そういう意味では夜逃げは難しくはないが、なにも夜逃げしなくても一言辞めるといって出て行けばいいのにと思う。それに「やられた」と脱走兵に対するようなものいいもどうかと思ってしまうが、確かに何かそんなふうな雰囲気が漂っていなくもなかった。

「巨人の星」が放送されたのは、記憶では僕が小学2年の頃からだったのではないだろうか。夕方5時、白黒のテレビの前にじっとして始まるのを待つ。大塚製薬の提供だったかな。そして、ボールを打つカキーンという音、スパイクで走って滑り込み、そしてそのあとの観客の歓声!そしてあのテーマ曲のイントロが始まる。それから30分はテレビの前を離れることができなかった。僕はいまでも根性はほとんどないし、当時も根性はなかったように思うが、そうした毎日30分が、僕らの世代の男の子たちに、根性とか最後までやり抜くとか、何かそんなものを植え付けようとしていたのかもしれない。
以前は「巨人の星」のあるシーンを思い出すことがままあった。そのシーンというのは、飛馬の顔がまだ子狸に似て描かれているくらいのごく幼い頃のこと、かれは毎朝決まったコースをランニングしていた。ある朝いつものコースの途中、何かの工事でその道を通ることができなかった。飛馬は手前の十字路まで引き返し、そして他に選択可能なふたつの道のどちらを行こうか迷ったが、近道の方を選んで「今日は楽ができた」というようなことを思って走り続けた。しばらく走ると通りをふさぐようにして立ちはだかる人がいる。顔を見上げると言わずもがな父一徹だった。一徹はそこで言う。近道か遠回りか迷ったらば遠回りをしろ、と。そういう生き方が自分を鍛え最終的には自分のためになる、そんなことを言ったのだった。
小学2年の僕がその哲学に感銘を覚えたのかどうか知らないが、ただ言えることは、そんな星一徹の教えが僕の中に入ってしまって、仮死状態で生き続けていたということだ。勤めるスタジオ探すのにタイミングを合わせたように、仮死状態のものがうごめいたのだろうかと振り返って思う。見るんじゃなかったな「巨人の星」。
どうでもいいことだが、一徹は一度もちゃぶ台をひっくり返したことはないらしく、全くの濡れ衣とのことらしい。イメージというのは恐ろしいものだ。
H.Wife氏いわく「それにしてもいつまでも遠回りしてるよね、人生」
飛馬のように眼の中にめらめらと炎が上がったりはしていないが、見えないロープで結ばれた「重いコンダラ」をいまだにひきずっているのだろうかと思うと気が重い。


追・「巨人の星」の主題歌は
「おもいこんだら、しれんの道を、ゆくが男のど根性・・・」
で始まるのですが、その「思い込んだら」と歌っているところで、飛馬と伴宙太がロープに結わえたタイヤをうさぎ跳びしながら引きずるシーンが流れるんですね。それを見ていると、子供にはその重そうなタイヤのことを「重いコンダラ」というのかなと、思えるのでした。僕はもちろんですが、同世代の何人もの男性から同じように思ったと証言を得ています。

Aスタジオ顛末記1〜いざタコ部屋〜 [カメラマンになる周辺など]

高校教諭をしていたその年末年始の休みに東京に出て、コマーシャルフォトだったかアサヒカメラだったか写真雑誌のうしろに載っている「スタジオマン募集」をあてに、とにかくあちこちの貸しスタジオを訪問しようと思った。そして、できたらどこかしら働くところを決めようと思っていた。
大学生の頃に「なるにはブックス」という、何々になるにはどうしたらいいかということを書いたシリーズ本の『カメラマンになるには』という本を読んだことがあった。しかも2度読んだが結局よくわからなかった。どうやってもカメラマンになれるし、どうやったらいいのかやっぱりよくわからない。雑誌で毎月目に入るスタジオマンとやらになることしか、具体的なステップとしては思いいたらなかった。
六本木・麻布・赤坂あたりのスタジオに実際にいってみると、正月だということで、休みだったり、ホリゾントを新しい白で塗り直していたり。当時有名なRスタジオでは、スタッフが建物の前の路地でキャッチボールをして遊んでいた。それぞれだった。僕が後日勤めることになるAスタジオは、確かにお客さんはいなかったが対応に出た当時セカンドのYさんが、スタジオでの仕事をいろいろと説明してくれて、そのあと「折角だからスタジオ見てみる?」と僕を促して、駈けだしていった。後日勤めるようになってわかったことだが、何をするときにもとにかく「走る」。僕もすぐに走ることが習い性になることになったが。そんなYさんの後を追うようにして息を切らせて走ってついていった。スタジオを一通り見せてもらってもとの応接セットに戻り肩で息をし汗をぬぐいながら、ここがいい、と思った。Yさんは宣伝のつもりで「うちのスタジオからは篠山さんの事務所にも助手に行くし・・・」といっていたが、そういうことは僕にとってはあまり大事なことではなく、ひたひたと滑るように走ってゆくYさんの後ろ姿に感じるものがあったのだった。

