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    <title>壺の中</title>
    <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/</link>
    <language>ja</language>

    <pubDate>Wed, 16 May 2012 15:12:00 +0900</pubDate>  
    <description><![CDATA[　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　座って半畳　寝て一畳　立って歩けば足の裏　あっというまに壺の中　　壺の中、ああ壺の中、壺の中・・・・・]]></description>
    
        <item>
      <title>母の贈り物</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-05-16</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Wed, 16 May 2012 15:12:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-05-16</guid>  
      <description><![CDATA[大学１年の冬、僕は田舎に帰らなかった。釧路の師走、寒さがつのりきって毎日が極寒だった。<br />
四畳半、トイレ台所共同の安アパートに暮らし※、段ボールを机代わりにして、そこで李白の長い詩を読むのにこっていた。<br />
年の暮れが近いある日、母から小さな小包が届いた。何が入っていたのかほとんど覚えていないが、餅とオーブントースターと、そして手紙が入っていたのだけは覚えている。<br />
餅はうちで作った長方形の切り餅だった。今年の正月は帰らないと母に伝えていたのだろう、それで餅を送ってくれたのだろうと思う。母は餅をあぶるものもいるだろうと、わざわざ新しくオーブントースターも買って入れてくれていた。<br />
オーブントースターを取り出して開けてみると、その中にも餅を何個かずつ新聞紙に包んで輪ゴムでとめたものがいくつか。こんなところにも入れてくれたのかとありがたいなと思った。<br />
しかし、オーブントースターがちょっとおかしい感じがした。何かカサカサと音がする。<br />
よく見てみると電熱管に餅がぶつかって、上の方についている電熱管がすっかり粉々になって下に散らばっていた。<br />
<br />
手紙は、新聞のチラシを切ってその裏に書かれていたと思う。手紙というよりは、むしろメモのような感じで。ボールペンで書かれたそれの書き出しはこうだった。<br />
「元気でせうか・・・」<br />
その時まで母がそんな書き方をするような時代を生きていたのを知らなかった。<br />
そして僕のことを気遣うことばかりが書いてあった。風邪はひいてないか、楽しくやっているのか、そんな些細な一つひとつだった。<br />
<br />
四畳半のほとんど何もない薄ら寒いアパート。緑色の蛍光灯。小さな紙切れに書かれた決してうまいとはいえない母の文字。何度も何度も読み返した。<br />
壊れてしまったオーブントースター。母の気持ち。<br />
<br />
それ以降母から手紙をもらった覚えはないから、きっと母からもらった唯一の手紙だった。大学生のときでさえ何度か引っ越したし、そのあともとにかくひとつ所に落ち着かない引っ越しの多い人生を過ごしてきたから、母からもらったあの手紙は、どこにいったか全くわからない。<br />
あの手紙をもう一度読み返したいと思うが、かなわないだろう。<br />
だけども、この体そのものが母からの手紙であり贈り物。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
※話しとは全く関係ないが、このアパートでは、隣に松山千春の弟が住んでいた。同じ大学の一年先輩だったように思う。<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>真夜中に思い出せば・・・</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-04-13</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Sun, 29 Apr 2012 15:02:09 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-04-13</guid>  
      <description><![CDATA[真夜中にふと小さく目を覚ましたら、消さないままに寝てしまったラジオから懐かしい歌謡曲が流れていた。天知真理がひとりじゃないって素敵なことねと歌い、沢田研二が切ない恋の歌を歌い、三好英二が雨に濡れながらたたずみ、ちあきなおみがいつものように・・・と。昭和４７年の特集といっていたようだった。<br />
中学生の頃の歌たちかなと思いながら、帰ってゆきそうな意識の中で、どうしてだか小学生の頃の放課後を思い出していた。<br />
<br />
授業が終わると、誰が言い出すということもなく、グランドに集まって野球をすることになる。一度うちに帰ってランドセルを放り、その代わりにグローブとバットを持って学校のグランドにとって返す。ずぼんの膝にはいつもはりぱん（つぎはぎ）があった。<br />
みんなが集まるとまずチ−ム分けだが、よく「とりっこ」※ということをした。Yくんがいつもリーダーシップをとって、弱い子が寂しい思いをしたり仲間はずれにならないように気を配っていた。ああ優しいいいやつだったなあと思う。<br />
あのころはいつもそんなふうに放課後遊んでいた。三振ばっかりだったかもしれないけれど、バットにグローブを突っこんで肩にかついで夕暮れの空の下を帰るときは、何かを成し遂げて一日が終わるようでちょっと自慢な感じだった。<br />
幸せだった。<br />
僕自身は言ったことを覚えていないけれども、母が<br />
「なおとしは『補欠はどごでもまもんねどなんねがら大変なんだぜ』なんて言って野球がらかえってきて・・・」と、訪れた母の友だちに話して笑っていた。母はそんなことを話しながら、元気に遊んでくる息子をめんこいなあと思っていたのだろう。<br />
何十年も前のことを思い出して、あの頃のちっちゃい僕が愛おしいと真夜中に思った。そして、枕が少しぬれた。<br />
<br />
<br />
　<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
※　「とりっこ」というのは、その時その時で力の同じくらいの二人を取る人に選んで、その二人が代わる代わるに一人ずつチ−ムの仲間に選んでゆく。選ばれたらそのチームになる。そうして決まった仲間も一緒になって次はどうだから誰を取ろうということになる。子どもながらに同じくらいの力わけになると思っていた。とりっこはいつも協議制だった。<br />
<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>焦点を合わせること、またその周辺のこと</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Wed, 25 Apr 2012 12:51:14 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23</guid>  
      <description><![CDATA[一連の「人間遺産」の仕事で撮ったような、人の顔のアップの写真のピントについて少し書きたいと思う。<br />
人の顔というのはかなり立体的なもので、あの撮影の現場では明るさの条件が悪いことが多く、そのようなときは絞りを開放にしてそれに合わせてシャッタースピードを決めるという撮り方をしたから、ピントが合う奥行きはそれほどないことが多かった。パソコンの画面で見ているにはそれはわからないが、大きく伸ばしたオリジナルプリントでは、明らかに被写界深度が浅い写真が多いことがわかる。※1<br />
人の顔を撮る時は、ごく特殊な場合を除いて目にピントを合わせるのが基本だ。顔とはいっても目にピントが合っていないと「ピントが合っていない」と感じる。心理学的にもおもしろい考察になると思うが、ここではそれはさておく。<br />
レンズに対して顔が正面を向いていれば、基本的には両目に対して距離が同じなので両目にピントが合う。斜めから見れば距離が違ってくるので、どちらかの目にピントが合って、どちらかにピントが合わないということがおこる。その場合には、より近い方の目にピントを合わせる。その方が一般的には自然に見えるように感じる。被写界深度が深い場合ならともかく、浅い場合は特に不自然に見えやすい。<br />
いずれにしても目にピントを合わせるのだが、ここでもうひとつ問題が起こる。<br />
目は立体であり水晶体であるので、目のどこにどのように合わせたらいいのか。撮影しながら試行錯誤を繰り返した。<br />
さて、それでどこに合わせたらいいかという僕なりの結論では、水晶体と下まぶた（というのだろうか、日本語を知らない）の境目に合わせるのがいい。「目にピントが合っている」と見える。ひょっとしたら一種の錯視かもしれないが、合っていると言っていいと僕は思う。<br />
<br />
オートフォーカスになったときに、ピントが合っているという画面表示が楕円だったり四角だったりと「面」でファインダーに表示される。※2僕にとってこれはどういうことかというと、細かいことになるが、ピントがまつげの先に合っているのか、それとも下まぶたに合っているのかがわからないということ。それは非常に大きな違いで、つまり、ピントが合っているか合っていないかわからないということになる。<br />
デジタルの一眼レフカメラでは、レンズにマニュアルフォーカス機能があるので、マニュアルで合わせればいいだろうということになるが、ところが実際にはできない。マニュアルでフォーカスを合わせる人はほとんどいないということを前提として、メーカーはピントグラスをアニュアルでしっかりと合わせられるようには作っていないからだ。ピントグラスにヤマといわれるぎざぎざがあって、そこでピントがわかるようになっているのだが、デジタルカメラではそのぎざぎざがほとんどない。使いもしないところに費用を使うのは無駄だとメーカーが考えるのは当然だし、買い換えるものとしての家電製品となってしまった今となっては、そのような道をたどるのは推して知るべしだろうが。誤解を恐れずにいえば、今のファインダーはおおよその目安でしかない。<br />
ピントを合わせるということは、何を見るかということであるし、何を撮るかということである。それは当然、何を意識しているかということにも及ぶ。※3<br />
<br />
焦点のことからちょっとそれるが、愛用していたカメラはニコンのF３P※4にマットのピントグラス、それにモータードライブをつけていた。「人間遺産」の撮影ではコダックのPKRというリバーサルフィルムを使っていた。コダック自体倒産してしまったし、それよりもPKRというフィルムは１０年くらい前に製造中止になっている。このPKRも含めコダクロームというのは「外式」といわれる現像方式のフィルムだが、この作りのフィルムはコダック独自のもので粒子が非常に細かい。PKRは実効感度がISO５０と低くラチチュードも狭く非常に扱いにくい。しかし、何ともいえないナチュラルな感じと粒子の細かさが、大地に根ざして生きている人たちを撮るのにはとてもしっくりきた。<br />
<br />
僕は何かを伝えるために写真を撮る仕事をしたと思うが、じゃあ２００年前に生まれていたらどうだったのだろかとも思う。銀塩の写真装置はわずか１８０年位前にフランス人のナダールが作った。（・・・間違っているかも）画家や音楽家であれば１０００年前であっても表現できるが、写真を撮るということはそうはいかない。科学技術の産物である写真装置がないと何もできない。お手上げだ。<br />
<br />
焦点を合わせるということから、愛用したカメラのことフィルムのことなどに及んで、訳がわからなくなった。訳がわからなくなったついでに書けば、ピントを合わせられる目を授けてもらい、意図通りにしっかりとピントを合わせられるカメラに出合い、それを使うことのできる体を授けてもらい、そして、それらが同じタイミングで与えられた。銀塩の時代は短かったが、その時代に巡り合わせてもらった。なによりもたくさんの編集者に写真を撮る仕事を与えていただいた。写真を撮る仕事人として、いろいろなことの符号が合っていたというのは本当に幸運だったと思う。<br />
いずれにしても、振りかえれば感謝以外になにも言う言葉ことはない。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
※1　ニコンの105mmマクロレンズをよく使った。写真展「イエメンの顔貌」を開催したとき、90センチ×60センチに伸ばした写真を見て、ある方に「これは４×５（シノゴ）で撮ったのですか？」と聞かれたことがあった。<br />
　<br />
※2　こうしたオートフォーカスでは、フレーミングにも大きな不都合をきたす。<br />
<br />
※3　意識は大げさに言えば人生そのものになる。実際にどのようなことが起こっているかではなく、それをどのように受け止め感じるかで変わるのだから。しかし、自分は何に焦点を当て何を意識しているのか、ということにさえ気づかないうちに時間が過ぎてゆく傾向が強くなりつつあるように感じられる。<br />
大学生の頃に読んだ写真論争で「ネガのないポラロイドは写真なのか」というのがあった。今となっては笑い話にもならないような話だが、写真を撮る人間が写真をどのように意識・認識しているかという意味では古くはないし、デジタル化し加工の容易になった今も潜在しているテーマであると思う。<br />
<br />
※4　一眼レフの高級機種ではピントグラス（ピントを合わせるための磨りガラス）を交換できるものがある。さまざまな種類があって目的によって使い分けたりすることがある。マットというのはその一番シンプルなもの。またF3はファインダー視野率100パーセントというのも重要な点だった。ちなみに、ニコンF3Pの、Pはプロフェッショナル仕様のPかプレス仕様のPかいまだに知らない。僕のF3P、２台とも海外での仕事も含め故障なくがんばってくれた。<br />
<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>金継ぎ</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-04-05</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Tue, 10 Apr 2012 21:11:15 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-04-05</guid>  
      <description><![CDATA[友だちと読谷村の「やちむんの里」のとあるギャラリーに行ったときのこと。<br />
そのギャラリーは、白木の床で隅には大きな囲炉裏が切られていた。そして、棚や床に焼き物がそれぞれの個性を無言で主張して並んでいた。<br />
日差しの強い真夏の沖縄の昼前、裸足をとおして床に体の熱を吸い取られ気持ちがいい。<br />
一通り見せてもらった頃に<br />
「コーヒーを入れましたから」<br />
と、奥様のやさしい声。<br />
ギャラリーの隅のL字型のカウンターには体格のいいご主人が座っている。ぼくたちもカウンターに勧められてコーヒーをいただく。ご主人は、曰く「水」を飲んでいる。<br />
ご主人とありきたりな挨拶に始まりすぐに陶器の話しになったが、一家言あるご主人のこと、話すにつれ自然と話しに熱を帯びてくる。それに「水」とは泡盛だとすぐにわかったが、それだけにまた口の滑りがいい。<br />
どうした流れだったか「金継ぎ」の話しになった。それまで、僕は金継ぎという言葉を知らなかったが、金継ぎというのは陶磁器が欠けたりしたときの伝統的な修理方法の一つで、簡単にいうと欠けたりひびの入ったところに漆を接着剤として塗り、そのあと金を塗って仕上げるという方法なのだそうだ。<br />
ご主人は続ける。<br />
修理した跡には、ときには何ともいえない味わいが出ることもある。だから、人によっては敬愛する作家の作品をわざと欠いて、自分でそれを金継ぎして、作家の作品の中に自分の金継ぎをいれる。つまり、作家の作品に自分の作品を組み入れてしまうというのだ。<br />
<br />
沖縄にいたときのことだからもう３年以上も前のことになるが、どうしてだろうか、ふとしたおりによく思い出す話しだった。<br />
<br />
最近になって僕は思う。人の心だって陶器と同じように欠けやすい。人間関係だって壊れやすい。長いこと使っていれば手を滑らせることだってある。長いこと生きていれば人とぶつかることだって少なくない。そして傷つけたり傷ついたり。<br />
振り返れば、僕は欠いてしまった関係を平気で捨ててきたことがなんと多かったことかと思う。そうしたときのことやらを思い返せば、ああもっと大切に継いできたらもっと豊だったろうなと思う。周りには丁寧に金継ぎをして生きている友だちもたくさんいるというのに。<br />
怒りや憎しみやわだかまりや、そうしたものをおたがいにゆっくりと補修してゆく。その金継ぎの跡はきっと素敵だろうと思う。時間をかけ手間を惜しまず、しっかりと継ぐ。そんなふうにしてできた人間関係の金継ぎがたくさんあったらかけがえのないひとつの茶碗になるのだろう。<br />
僕はそんなふうにはできないで生きてきた。これからもそんなにすっと何かを変えることはできないだろうと思う。不器用な人間だからと括っていいのかどうかはわからないが、そのひとりには違いない。<br />
<br />
<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>ベルリンに残された魂</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-03-21</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Wed, 21 Mar 2012 08:12:29 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-03-21</guid>  