赤坂にあるそのAスタジオに勤めることになった。試験や面接はない。スタジオ見学に行ったその後、電話をして「いついつ行きます」と伝えて、それで話は決まった。教師になるのとはわけが違って簡単だった。3月末まで北海道で高校教諭としての残務整理をして、山形に立ち寄ったものの、その足で赤坂のAスタジオに行ったのだった。
勤めるというと聞こえは普通だろうが、その頃のそのスタジオでのスタジオマンという仕事は、まあ、ようは雑巾のように何でもやるという感じだった。スタジオ内の機材の準備やセットはもちろんのこと、「もうちょっと薄い赤のバック紙がないかな」といわれれば、走って取りにゆくし、「これをこう持っていろ」といわれればもういいといわれるまで持っているし、「マクドナルドで、これこれを・・・」といわれれば、走って買いに行くし。「どこか弁当を頼みたいんだけど」といわれれば近くの出前してもらえるところのメニューをさっと出し、弁当が届くと同時にお茶をいれ直し。食べ終わったらまたお茶を入れ直して、さっと後片付けをして。撮影が終わったら終わったでぐちゃぐちゃになったスタジオをとっとこ後片付けをして、ホリゾントを使えばスタジオが全部終わった夜にきれいに磨いて、必要だったら塗り直しをして。
やることをいちいちあげたらきりがない。

当時スタジオマン仲間は、出入りはあったもののたいがい10人前後いたように思う。住み込みだったが、泊まる部屋とかベッドがあったわけではない。先輩はそれぞれどこかのスタジオで寝ていたが、ときどき、階段で行き倒れのようにして寝ている先輩もいた。後でやってみてわかったが階段の段々に体を這わせるようにして寝ると、ぐったり疲れた体にはこれが案外と気持ちがいい。僕をいれて新人4人は事務所で寝ていた。地下に炊事場と布団と私物置き場があって、毎晩布団を1階の事務所まで持ってあがって寝る。事務所で寝るというのは、一応24時間営業ということになっていたので、いつでも電話をとれるようにということであった。実際には夜中に仕事の電話がきたことはない。僕自身は受けたことがない。あったのは、六本木あたりで飲んだ社長が酔った勢いで気まぐれに電話をしてよこしたくらいだった。
新人は6時半に起床、それから買い出しに行って朝飯を作る。新人の中でも僕がスタジオに入ったのが一番遅く、つまり一番下だったから、他の新人も手伝ってはくれるけれど、食事は基本的には僕の仕事ということになっていた。6時半の起床というのはそれだけでは特に早いとは思われないかも知れないけれど、夜はたいがい11時か12時、おそければ1時頃から「ミーティング」という反省会が行われ、その後機材のことを勉強したりしてから寝ていたので、初めの頃は3時頃に寝ていたのではないかと思う。
厳しいだろう事は承知で入ったが、食事を作らなければならないとは知らなかった。自分の食事もろくに作ったことがなくて、せいぜいがカレーライスくらい。それを今日から10人分、一日2回作れと。午前は9時半頃を目安に作り、夜は7時半頃だったように思う。メニューを考える。まずこの苦痛から始まる。料理本も置いてあるので参考にはするが、作ったことのない人間には、いちからわからないのだから参考にはならず、料理の本は作れる人が見てこそ参考になるものだとはじめて知った。二十歳そこそこの男たちが働きづめのあげくに食う食事だから、とにかく肉料理を出せといわれていたので、ショウガ焼きとか、肉野菜炒めとか、作れないなりになんとかしたのだと思う。料理の仕事の救いは、週に2食メニューが決まっていて、火曜日の夜はとんかつ、土曜の夜はカレーライスだった。メニューが決まっていて、何を作るか考えなくていいだけで本当にありがたかった。
そのころのチーフは、食べることには細かいことも気になる人で、とんかつの付け合わせに切った千切りのキャベツをつまみ上げて、さも不快そうに
「だれだよ、このキャベツ切ったのは。人に馬の餌食わせんじゃあねぇよ」
と、キャベツを皿に捨てるように戻した。確かに幅は太くてとうてい千切りとはいえなかったと思う。だけどもできないのを承知でやらせてるんじゃないか、といいたい気分だった。もちろん決して言えなかったが。
ある時、料理本に載っていたので豆ご飯をした。チーフは
「オレ豆きれえなんだよなぁ」とまたもさも不快そうに豆を一粒ひとつぶ箸でつまんではご飯から除いてすてた。このときはなんだか悔しくて悔しくて悔しくて目尻がにじんでしまったのを覚えている。
それにしても写真のことを学びに来たのに、なんで食事作りでこんなに辛い思いをしなければならないのか。食事を作らなければならないとあらかじめ知っていたら、決してAスタジオには入らなかった。
余談になるが、1年くらい経った後、あるとんかつの晩に、チーフがキャベツを箸でつまみ上げてまじまじと見ながら
「今日の千切り切ったのは誰だ」と聞くので、僕だと答えると
「・・・100点だな」とひとこと言った。料理の修業に来てるのだったらよかったが、生憎専門が違うので、今さら料理をほめられてもなあとドライに思う自分がいた。この時代に料理作りは鍛えられた。腕の善し悪しは別としても、たいがいのものは苦痛を覚えることなく作れるようになった。