      <description><![CDATA[彼女もまた人に会うためにベルリンに来ていた。<br />
<br />
僕がベルリンのユースホステルに泊まったのは、２０年近く前にここに泊まったことがあったからだった。<br />
「写真の場所」に行くために、なるべく朝の早い時間に出かけたかった。だから、ロビーもまだ暗い時間に、開くのを待ってひんやりする食堂に入った。一番客のひとり客。<br />
バイキングスタイルの朝食で、黒パンなどのパンやハム・ソーセージなどが種類多く並べてあって、ドイツらしいなあと思う。<br />
プレートに盛ってきたものを食べ始めたころに女性がひとり入ってきた。彼女はプレートのあと最後にコーヒーを注いで、それからどこに座ろうか左右を見わたして、僕の目の前に来た。<br />
<br />
座っていいですか？<br />
もちろん。<br />
<br />
目が合った。２０代の後半だろうか。長い黒髪で黒目が大きく、端正な顔立ちだと思った。<br />
<br />
どこから？<br />
イスラエルから。あなたは？<br />
僕は、日本から。ちょうど１００年前に医学の勉強のために留学に来ていたご先祖さまがいてね、そのご先祖さまは写真が好きだったんだけど、ベルリンで撮った写真が何枚かあって、その同じ場所を尋ねて写真を撮ろうと思ってね。<br />
へえ、そうなんだ。でもドイツ語は話せるの？<br />
全然話せないよ。知っているのは「イッヒ・リーベ・ディッヒ」※だけ。使ったことないけどね・・・。あなたはドイツ語を話せるの？<br />
私は、私が知っているのは・・・「ヘンデ・ホーホ！」だけ。「手を挙げろ！」っていう意味よ。<br />
<br />
彼女は自分で手を挙げてそういった。そしてうつむいてパンにバターを塗った。<br />
あのことなのかなと僕は思う。イッヒ・リーベ・ディッヒは、ひどい冗談だったと後悔した。<br />
<br />
僕は両手の中の白いマグカップに目を落とすと、ココア色の飲みあとが丸く残っていた。<br />
僕はホットチョコレートのお代わりに立った。<br />
テーブルにもどると、彼女はひとり語りのように続けた。<br />
<br />
おじいちゃんがここで死んだらしいの。そのときお父さんはまだ１歳だったんだって。お父さんはどうにか助かったの、だから私がいるわけだけど。でもね、おじいちゃんは・・・、遺体も見つかってなくてね・・・。<br />
・・・<br />
私の国の人は、今でも決してドイツの車を買わないわ。<br />
<br />
と最後に言った。そして、忘れていたことを思い出したようにパンやフォークやマグカップを口に運んだ。<br />
そして、しばらくしてまた言った。<br />
<br />
あっ、それから、えーと、そうそう、CHIUNE※、知ってるわ。ありがとね。<br />
<br />
彼女の瞳が一瞬優しく輝いて僕を見て、顔の輪郭が緩んだ。<br />
そう、あの時代のことだ。アウシュビッツしかなかったわけではないし、『アンネの日記』のように文字になっていなくても、たくさんのユダヤの人たちが同じような残酷な体験を強いられた。気の狂ったHの力の及ぶところなら、どこででも同じことがあった。<br />
それから彼女はまた言った。<br />
<br />
この国にいて、どこにいっても楽しいことなんかないから、たいがいは美術館や公園に行って時を過ごすのよ。<br />
<br />
そんな心の温まらない時を過ごすことはわかっていても、それでも祖父に会うために、祖父の魂に会うために、どうしても一度は来なければならないと思っていたのだろう。<br />
<br />
僕は、ご先祖さまが撮ったベルリンの写真を七枚持ち歩いていた。それが僕にとっては、１００年前にここに留学に来ていたご先祖さまに出会う鍵だった。<br />
彼女も僕も、死んでしまった人の何かを探しに、何かに出合うためにベルリンに来ていた。<br />
亡くなってしまった人に会えないことなんか知っている。でも、魂は残っている。このベルリンに。ベルリンに生きている。<br />
彼女はおじいちゃんの魂に会えただろうか。ベルリンに魂を残したままの会ったことのないおじいちゃんに。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
2011年10月のドイツの旅のこと<br />
※I love you の意<br />
※杉原千畝<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>つなみ桜　改メ　てんでん桜</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-03-13</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Tue, 13 Mar 2012 13:07:54 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-03-13</guid>  
      <description><![CDATA[ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 <br />
<br />
で始まる『方丈記』、鴨長明は美しく含蓄深いこの冒頭の文章で始めて、そのあとに大火、台風、飢饉、それに大地震のことなどの災害があったことを延々と列ね、それから方丈庵での生活・想いを記している。<br />
地震のところでは、元暦２年（1185）にあった大地震のことを書いている。2012年ー1185年＝８２７年前のこと。もちろん僕らは生まれてはいなかったわけだけれど、その地震について書いた部分のシメに次のように書いている。<br />
<br />
昔、斉衡（さいかう）のころとか、大地震ふりて、東大寺の仏のみくし落ちなど、いみじきことどもはべりけれど、なほこのたびにはしかずとぞ。すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にしのちは、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。　<br />
<br />
ざくっと訳すと<br />
昔、齊衡の時代のころだそうだが、大地震が起きて東大寺の大仏の首が落ちたりするなど凄いこともあったったが、それでも今回の大地震ほどではない。地震の直後には誰もがこの世の無意味さ（無常であること）をいったりして、ちょっとは邪心もなくなり心もきれいになったように見えたけれども、月日を重ね、年月を経てしまったら、そんなことを口に出して言う人さえいなくなった。<br />
<br />
この地震は「元暦の大地震」といわれるのだそうだ。「あの地震はすごかったそうだよ」などと伝え聞いている人はいまはなく、地震の専門家か古典の専門家か、雑学の王様が知っているだけになってしまった。<br />
<br />
ところで、日本の国歌がはっきりと決まるまで僕はひとりで「日本の国歌を『さくらさくら』にしよう」運動をしていた。桜が嫌いだという人にあったことはないし、日本人のメンタルに桜はしっくりくる。桜はいいと思う。一応歌詞をあげておくと、<br />
<br />
さくらさくら<br />
野山も里も　見わたすかぎり　<br />
霞か雲か　朝日ににおう<br />
さくらさくら　花ざかり<br />
<br />
または<br />
<br />
さくらさくら<br />
やよいの空は　見わたすかぎり<br />
霞か雲か　においぞいずる<br />
いざやいざや　見にゆかん<br />
<br />
下の方が古い。僕は上の方になじんでいるが「いざや見にゆかん」さあ花見にゆこうといっているのだからなんだかのんきで、こんな感じもなんだかいいじゃないですか。<br />
どちらにしても、シンボリックにさくらが咲き誇る日本の里山の美しい風景を思い起こさせる。大切にし守ってゆかなければならないものはそれほど多くはないように思うが、その一つが歌い込まれていると思う。<br />
そしてその故郷としての美しい自然を愛おしく思う日本人であり続けよう、というのが国歌だったら素敵だと僕は思う。<br />
<br />
津波が押し寄せた線に沿って桜を植えるというプロジェクトが動き始めている。こんなところまで津波がおしよせたのだと後世にしっかりと伝えるためだ。<br />
時が経てば美しく咲き誇るようになり、いざや見にゆかん、花見の宴もあるだろう。そして３月１１日を語り継いでゆくだろうと思う。<br />
あえて言えば、遠く時間が過ぎれば人は忘れてゆくかもしれない。<br />
それでも、こうして今深い想いをもって桜を植えることがすべてで、それでいいのだと思う。<br />
僕は心の中でこの桜に「つなみ桜」と名付けた。美しく咲きますように。<br />
<br />
<br />
（３月２３日追記）<br />
今日ラジオで聞いたには、三陸の方には古くから「津波てんでんこ」という言葉があるのだそうだ。津波が来たら、親や子どもを捜したりせずに、てんでんばらばらででもとにかく避難しなさい、という意味なのだそうだ。たしかにそうしておかないと、助かる命が助からなくなってしまう。僕の田舎では「てんでんこ」という言い方はしなかったけれども、「津波てんでんこ」というのはよく伝わっていいと思う。<br />
つなみ桜もわるくはないけれども、「てんでん桜」に改めた。「津波てんでんこ」伝わりますように。（合掌）<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>大学受験ラジオ講座の時代</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-03-10</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Sat, 10 Mar 2012 10:41:33 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-03-10</guid>  
      <description><![CDATA[僕はセンター試験の前身、共通一次試験の一期だった。<br />
今となってはセンター試験は当たり前のことになって、そして前期後期とチャンスも増えてるようだが、当時は、つまり僕の前の年までは、国立大学がそれぞれ一回の試験をして、合否を決める入試だった。<br />
そこに国立志望の学生は、全員が共通の一次試験を受けるという革命的な制度が取り入れられた。だから、受験生も高校の先生も勝手がわからすに、試行錯誤的に受験対策をしている時代だった。いちばん勝手がよくわかっていたのはきっと予備校の先生だったろう。暗中模索・試行錯誤といえば聞こえはいいが、ある意味どさくさの時代だった。<br />
大学受験勉強をしていたその頃、今はなき「大学受験ラジオ講座」を一応聞いていた。テーマソングの「大学祝典序曲」で始まるあの番組。懐かしい！と思った人はみんないい歳だ。<br />
競馬中継を聞くために作られたのだろうラジオ短波の固定周波数のラジオで聞いていた。夜の１１時半から１２時半まで。聞いていたとはいっても、半分以上は聞かないでさぼったし、聞いたうちの半分は睡眠学習だったが・・・。不思議なもので、講座が始まると睡魔が襲ってきて、テキストに顔ごと埋めていることが多かった。そして、講座の終わりになると決まって目が覚めた。<br />
聞いていた中で、数Ⅰ担当でカツヤマステゾウ先生とおっしゃる方がいた。当時でたぶん７０歳くらいだったのではないかと思うが、僕はこの先生が好きだった。それは解りやすいからではなくて、ただただ熱い３０分だったからだ。どうしてだろうか不思議と勇気が湧いてくる熱い数Ⅰだった。<br />
その先生が、１２月の末その年の講座の最後の回にこんな歌を歌った。<br />
<br />
げに我らこそ荒波を　渡る小舟に似たらずや<br />
今宵つながん島もなく　漂うままにさまよえば<br />
正しき道を進めよと　みなれ竿とる友ごころ<br />
<br />
歌謡曲などでも歌詞をちゃんと覚えることはほとんどできないのだが、この歌詞はどうしてかよく覚えている。<br />
北海道の教育大学を受けたのだが、二次試験は現国・小論文・数学Ⅰが「すべての専攻共通」でこの３科目だった。教員になろうというのだから現国・小論文は理にかなうといえるだろうけれども、小学校の先生になりたい人も中学校の英語の先生になりたい人も美術の先生になりたい人も、幼稚園課程もあったから幼稚園の先生になりたい人も二次試験で「数学Ⅰ」を受けなければならなかった。受け入れる大学側も訳がわからないでいたのだと思う。<br />
僕自身も高校では理系にいて国語科を志望したというのだから訳がわからないが、まあとにかくどさくさまぎれ、まさにそんな感じで大学にもぐり込んだ。<br />
<br />
大学受験も終盤の季節なのだろう、ラジオでは受験生の悲喜が投稿されたのを流していた。そんなことを聞きながら大学受験ラジオ講座を思い出したのだろう。<br />
手塚治虫の「火の鳥」では、ある男が永遠に死ぬことができないという刑を受ける。もし人が死なないとしたら、何かを勉強したり、夢に向かって何かをしたり、そんなことはおよそ意味がなくなってしまう。いつでもいいのだから。死なないのだから。<br />
逆説的だけれども、死んでしまうからこそ何かをしようと思うのだ。<br />
人は死んでしまうからこそ、今を生きる。<br />
カツヤマステゾウ先生の熱い講座からは、数Ⅰよりもそんなことが伝わったのだろう。<br />
相変わらず、とりとめがなくなった。<br />
<br />
<br />
<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>雪だるまが温泉かぁ・・・</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-03-05</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Thu, 08 Mar 2012 16:42:15 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-03-05</guid>  
      <description><![CDATA[どこかの温泉の岩風呂に、雪だるまの親子がふたりして入っていた。<br />
さわやかなやさしい日差しが注いでいたから露天なのだろう。<br />
温泉から立ちのぼる湯気の向こうに親子が目を細くして気持ちよさそうにしていた。<br />
目が覚めて、雪だるまが温泉か・・・、と思う。<br />
他愛もない夢だった。<br />
<br />
何の授業かわからないが、イッセー尾形が講師で<br />
「人生がすばらしいと感じながら生きるには何が必要か」<br />
というテーマで小論文を書くようにいった。夢の中で僕は悩んでしまった。<br />
目が覚めて、すぐに小論文のテーマをメモしたのでこうして残っていた。<br />
<br />
夢には、日々の疲れを捨てるための夢もあれば、<br />
何かしら意味のある夢もあるのだろう。<br />
見るのはいつも他愛もない夢ばかり。<br />
<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>Kさんのキウイ</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-02-16</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Thu, 16 Feb 2012 09:38:58 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-02-16</guid>  
      <description><![CDATA[Kさんは母の古いお友だちだということしか知らない。Kさんの下の娘さんが僕と同級生だったから、そんなことからのつきあいだったのかもしれないし、ひょっとしたら女学生頃からのつきあいだったのかもしれない。<br />
僕が小学５，６年頃からときおりKさんは家に遊びにいらっしゃたりしたのを覚えている。あがってお茶を飲んでゆくこともあったし、ちょっと通りかかっただけだからと玄関先で立ち話をしてそのまま帰ることもあった。母にしてもKさんにしても子どもたちが小学校の高学年になって、それなりに親の手を離れるようになり、少し自分の時間を持てるようになった頃だったのだろうと思う。<br />
僕が高校生の頃に姉は結婚したのだったが、Kさんは結婚祝いに、オールドという黒く丸っぽいウイスキーの空き瓶をふたつ合わせたのをベースにした、三つ編みで目のくりくりとした南方系の少女の人形を作ってくれた。たまたまそのころKさんは誰かから作り方を教わって、Kさんのマイブームだったのではないかと思う。<br />
<br />
母が亡くなって半年後、母の生家があったところから目と鼻の先にある市の会館の小さい部屋を借りて「須藤ヒサ子 小さな小さな遺作展」というのをした。水彩画を描くのが好きだった母が生前何かのおりに額に入れたものを１０点ほどと、色紙に描いたものから数点選んで台紙に飾った。それだけのささやかな展示会だった。<br />
そんなときにもKさんは同年配のお友だちを何人もつれていらしてくださった。小さな町のことだから、一緒にいらした方々もたぶん多少なりと共通の友人知人だったのだろうと思うが、僕にはよくはわからない。<br />
<br />
Kさんにも母の葬式の連絡はゆかないでしまった。<br />
Kさんがいらしてくださったのは葬儀の二日後、どぼどぼとぼた雪の降りしきる寒い午後だった。一緒に暮らしている上の娘さんが、股関節を骨折したというKさんを車で送ってきて、靴を脱ぐのまで細やかに手を貸していらした。<br />
仏壇の前の母の遺影を見るなり<br />
「あらぁ、優しい方だったのに・・・」<br />
と、何か大切な物を壊してしまったときのような切ないため息のような言葉が漏れた。股関節をいたわりながらやっと座って手を合わせたその背中は、本当に寂しそうだった。<br />
<br />