勤めて3ヶ月は新人ということで休みがなかった。毎日へろへろだった。そしてその3ヶ月間は月3万円の小遣い(?)ということも決まっていた。休みがないのだからお金の使いようもないのだが、Gパンが破れてしょうがないので仕事の合間に近くにそれを買いに行く時間だけもらった。
毎日辞めたいと思っていた。ここがこういうところだと知っても、来たときからすでに僕の戻るところなんてどこにもなかったし、教師を辞めてこの世界に入って、途中で辞めて田舎に帰ったら悔しすぎる。もっとも、ふっといなくなる人もたくさんいたが。
修行というか試練というかタコ部屋生活というか、そんなことがいやとなるほど続いた。この時代虫歯がなかったのは幸いだった。歯を食いしばって頑張り抜きたいとき、悔しさを奥歯でこらえて耐え抜きたいとき、虫歯が痛くて頑張れなかったり耐えきれなかったりしたのでは、人生あまりにも悲しすぎるから。
あごの筋肉も発達した。

Aスタジオ顛末記4〜S原さんのこと〜 [カメラマンになる周辺など]

とにかくAスタジオでのスタジオマン時代は怒られたり怒鳴られたり、カメラマンのMさんには足蹴にされたりもした。人権無視もはなはだしい小さな社会だったが、おまえがとろいからだ、いやならやめろ、文句があるならやめろ、そんな上下のはっきりした世界だった。
学生の頃にアルバイトはしたけれど、社会経験は1年間教員をしただけだったし、自分自身の正しさとでもいうのか、当時はそういうものをネガティブな意味でかたくなに持っていた。世の中のことは何も知らなかった。
電話に出れば、「その田舎訛りはなおせ」といわれ、そんなことにも反感を覚えた。そんな感情が顔に出れば「田舎に帰れば」といわれ。後になって思えば、ここは東京で東京の人たちと仕事をさせてもらっているのだから、お客様の立場に立って、つまり東京の言葉で対応するのがあたりまえのことだった。
経理のS原さんにも何かにつけて怒られた。お茶の濃さ加減ひとつでも
「わかる!?すとうくん。こんな味がしないようなお茶じゃだめなの。わかる!?」
といわれ、湯飲みの持ち方も、配る順序も、いちいち怒られた。
S原さんは、とにかく僕の顔を見かけるたびに、
「すとうくん、だめよ、そんな事じゃ。もっとさわやかになりなさい!さわやかに!わかる!?」
全くわからなかった。「さわやかになりなさい!」「さわやかになりなさい!」と言う口が酸っぱくなり、言われる耳にたこができ、それでもそういわれ続けた。「さわやかになりなさい」といわれても、さわやかになるなり方なんて学校では教わらなかったことだと頭の中で反論してみたりする。「おれのライバルはコカコーラかよ」と半分冗談で思ったりした。もっとも半分は冗談ではなく、ずっと頭の片隅に「さわやかになるって、どういうことだろう」という問いかけがあった。もちろんわからなかった。
さわやかになりなさい、と言われて人はさわやかにはなれない。決してなることはできない。できるとすれば、それを意識し続けて、「さわやか」であるということがどういう事かわからなくても、それでも、今の在り方はさわやかだったろうか、と振り返り振り返り生きることでしか変わってはゆけないのではないかと思う。その結果として、今日は少しさわやかになれたなどと意識することはできないほどの目に見えない変わり方か、ある時爆発的に違った在り方をするようになる、こともあるのではないかと思う。それが自分にとって大切なことなら、頭の片隅のいつも取り出せるところにおいて、いつもいつもその言葉・意味を意識すること、そして振り返ること。長い道を歩いて、気がついたときにひょっとしたらたとえばさわやかになっているかもしれない。なっていないかも知れない。それでも意識し続けることでしかないように思う。結果は保証できない、結果はたとえば神様の領域だから。

ちょっと話がそれるが、あるサッカーの日本代表選手が母校に帰って講演をしたことがニュースになっていた。その中で「努力すれば(良い)結果は必ずついてくる」というようなことを言っていた。そんなことを保証していいものだろうかと僕は思う。結果はわからない、それでもやり続ける、ということでしかないと思う。たとえば、サッカーをすることが自分の人生の大切な一部分だからとにかくサッカーの練習をやり続ける、のはいいと思う。たとえば、「(良い)結果は必ずついてくる」と信じて子どもたちが努力する、それは一見素敵なことのように見える。しかし、それでも必ず努力した人間が結果を出せるという保証はどこにもない。未来のことなのだから。未来や結果は自分の領域ではなく、たとえば神様の領域なのだから。「努力したけど(良い)結果を出せなかった」その「心」にどういうふうに責任を取るのだろうか。結果が実らなかったらそれはきみの努力が足りなかったからだというのだろうか。もっとやれというのだろうか。「一生懸命やったけど私にはできなかった」と植え付けたいのだろうか。「努力すれば結果は必ずついてくる」それは、努力が形として実った人だけが言う言葉なのだ。やるだけやっても実らなかった人は沈黙しているのだ。その沈黙の声に耳を傾ける必要があるのだ。

話を戻す。
昨年の夏の終わり頃、S原さんと食事をした。十数年ぶりだったろうかお会いするのは。
最近は知らないところには行かず、たまに銀座に行くだけだというので、銀座の交差点で待ち合わせをした。S原さんは相変わらすぽっちゃりしていて、年齢の割には若くて元気な様子だった。ほとんど仕事も引退して、どうしてもとお願いされている2,3のカメラマンの経理をみているといっていた。いずれは僕も経理を頼みたいと思っていたが、人に経理をお願いしなければならないほどではなく年月を経てしまった。三越の上でそばを食べながら、Aスタジオにいた頃の話しに及んだ。
僕が「あのころは、さわやかになりなさい、といわれ続けた」
というと、S原さんは
「あらやだ、あたしそんなこといったのかしら。全然覚えてないわ」
といってあっけらかんと笑っていた。本当に全く覚えていないらしい。あれほど毎日毎日眉間にしわを寄せてまで、口を酸っぱくしてまで言ってくれたのに。
そばを食べた後、ふたりで屋上に上った。以前からこんな空間があったのかどうか知らないが、屋上には人工芝がしかれ、日曜日の子供連れの親子でにぎやかだった。空は建物にさえぎられて角ばっていて、そのせいか手がとできそうなところに青い空が感じられた。そして、風は秋の匂いを含んで気持ちよかった。
「ご馳走するつもりだったけど、出してもらって悪かったわね」
といわれた。スタジオを出た後もS原さんには何度もご馳走になった。僕が出したのは初めてのことだった。いつだったか何か欲しいものはないかと聞いたら、旅行に持ってゆける小さな爪切りで良く切れるのが欲しいといわれた。しばらく探してこれといったものが見つからず、どうしたものかと思い悩んでそのままになってしまっていた。S原さんはそんなことは忘れているだろうが、僕の記憶にはずっと残っていて、今日のことは小さな小さな贖罪なのだと冗談に言った。
「さわやかになりなさい!」と言われてから30年近くも経って、未だに「さわやか」であるということがどういう事かわからないし、今の僕が「さわやか」になったのかどうなのかわからない。ただ、20代のまだおろしたてのスポンジのような時に、そんなS原さんに出会えたこと、口を酸っぱくしてそういってもらえたことをほんとうに有り難いと思う。