お通夜やら葬式やらが終わってからも、知らなくて遅くなりましたがとお線香を上げにきてくださる方々。そうした母の友だちやお世話になった方が仏壇の母の遺影に手を合わせてくださるのを見ながら、そして、何かしらご挨拶やら話しをしてゆくのを聞きながら、僕は脳裏に去来するなにか漠としたものを感じていた。母とその一人ひとりの関係でしかないから、その人のことを僕がどう思うということではなく、いろんなつき合いがあったのだなあと思っていたのだろうか。あるいは、僕のどこか深いところで母の人生に触れたいという思いがあったのかもしれない。<br />
<br />
杖をついたKさんは、ますます降りしきる重たい雪をつと見上げ、それからシャーベット状になってしまった玄関先を、娘さんに付き添ってもらいながらゆっくりと歩いて車に乗り込んだ。僕はお礼を言って静かに助手席のドアを閉めた。白い乗用車はすぐに曲がって見えなくなったが、見送りながら、あんな体の状態でよく来てくださったなあと思うとありがたかった。そして、どうしても母とちゃんと最期のお別れをしたくて来てくださったのだなあと思い至ったときには、なにかちょっと遅すぎた気がした。<br />
「優しい方だったのに・・・」と漏らしたKさんのその言葉を心の中で何度も響かせ、そして、手を合わせてくださっていた小さな後ろ姿を思い返した。そうしていると、母はこの人に優しくしてもらったのだという何か確かな感じがわきあがった。母の人生を豊かにしてくださったひとりなのだという確かなものが胸に広がり、熱いものがこみあげてきた。<br />
<br />
<br />
つい先頃、Kさんと一緒に暮らしている上の娘さんが庭で採れたのだとキウイを贈ってくださった。平たい段ボール箱に、仲のいい小さな兄弟たちのようにきれいにちょこんちょこんと並んでいた。自家用に作っているのだけれども、今年は出来がよかったのでということだった。<br />
昨年末、中米から帰るとすぐに遅めの母の三回忌の法要をあげてもらいに赤湯のお寺さんに行ったのだが、その折りにKさんのところにうかがった。まだ杖をつきながらKさんが玄関に出てきてくださった。僕は玄関先で小さなお土産を渡しご挨拶をしてすぐに失礼した。<br />
そんなことがあったので気を遣って贈ってくださったのだろかと思う。<br />
<br />
流しに立ったまま、キウイをしゃっとすすいで包丁で皮をむく。むいたキウイを左の手のひらにのせたまますうっと輪切りにすると、深いこけ色が美しかった。そして、放射状に並んだ種子が、光速を越えて飛んでゆく宇宙船から見る映像のように見えた。お母さんは遠い宇宙の果てにいったようにも思え、このキウイにいるようにも思えた。<br />
<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>ホルツブンゲの森にて</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-01-30</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Mon, 30 Jan 2012 08:57:19 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-01-30</guid>  
      <description><![CDATA[ドイツ北部デンマークの国境までわずかのところにあるホルツブンゲという村に友人夫妻を訪ねました。ホームの向こうに、はにかむ彼の姿を見たとき、少し背が丸くなったなあと思いました。以前伺ったのは、アフリカのビクトリアの滝でお会いした年の冬でしたから、じつに20年ぶりの再会でした。<br />
村には古い煉瓦作りの家々がぽつんぽつんと建ち、その中の奥さんの生家に暮らしています。周りの牧場では馬たちが草を食み、さらにその外れには赤ずきんちゃんがとことこと歩いてきそうな森が、丘を這うようにして広がっていました。<br />
晩秋の森の中では、小鳥のさえずりさえも聞こえず、僕たちの踏む枯れ葉の乾いたかさかさという音がするだけでした。風が木立のどこか向こうから遠慮がちにやってきて、すうと頬に触れて去ってゆきました。この風がいつまでも透明であるように心の中で祈りました。<br />
<a href="http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_c10/ningen-isan2/holzbunge3.jpg" target="_blank"><img src="/_images/blog/_c10/ningen-isan2/m_holzbunge3.jpg" width="350" height="348" border="0" align="" alt="holzbunge3.jpg" onclick="location.href = 'http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/m_holzbunge3.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />
<br />
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<br />
昨年の１０月、中米を旅している間に大西洋を渡ってドイツに行きました。ベルリン留学していたご先祖さま須藤憲三先生の足跡をたどるのと、ホルツブンゲという小さい村に住むハーゲンスさんご夫妻を訪ねるためでした。上記の文章は、数少ない年賀状に書いたもの。何人かから好評だった由、アップしてみました。<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>なまはんか心理学（７）ケイチョウを問う</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-01-22</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Sun, 22 Jan 2012 14:46:22 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2012-01-22</guid>  
      <description><![CDATA[全く恥ずかしいことだが「傾聴」の意味を考えたことさえなかった。考えたことがあったが、全く勘違いしていたという意味ではやっぱり考えたことがなかった。「よく聞きなさい」などとしょっちゅう言われてきたが、傾聴とはどうもそういうこととは意味が違うようだ。その本※には、ロジャーズは傾聴について次のように言っていると書いてある。<br />
<br />
「クライアントは相手が自分の感情に受容的に傾聴していることに気づくにつれて、少しずつ自分自身に耳を傾けるようになっていく。彼は自分の中から伝えられるものを受け取り始める。・・・<br />
自分を傾聴することを学習すると、彼は自分自身に対してより受容的になれる。自分が隠してきた恐ろしい部分をより多く表現するにつれて、彼はカウンセラーが自分や自分の感情に一貫した無条件の積極的関心（肯定的配慮）を向けているということに気づくのである。彼は少しずつ自分に対して同じような態度をとるようになっていく。つまり、ありのままの自分を受容するようになり・・・」<br />
難しくて僕にはよくはわからないけれども、何かとても大切なことを書いているような気がする。<br />
<br />
<br />
ある学派のある先生が酒の席でこういった。<br />
「傾聴するなんていうのはカウンセラーとして当たり前のことで、話を聞いて治るんなら苦労しないんだよ。プラス自分の技法がなきゃだめなんだ」と。定年を十数年もすぎた今でも論理的に少し早口で話す頭の回転のいい先生。そういわれるとそうなんだろうなと思うことは思うのだが、すっきりとそう思えないのはなぜかと考えてしまう。<br />
僕自身を振りかえれば、人の話をよく聴くことができるようになるまでに人生が終わってしまうと思う。僕の生きているベクトルの向きが、僕自身納得できるものならそれでいいと思っているので、まあ、それはそれで全くかまわないのだが。<br />
ちなみにその先生、初めの頃はお会いするたびに名刺を差し出してくださって、断るのもなんだかいい言葉が無くてそのたびにちょうだいしたので、先生の同じ名刺を３枚もっている。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
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<br />
※　諸富祥彦著『はじめてのカウンセリング入門　下』（誠信書房）<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>高田馬場、カレー屋マハバールのおじさんの思い出</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-11-18</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Mon, 28 Nov 2011 02:38:40 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-11-18</guid>  