下北沢、田口アパート(5) [カメラマンになる周辺など]

ありがたいことに仕事の依頼の電話もそれなりに鳴るようになり、米を主食とする日本人らしい食生活に少しずつもどっていった。
田口アパートには2年しかいなかったのかも知れない。とりあえずバス付きの所に引っ越したかったのだろう、新築間取り1Kのアパートに移った。まっ白い壁紙が、なんだか御殿にでも引っ越したような気分にさせた。そこは田口アパートからは徒歩2分くらいだったから、いつでもお茶を飲みに行けたし、相変わらず麻雀もしていた。けれども、田口アパートから引っ越すと、なんだかまた一人っきりになってしまったような、そんな気にもなった。
田口のおばさんのたばこの煙は衰えることがなかった。メンソ−ルの軽いたばこを吸っていたけれども、遊びに行くと、話しをしながらチェーンスモーカーだった。田口のおばさんはその頃ちょっと太りすぎで、どてっと横になっていることが多かった。おばさんは
「なんだか最近太りすぎて、トドみたいになっちゃったわよ」
といって上半身をうねらせて笑ったが、たしかに日光浴をするそれの姿にそっくりだった。さすがに本当にそうですね、とは言えなかったが。

その1Kにはたぶん2年もいないでイエメンに撮影旅行に行った。結局イエメンには1年と数ヶ月、そのあとドイツ・オーストリア・チェコ・ルーマニア・スペインそしてニューヨークをぶらぶらして都合2年間を遠くで過ごして帰国した。そのことはまた書く機会があるかもしれない。ないかもしれない。

イエメンなどの旅から帰って、また田口アパートにお世話になった。今度は、先にいたところの真下、1階の四畳半だった。そして部屋の中には、今度はイエメンで撮影してきたスライドの厚いファイルが40冊くらい山積みになっていた。それが僕の財産のすべてだった。独立して3年間働き、ご縁があってイエメンという国に行って時間を使い、そうしたもののすべてがこのファイルに変わっていた。

若林に引っ越し、その後明大前に引っ越した。下北沢からは駅の数でいくつかしか離れていないところだったから、時折お茶を飲みに行ったが、仕事が忙しくなるとその数も減った。「心」を「亡くす」と書いて、「忙しい」か、と思う。
明大前にいる頃のある夏、1ヶ月の撮影旅行から帰って顔を出しにいったら、田口のおじさんはなくなっていた。
そして、その何年後だったろうか、アパートを閉めるということをきいた。アパートが建っているところの土地は借り物らしく、アパートを閉めて娘さんの所に同居するということだった。お別れ会のようなこともしたのだろうと思うが、特に話を聞かなかったから、きっとまた撮影旅行に行っている間だったのだろうと思う。


ある夏の午後、久しぶりに下北沢でおりて、そこに行ってみた。我が物顔で闊歩する若者の年齢は下がり、南口の商店街には初めて見る雑貨や衣類のお店が並び、あれほどあった不動産屋はぽつぽつとあるだけだった。
そして僕のメゾン田口があったところは、駐車場になっていた。わずか10台ほどのスペース。未来永劫に田口アパートがあり続けるとは思わないけれども、目の当たりにすると、僕を支えてくれているものが脚や腕を通ってすうーっと抜け落ちて行くような、そんな感じだった。
その何年か後に、埼玉のお宅に行って田口のおばさんに一度会った。それ以来会ってはいない。

下北沢、田口アパート(4) [カメラマンになる周辺など]

鳴るあてのない電話を待つのは、寂しい。
それでも、売り込みに行かないときは四畳半の「事務所」で新しく買った留守番電話で電話を待つ、しかない。長いことそうしているとそれはそれでちょっとは慣れてくるもので、田口のおばさんのお茶をご馳走になっては「事務所」にもどり、そして時々マージャンをしてというようにして過ごしていた。
ある時電話が鳴ったので、僕は驚愕した。
世界文化社のOさんからだった。
「急な仕事だけど」
と前置きがあって、ざくっと撮影内容を説明してくれて、それで、
「空いてる?」
と聞かれた。
空いていない訳がない。
その撮影は今でもよく覚えている。花王石鹸の当時社長丸田芳郎氏を、そしてその次の日にはセブンイレブンの当時社長の鈴木敏文氏を、いずれもインタビュー中の写真を撮るものだった。
精一杯仕事をした。
それ以前にも写真で賞金とか謝礼とかアルバイト代とかを貰ったことはあったが、それがいちばん最初の「ギャラ」をもらった仕事だった。
Oさんとのご縁は、僕がAスタジオでスタジオマンという下働きをしていたときの先輩カメラマンのTさんの紹介で、
「電話入れといてやるから、世界文化社のOさんのところに行ってみろ」
とご紹介いただいたのだった。
Oさんにはその後も月刊誌の特集ページの写真を撮らせてもらったりした。海のものとも山のものともつかないカメラマンを、しかも巻頭の特集などで使うのは勇気がいったろうと思う。こういう感謝の気持ちを表すのにしっくりくる日本語を知らないが、本当に感謝している。生きている間に付き合う人はどのくらいいるのか知らないが、その中でこういう人に出会えたことを本当にありがたく思う。
スタジオマンとして住み込みで働いた時代を過ごし、それから半年くらいバイトをしてお金を貯めて、そのわずかなお金を持ってインドからエジプトまでの一年間の旅に出て。その時に撮った写真を大学生の頃によくバイトをさせてもたった釧路のT写真館でお世話になりながらプリントを焼かせてもらって。それをもって東京に戻り、田口アパートの四畳半で霞を食って・・・。
高校教師を続けていればこんな苦労はしなかっただろう、と自分の人生ながら苦笑してしまう。

ちょっと話がそれるが、
教師をしていた頃、このまま教師を続けようか、それともカメラマンの道に行こうかと悩んでいた。正確には悩んでいたのではなく、踏ん切りをつけられずにいたのだったと思うが。夏休みのある日、教員住宅でささやかに差し込む陽に当たりながら、ひとり思い悩んでいた。
そのとき、ふとこんな情景を思いめぐらせた。僕が年老いて孫をだっこしながらおじいちゃんの昔話を話して聞かせる場面・・・。
「おじいちゃんはね、昔学校の先生をしていて、でもどうしてもカメラマンになりたくて、先生をやめてね。どうもおじいちゃんはそんなに才能無かったみたいで、それから本当に苦労の連続で大変でね・・・」
(・・・相好を崩す、だろう自分)
「おじいちゃんはね、ずっと学校の先生をしてきてね。でも、本当はカメラマンになりたいなと思ってね、でもその時先生を辞めないでしまって・・・」
(・・・笑っては話せない自分。)
人生を振り返って、自分の人生を笑って語れないのはいやだ、と思った。
もちろん教員がいいとか悪いとか、どうのこうのと言うことではない。
本当にやろうと思ったこと、どうしてもやりたいと思ったことを、チャンスがあったにもかかわらずそうしなかったことを、人は笑って語れないのだと思った。
そう気づいたとき、辞めるしかなかった。

下北沢、田口アパート(3) [カメラマンになる周辺など]