      <description><![CDATA[３０代の初めのころから長いこと高田馬場に取引先があって、打ち合わせや納品にときどきいっていた。それがたまたまお昼前に終わったりすると、そこは一人暮らし（当時）の気楽さで、そのへんの店で適当に食って帰った。高田馬場駅前の早稲田通り沿いやその周辺には、学生が気軽に入れる店が多かったから、その日の気分で店を選ぶことができた。<br />
<br />
ある時駅前近くにカレー屋を見つけた。表通りに面したガラス窓の中でインド人の料理人がタンドリー（壺窯）でナーンを焼いていて、その香りが何ともかぐわしかった。それと彼のニカッという笑顔にぐらっと誘われて入ってしまった。細長い店内には変な段差があり、奥は少しうすぐらかった。<br />
マハバールというそのカレー屋で「おじさん」は給仕の仕事をしていた。お昼時間に限ってナーンのお代わりが無料だった。おかわりを一枚お願いすると、おじさんは半分に切った焼き上がったばかりの熱いナーンをバケットに入れて持ち、「たくさんおかわりしてくださいね」と優しく目を細めながらトングではさんでプレートに盛りつけてくれた。<br />
スパイスの効いた本格的なインドカレーをナーンでつまんで口に運びながらも、僕はこの人の顔を撮りたいということにしか意識がいっていなかった。どこの国に行ったときだってそうだけれども、人の顔の何を基準に僕は撮りたいと思うのか、僕自身よくはわからない。このときもどうしてなのかはわからないけれども撮らせてもらいたいと思った。<br />
<br />
言葉が通じなければ、撮らせてもらえるかもらえないか話は早い。しかし、言葉が通じるだけに撮られる方もなぜ撮りたいのかとか、何に使うんだとかつい聞いてしまう。僕は僕でそれに答えて、必要であれば名刺を出して・・・、とそんなことをしているとさっきの表情はなくなって、その人はそこから消えていってしまう。お願いした手前撮影はするが実際どうでもよくなってしまうようなことがままあった。<br />
その日はそのまま店を出た。<br />
<br />
僕はカレーも好きではあるけれども、かといって同じ店に通うほど好きかというと、それほどでもないと思う。しかし、どうしてかは解らなかったけれども、おじさんの顔をどうしても撮らせてもらいたかったから、ちゃんと切り出せるまでマハバールというそのカレー屋には通うことになった。<br />
<br />
半年か１年くらいも通ったのだろうか。そのうちなんとなく店ともおじさんともなじみになったころ、ごくごく簡単に理由を説明して、おじさんにポートレートを撮らせてもらえないだろうかと切り出した。変わらない笑顔で、私でよければいいですよと二つ返事だった。<br />
あらかじめ昼食のお客さんが引けて一段落するだろう頃にうかがって、すぐに撮影できるようにカメラの準備もし撮影場所の下見もしていたので、そのまま歩道にでてもらって、５分ほど時間をいただいたろうか、さっと終わらせた。※<br />
<br />
その頃はフィルムからデジタルへの移行期だった。どの編集部でも、近年中にはほとんどすべてデジタル化することはわかっていても、デジタルカメラでの撮影では、印刷上の仕上がりがどうなるのかまだまだ「読めない」ところがあって逡巡していた。僕も３割方はデジタルカメラで仕事をしていたのではないかと思うけれども、まだまだ体になじまないでいた。そういうこと以上に、一連の「人の顔」はどうしてもフィルムで撮り切りたかったから、おじさんの顔もやはりリバーサルフィルムを準備していた。デジタル化した今となっては顔の表情さえも容易に変えることができてしまうけれども、スライド用のリバーサルフィルムは、明るさもアングルも光の質もすべてが一発勝負で、こうして書きながらもフィルムの時代が懐かしく、どうしても隔世の感を禁じ得ない。<br />
<br />
数ヶ月後になってしまったと思うが、開店してすぐの、まだお客さんのいない時間にうかがった。写真を撮らせてもらったお礼に、A３の大きさにプリントアウトした写真を２枚持って行った。おじさんは早速封からだして両手を伸ばして目を細めて嬉しそうにしばらく見入った。そして、<br />
「いやあ、本当にどうもありがとうございます。いい遺影ができましたよ」<br />
いい遺影が・・・、まんざら冗談というわけでもなく嬉しそうに笑顔でそうおしゃったのに、僕は返す言葉がなくただ困惑と笑みを浮かべただけだった。<br />
僕は仕事に行く途中だったので、食事はせずにそのまま失礼した。その日は雨だった。<br />
<br />
僕はマハバールのカレーが好きなのかも知れない。結局その後も折あるごとに食べに行った。夕食の時間でなければおじさんはいつものように店にいて、写真をプレゼントしたあのとき以来、チャイかラッシーのどちらがいいかと聞かれるようになった。セットになっているわけではなく、おじさんが好意でつけてくれるようになった。僕は本当にお構いなくといって時にはどちらとも言わなかったりもしたのだけれども、おじさんは必ずどちらかをサービスしてくれた。冷たいラッシーは胸にスーと染み渡って美味しかった。辛いマトンカレーを食べたあとや、暑い日などは格別だった。おじさんは、最後までそんなふうにもてなしてくださった。<br />
「おじさん」というのは、マハバールの経営者か店長の叔父にあたるために、おじさんとみんなに呼ばれていたということだった。正確な年齢は知らないけれども、最初にお会いしたころでも７０歳を越していたのではないだろうかと思う。<br />
<br />
<br />
おじさんが亡くなったことを知ったのは、沖縄にいたときだった。知らない女性から携帯に電話がきて、ナガワと申しますが、というのにはじめは誰のことか全く見当がつかなかった。父が亡くなりまして、つきましては遺影にすとうさんがお撮りになりました写真を使わせていただきたいのですが、というところまで聞いてはっとした。マハバールのおじさんが亡くなったのだとやっと気がついた。快諾するまでもなく、人に差し上げたものだからどのように使っていただいても結構なのですよと答えた。<br />
<br />
その年の夏か次の年の夏か、いずれにしても１年と経たないその夏に、いちどお線香を上げさせてもらいにいった。本来だったらお通夜に伺うべきところだったが、沖縄という距離から、失礼してしまって、次に東京へ行く機会によらせてもらったのだった。<br />
早稲田通りに面したマハバールから明治通りにでて、新宿方向にしばらく歩いたところにマンションはあった。その都営のマンションは今となってはだいぶ年季も入った建物だったが、建った当初はモダンなものだったに違いない。建物の下から、何度も塗り直されただろう白いコンクリートの壁に、夏の光がぎらぎらと反射するのを見ながらも、時間の流れを隠しきれないのを感じた。そして、そう遠くない頃に取り壊されるのかもしれないなとふと思った。<br />
遅めのエレベーターで最上階の１１階まで上って、人のいない通路をドアの脇の番号を一つ一つ見ながら部屋をさがした。<br />
<br />
<br />
奥さんが香りのいいお茶とお茶菓子を出してくださって、それからお亡くなりになった経緯を丁寧に話してくださった。<br />
その話しが一息ついたあと遺影の話しになり、<br />
「お葬式の時に遺影の前に華を飾っていたら、葬儀屋さんに注意されたんですよ。こんなにいい遺影はなかなかないから華で隠れるともったいないって。それで写真が隠れないように花を脇の方に飾って・・・。どなたもいうんですよ、いい写真ですねって」<br />
そういってから、おじさんを見て小さく微笑まれた。<br />
僕も振り向いて改めてみると、ま新しい小さな仏壇の真ん中でいつものように微笑んでいた。「たくさんお代わりしてくださいね」という、笑顔も蝶ネクタイの姿もそれから声も、すべてが思い出された。<br />
<br />
マンションの中はこざっぱりとしていて、すっきりとした生活をしていただろう様子がうかがえた。若かった頃は相当美人であったろうこの上品な奥さんとここで暮らしたのだなあ、と思う。この二人が若かりし頃は、ダンスホールとかミルクホールとかがはやった頃だったのだろうか。二十代の二人が胸をよせて踊る姿が容易に想像がついた。とてもお似合いだったろうと思う。<br />
<br />
奥さんは、写真集の出版記念パーティーにおじさんと一緒にお越しくださったので、そのときにいちどご挨拶をした。<br />
その折りに、おじさんは若い頃はさぞダンディーだったのではないですか、と水を向けると<br />
「そうなんですよ。今でこそこんなに背中が曲がってしまいましたけど、かっこよかったんですよ」<br />
とまんざらでもない様子で微笑まれた。おじさんはにこにこしながら聞いているだけだった。<br />
パーティーでは、誰に挨拶したかもしてないかも訳がわからないほどはばたばたしてしまい、おじさんと奥さんとお話をしたのはそれくらいの挨拶ていどになってしまったのではなかったかと思う。おじさんと奥さんが高田馬場の取引先の女性社長と楽しげに話しをしているのが目に入った気もしたが、定かな記憶ではない。あの時間を楽しく過ごしてくれたのだったらよかったのだが。<br />
<br />
順番順番でやってくるものはやってくる。その順番が逆転したりしたときの方が悲しみは大きく不条理なものを感じたりするのかもしれない。そうは思っても親しい人に順番が廻ってくると、やはり何ともいえない。<br />
<br />
マンションの窓の外はまぶしく、その下で桜の葉が揺れもせずに輝いていた。この公園にはいつだったか花見に来たことがあったのを思い出す。この公園の、樹という樹が桜の木だ。１１階から見渡す桜は、きっと桜の川がゆったりと流れるように見えて、さぞ美しいことだろうと思う。<br />
二人は毎年この桜を楽しみにしていたことだろう。ここで何度春を迎えて桜を眺めたことだろうか。<br />
<br />
<br />
今年の春、たまたま明治通りから早稲田通りをとおって高田馬場駅まで歩いた。早稲田通りに入ってすぐの古い映画館は健在だった。そこを過ぎた反対側には以前はなかった沖縄料理の店とか携帯電話の店が並んでいた。前はどんな店だったのか全く思い出せない。変わってしまったんだなあと思う。次の店次の店と目をやりながら駅の方にさらにくだって行く。<br />
通り過ぎようとしたそこは、まっ白い店内のラーメン屋だか定食屋になっていて、店頭では店のエプロンを着た女の子が呼び込みをしていた。僕は一瞬路上で立ちすくみ、見たものを疑ってしまった。そんな様子を見て、女の子は僕が入ろうかどうか迷っているものと思い、笑顔と開いたメニューで誘った。僕はこの店にはきっと入れないだろう。<br />
喪失感。明大前のあのイタリアンがなくなったときにもこんな想いがした。僕にはどうしようもないのだけれど、何か取り返しのつかないものをなくしてしまって、全身から力が抜けてゆく、そんな喪失感。<br />
<br />
おじさんが亡くなったあとも、折りがあればその店には行った。<br />
会計の時に店長さんと、おじさんが亡くなって２年くらいになりますかねえ、早いものですね、とレジをはさんで言葉を交わしたあのときが、高田馬場のマハバールに行った最後だったように思う。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
※「おじさん」の写真は下記に掲載<br />
<a href="http://www.ningen-isan.com/ningenisan/picture58.html" target="_blank">http://www.ningen-isan.com/ningenisan/picture58.html</a><a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>なまはんか心理学（６）かなりピンぼけ</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-11-10</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Thu, 10 Nov 2011 05:49:42 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-11-10</guid>  
      <description><![CDATA[宿泊施設の小さな風呂の洗い場で、諸富先生※と隣り合わせになった。シャンプーを手に出しながら諸富先生はこんなことを話しかけてきた<br />
「すとうさんは、ゲシュタルトがいいですよ、ゲシュタルト」<br />
以前にも何度かお会いしたことがあったので、名前を覚えてくださっていた。<br />
「ゲシュタルト？ですか？」と僕。<br />
諸富先生<br />
「そうそう。合うと思うよ、きっと」<br />
「そうですか・・・」<br />
それだけの会話だった。伺いたいことはたくさんあったが、そのあと頭をごしごししてシャワーで洗い流して、なんとなくそれからの続きを話す感じでもなく、そのままになった。諸富先生は僕のどういうところを見てゲシュタルト（療法）が向いているとおっしゃったのだろうか。諸富先生はそんなことは忘れていらっしゃるだろうが、いまだに謎は残されたままだ。<br />
<br />
ゲシュタルトの話しを書くつもりではなかった。（すでにピンぼけだ・・・）<br />
あれは諸富先生のフォーカシングの研修会※に参加したときのことだった。フォーカシングといっても写真の研修会ではない、心理の世界のことだ。<br />
<br />
フォーカシングというからには焦点を合わせるということになるけれども、じゃあ何にどこに焦点を合わせるかというと、自分の体の「何か意味のある体の感じ」に意識を合わせる、ということになるのかなと。たとえば、顔が火照る、といってもかんかん照りの下を歩いて顔が火照るのと、好きな女の子の前で顔が火照るのでは意味が違ってくる。後者の方は心の動きと関係するわけですよね。<br />
ユージン・ジェンドリンがこのフォーカシングという技法を考えたのだけれども、カウンセリングをしてゆくうちに、治療的効果が現れる人、全く変わらない人がわかるようになったというのがそもそものヒントだったようで、そこを注意深く見てゆくと、効果が現れる人は体も何かしら反応していることに気づいた。じゃあ逆にそこをとっかかりにして心の声を聞くことはできないかと考えたわけです。つまり、「顔が火照っている」ということに焦点を当てて注意深く意識を向けてゆくと「この子のことが好きなんだ」と気がつく、そう考えたわけです。<br />
そして、それを体系化したのが、今のフォーカシングということになるのかなと理解しているのですがどうでしょうか。<br />
<br />
埼玉の閑静なところ（田舎ともいう）にある宿泊を兼ねた研修施設に一泊二日。<br />
一日目の研修が終わり、夜は和室で諸富先生を囲んでの楽しい宴会が始まった。諸富先生は風呂にも入ってさっぱりとし、服装も楽な感じでビールから始まった。ほろほろと酔いがまわり始めると、諸富先生があのお人柄で受講生にカウンセリングのまじめな話しを折りませながらも楽しい話しを連発してくれるから、ちょっとまじめになったかと思うと爆笑に次ぐ爆笑の大盛り上がり。お酒が足りなくなって、誰かが寝酒に買っておいたウイスキーを提供したり。研修会場と宿泊するところが同じところという気楽さから、酔いのまわりがまたいい。大盛り上がりの宴会は延々と続いた。<br />
<br />
二日目、研修室でおはようの挨拶と一緒に目を合わせると、夕べは楽しかったね・・・、という表情になるが、だれもが疲れ気味な感じは否めない。<br />
セッションが始まった。フォーカシングでは、実際に自分の体に焦点を当てる人（フォーカサー）とそれを聞きながらサポートする人（リスナー）が二人ひと組になっておこなわれることが多いが、そのような形での演習が始まった。二人ひと組になって研修室に散らばっていすに座る。たまたま僕が座った位置からは、研修室全体が見えた。<br />
<br />
僕の目の前のフォーカサーは目を閉じて、ゆっくりとフォーカシングを始めた。<br />
片手が胸の中央あたりに触れ、<br />
フォーカサー「このあたりに少し違和感が・・・」<br />
リスナー「胸のあたりに違和感が・・・」<br />
（間）<br />
フォーカサー「そう、なんていうのかな・・・。むかむかする感じっていうのかな・・・」<br />
リスナー「むかむかする感じ・・・」<br />
<br />
僕の頭にはハテナが浮かんだ。フォーカサーへ意識をそのままやりながらも、ちらと部屋を眺める。胸に手を当てている人が多いようなのは、気のせいではない。<br />
むかむかする感じ？二日酔いにピントが合っている・・・ってこと？<br />
役割を交代して、今度は僕がフォーカサーをやる。静かに体に意識を持ってゆく。<br />
しばらくして、僕も胸のあたりに違和感を・・・。僕はあきらかに二日酔いだった。そして、動きの悪いオートフォーカスは胸のむかむかに焦点を合わせようとする。<br />
人生に意味のないことなど起こらないともいわれるが、このかなりピンぼけフォーカシングにもまた意味があったのだろう。と思うことにしよう。・・・それにしても楽しい宴会だった。<br />
ジェンドリン先生、諸富先生、こんなフォーカシングですいません。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
※諸富祥彦先生<br />
<a href="http://morotomi.net/" target="_blank">http://morotomi.net/</a><br />
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/" target="_blank">http://ja.wikipedia.org/wiki/</a>諸富祥彦<br />
<br />
※埼玉カウンセリングセンター主催の研修会だった。ここが開催する研修会はリーズナブルな料金でいいものが多いのでよく参加していた。<br />
<a href="http://npo-scc.jp/" target="_blank">http://npo-scc.jp/</a><a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>歴史から学ぶこと</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2010-06-06</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Tue, 08 Nov 2011 01:59:38 +0900</pubDate>