といっても、お茶ばかり飲んですごしていた訳ではない。
出版社のどこぞの編集部に電話を入れてアポイントをとり、売り込みに行ってはファイルした写真を広げて見てもらった。インドからエジプトまで一年間のバックパッカー撮影旅行をしてきたときに撮った写真をファイルしたのが唯一の売り込み材料で、心許ないものだったが、それしかなかった。
印象深かったところは覚えているけれども、どこに営業に行ったのかもうほとんど忘れてしまった。自分の印象に残っているほど実際には行ってはいないのかも知れない。
営業というか、売り込みに行くと、全く仕事のない若造カメラマンが来たので、編集者はいろんなことを言ってくれた。もちろん言ってもらってかまわないのだが。
「全体にいい写真だと思うけど、この写真はよくないね。これを抜いたらいいんじゃない」
「あんまり好みじゃないけど、この写真はまあまあいいんじゃない」
「いいけどうちじゃあ使いにくいから、○○あたりに行ってみたら」
ある編集者は、たまたま写真の隅に写っていた新聞を丁寧に読んでいた。
アポを入れたにもかかわらず、写真を見ることなく「間に合っている」と門前払いをされたのはS潮社だった。いくら駆け出しとはいえ、さすがにこれは感じが悪かった。
編集者は一人ひとり見事なくらいに違うことを言うし、その中には当然矛盾したことも起きてくる。初めのうちはファイルの写真を入れ替えたりしてみたが、何かすっきりしない。一生懸命に編集者の意見に合わせようとするほどに、何か収まりが悪くて、何かが間違っているというか、そんな感じがしてしまった。
その矛盾だらけの見解の中で、頭がぐしゃぐしゃになり、訳がわからなくなり、そして思った。
「自分の好きにすればいいんだ」
たくさんの編集者がよってたかって教えてくれたある意味、真理だと思う。
多くの矛盾の中で、何が正しいということも何がいいということも、ないのだ。ただ自分自身が、こう思うんだ、こうしたいんだ、こういう事を伝えたいんだ、というような事々をただぶつけてゆくしかない。当たり前といえば、至極当たり前のことだった。
仕事がないうちから、「写真を撮る仕事だったら、3年間どんな仕事でも黙ってしよう」と決めていた。それは、現実にお金が必要だったし、写真は写真を撮ってこそ腕が磨かれるし、それに、仕事的人間関係を広げてゆかなければならない、と思っていたから。しかし、その裏返しとしてとでも言うか、「3年経ったら自分のすべき仕事をしよう」とも決めていた。それがどういう事で何を撮るのかもそのときは解らなかったけれど、そう決めていた。まあ、若気の至りであろう。

下北沢、田口アパート(2) [カメラマンになる周辺など]

そんなふうにして下北沢に住み始めたのは、27歳の2月のことだったと思う。
お金はなかった。
暇はあった。
希望というようなものがあった訳ではないけど、引き返す訳にもいかなかった。
お金がかからなくて腹持ちのいい食事をと考えて、大袋のパスタを買ってゆでることが多かった。レトルトのミートソースがあれば上等で、納豆が残っていれば納豆でも、ふりかけでもなんでも、混ぜたりかけたりしてパスタを食うことが多かった。あろうことかときどき霞も食っていた。あの頃の霞の味は、思い出すと涙がにじむほど懐かしい。
アパートに引っ越した日、ほとんど何もない家財道具と少しのカメラ機材をとりあえず四畳半に入れて、田口のおばさんのところの居間にあがって、お茶をごちそうになった。掘りごたつに足を伸ばしながら、このアパートの音の響き具合とか、どんな人が住んでいるとか、そんなことをおばさんが次から次に話してくれた。
で、おばさんが聞く、
「須藤くんは麻雀をするの?」
「はあ、相手がいれば遊び程度ですけど嫌いじゃないっす」
「麻雀はね、他の人の迷惑になるから部屋ではやらないでね。やるときは、ここに来て一緒にやったらいいから。ここは大丈夫だから」
「・・・はあ」
何のことはない、麻雀一緒にやりましょう、ここで。ということで、毎週火曜日は麻雀の日で、その日以外でもメンツが集まれば随時開催ということだった。
時間をもてあましていた僕は、火曜日の夕方が待ち遠しかった。麻雀をして楽しく時間をつぶせるのは救われたし、この日は田口のおばさんがいつもカレーを作ってくれていて、麻雀が終わってからみんなにごちそうしてくれるのも嬉しかった。
田口のおばさんは気さくでとても面倒見のいい人だった。苦労人で、真っ直ぐで、暖かくて、それでどこか適当で、そんなふうな人だった。田口のおじさんもいた。おじさんは自称「埼玉生まれの江戸っ子」で、左官業をしていたが、60歳ですぱっと仕事をやめたのだという。おじさんも麻雀が好きだった。
麻雀をやらなくても、お茶飲みにふらっと居間に寄らせてもらうようになった。少なからぬ住人もそうだったし、また、そうしてきてくれることをおばさんも喜んでいた。おばさんはヘビースモーカーで、そのたばこの煙を受動喫煙しながら、といっても、その頃は僕も少し吸っていたが、どうでもいい世間話をし、そんなふうにして飲むお茶は美味しかった。ありがたかった。
もしもこのアパートでなかったら、ほとんど誰も友人知人のいなかった僕は、東京という巨大な町で、孤独な夜と朝をくり返すことができたろうか。夕方になって人の暮らす窓に灯がともり、そしてそのどの窓にも知っている人がいないのだなと思うとき、その窓の明るさの分だけ孤独が増してゆく。掘りごたつに足を突っこんで、手に湯飲みの暖かさを感じ、そうしながら馬鹿話をしたり、時には「今日はこんな事があって・・・」というような話しをすれば、それでよかった。うまくいかないことがあっても、おばさんは「大丈夫よ、すとーくん。どうにかなるわよ」とよく言ってくれた。どうにかなる根拠はどこにもなかったが、ただそう言ってもらえるだけで救われた。
物件を探していたとき、取り壊すために一年間限定で破格の安さ、などというのもあって、心がぐらっと揺り動かされてしまったりもしたが、わずかなことで大切なものを手放してしまってはいけない、とあとになって思った。

下北沢、田口アパート(1) [カメラマンになる周辺など]

カメラマンとして独立するときに、下北沢に部屋を借りた。当時は下北沢の南口の商店街には、たくさんの不動産会社があって、とにかく部屋を探すこと以外にやることはなかったので、独立したてのカメラマンの予算に合う、つまりボトムエンドの部屋をじっくりしつこく探していた。
ちなみに下北沢という駅名はあっても、地名は世田谷のあそこにはない。地名でいうと代沢か代田になる。
下北沢にこだわりはなかった。ただ、スタジオマンということをやっていた頃、たまたま本多劇場が入っているビルの20階くらいにあるお宅に撮影に伺って、そこから見た東京が、なんとなくいいなぁと思ったからというだけの理由だった。人生なんてそんなことで左右されて、そんなことがおもしろいのだろう。
不動産屋の素ガラスにはってある部屋の間取りと値段が書いてあるチラシをくまなく見ては、数メートル先の別の不動産屋の素ガラスをしつこく覗いて、ということをして歩いていた。
ある不動産屋に入った。僕が口を開く前に不動産屋の親父さんが言った
「君はずっと探しているようだけど、どんなのを探しているのかね」
「はあ、安い部屋で、・・・それで、母が大家さんがいい人のところに世話になりなさい、というんで、そんなところを・・・」
「なるほどね・・・。じゃあ、ここだな」
といって、電話を一本入れて近くのアパートに連れて行かれた。行くと、大家のおばさんがまっていて、不動産屋とは馴染みらしく軽くそんな訳でというような挨拶をして、それから僕を見て、
「あら、こんにちは。ゆっくり見ていってね」とほほえんだ。
後日聞いたには、あのとき大家の田口のおばさんは「この人はうちに来る」と直感したといっていた。
使い込まれた木製の階段をあがると、すぐにそれぞれ用の小さな台所が3つL字型に並んで、それから共同のトイレがひとつ。このアパートは全体に複雑な作りになっていて、「その階段を上がったところには」3部屋あった。部屋の借り主からはあらかじめ了解をもらっているということで、四畳半を覗かせてもらったら、そこは元気のいい男子大学生の部屋だった。それほど日の入らない東南角。家賃は正確には覚えてないけど24000円くらいだったように思う。(後日車を持つようになり、その駐車代が27000円で、家賃よりも高かったのを覚えているから、このくらいだったのだろう)
木造2階建てのそのアパートにお世話になることになり、名刺には「代沢4丁目…メゾン田口201号」となった。この築30年の木造アパートにしてメゾンとはかなり恥ずかしかったが、どうせ誰も来やしないのだからと、かなり立派めにかかれることになった。その後名刺交換をするようになると、「いいところに住んでいますね」とよく言われた。本当に恥ずかしかったが、「めぞん一刻のメゾンみたいなもんです」と答えた。ロマンスはなかったが、それは嘘ではなかった。

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