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      <description><![CDATA[「歴史は繰り返す」とは有名な言葉。ローマの歴史家の言葉らしいが、詳しくは知らない。<br />
歴史が勝手に同じことを繰り返すわけではない。繰り返す（繰り返してきた）のは総体としての人。人がその昔やったことがあるのと同じことを繰り返してきたから、「歴史は繰り返す」といったのだろう。<br />
この言葉が人口に膾炙しているのは、私たちの中に歴史という自分とは関係ないもののせいでそうなってきた、という潜在的な思いがあるからなのだろうと思う。いずれにしても「私たちが」同じことを繰り返してきたといっているのではなく、「歴史は（自然に、勝手に）同じことを繰り返してきた」といっている。<br />
善し悪しはさておき、今を作っているのは私（たち）なのだ、私（たち）の責任なのだと受け止めないないかぎり、何も変わらず同じように繰り返すのだろうと思う。※<br />
<br />
歴史から学ぶこと学ばなければならないことは多いのだろうと思う。<br />
しかし、まず最初に歴史から学ばなければならないのは、<br />
<br />
「私たちは歴史から何も学んではこなかった」<br />
<br />
ということだと思う。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
※大江健三郎は『ニューヨーカー』誌に「歴史は繰り返す」として書いている中に、フクシマについて、<br />
「・・・地震や津波などの自然災害と同じように、広島の経験は記憶に深く刻まれているはずです。・・・人の命を軽視するという過ちを繰り返すことは、広島の犠牲者の記憶に対する、最悪の裏切り行為です。・・・」と。<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>なまはんか心理学（５）我が心のタコ社長</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-10-30</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Sat, 05 Nov 2011 02:47:06 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-10-30</guid>  
      <description><![CDATA[ゲシュタルト療法では徹底的に「いま、ここ」にこだわるのだそうだ。たとえば昔起こった問題でも、今それを引きずっているとしたらそれは「今」の問題ととらえる。<br />
僕はカメラマンを生業としている。言うまでもなく、写真はいつでも「いま、ここ」なのだ。当たり前すぎることだ。いまここでじぃーっと凝視して、いまここでシャッターを押す。「いま、ここ」にこだわるも何もない。打ち合わせやセレクト作業はあるものの、「いま、ここ」でシャッターを押すということが核になって、一枚の写真を作ってゆく。そうでないとカメラマンは飯が食えない。<br />
<br />
同じカメラマンといっても、撮影内容も仕事の受け方も人によってまちまちで、もちろん写真に対する考え方も千差万別。で、僕はどんなことを長くしてきたかというと、雑誌全般、会社・大学案内のパンフレット、地方にいっての紀行・取材もの。そうしたものが多かったが、それらの仕事の中で人物を撮影することが多かった。ポートレイトもそうではあるけれどもインタビュー中の写真を撮ることも多かった。それに、依頼の仕事でなく、自分自身の作品としても、いろんな国に行ってポートレイトを撮るということをしてきた。<br />
ファインダーを通して、インタビューに答えるその人をじぃーっと見る。考えてみれば、人をじぃーっと見続けるというのは日常ではちょっと考えられない。けれども、仕事ということと何よりも「レンズを通して」ということで、１時間近くもまじまじと人の顔を凝視する。アングルを変えたりしながらその人の何かを感じ何かを撮ってゆくことになる。<br />
<br />
あるとき太宰久雄さん（もうお亡くなりになりましたが、寅さんに出てくるあのタコ社長です）を撮影する機会があった。<br />
そのときご丁寧に名刺をくださったということもあって撮影した写真を一枚贈らせてもらった。そしたら後日太宰さんからお電話があって、頂戴した写真は本当に私らしく写っているので、もしさしつかえなければ宣材※に使いたいので５０枚プリントして売ってもらえないかと。太宰さんのような方が、それでも宣材を作って前向きにやっていらっしゃるということに凄いなあと感動し、そしてまた太宰さんのような一流の役者さんに僕が撮った写真を「本当に私らしく写っている」と評価してもらえたのがとても嬉しかった。カメラマン冥利、といってもいいのかもしれない。太宰さんは、あの一枚のゲシュタルトは美しく完成したものだと教えてくれたのだと、今になって思う。<br />
電話口で料金を決めかねている僕に、いい写真を撮っていらっしゃるのだから遠慮なく料金をおっしゃってくださっていいいのですよ、と優しくおっしゃってくださった。<br />
<br />
タコ社長の太宰久雄さんは指をあごに当てて話す癖があった。目線はやや上目で遠くを見るような感じ、そしてインタビュアーの言葉を頭の中で反芻し、言葉を選ぶようにしてゆっくり丁寧に話していた。静かな物腰の方だった。あえてひと言で印象を言うならばジェントルマンだった。<br />
<br />
「男はつらいよ」では、寅さんが寅さんでいるためには、タコ社長は不可欠な存在だった。欠かせない「地」だった。<br />
タコ社長、太宰久雄さんの奥さん宛の遺言、<br />
【葬式無用。弔問供物辞すること。生者は死者の為に煩わさるべからず。】※<br />
これをどんなふうにとったらいいのかは、よくわからない。太宰さんがそのような用語を使いはしなかったと思うが、たとえば、生者を「図」死者を「地」、そんなふうに見ていたとはとれないだろうか。<br />
そんなことをつらつら考えると、役者としても生き方としても「地」を作ることにかけた人生だったのかもしれないと思う。大げさに言えば「地のゲシュタルト」を作り上げた人生だったとはいえないだろうか。<br />
そして、太宰さん本人にとっては「地であること」それこそがまさに「図」であった。<br />
<br />
「地」に意識を持ってゆかなくてはならない。「地」の中に新しい気づきやヒント、そうしたものが隠されている。パールズはそう教える。<br />
ふだん意識に上らない「地」は広い。エベレストは目で見ることができるけれども、海の底にはそれよりもはるかに深い海溝が延々と広がっているのに似ているかも知れない。<br />
タコ社長を想うとき、広大な大地を鍬を持って耕しては休み、そして、顔を上げてあの笑顔で陽をあびるタコ社長、僕にはそんな光景が思い描かれてしょうがない。<br />
僕自身「図」と「地」のこともよくわからない。それでもあえて言わせてもらえば、「地」と「図」のことはタコ社長、太宰さんの生き方にとても大切なヒントがあるように思える。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
※宣伝材料の略だと思う。営業用に使う写真付きのプロフィールをこの業界ではこういっている。<br />
※朝日新聞、天声人語に掲載<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>なまはんか心理学（４）ゲシュタルトの祈り</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-10-28</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Sat, 29 Oct 2011 07:19:01 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-10-28</guid>  
      <description><![CDATA[ここにはフレデリック・パールズというゲシュタルト療法の創始者のことば「ゲシュタルトの祈り」と題されたものについて少し書きたいと思う。この言葉も手帳にはさんでから何年にもなる。ゲシュタルトとは四国の銘菓、一六タルトのようなお菓子ではなく、ドイツ語で「かたち」とか「全体性」とか「まとまった全体」のような意味らしく、「意味のあるまとまったひとつの全体像」というように表現しているものがあったが、個人的には解りいい感じがする。またその全体は「全体とは部分の単純な総和以上のものである」などとも言われるのだそうですが、僕にはすぐにわからなくなって、一六タルトの渦巻きがハテナの形に見えて頭の中を埋める。<br />
<br />
それで早速「ゲシュタルトの祈り」と題されたものを書きたいところなのですが、ところが訳がいろいろとある。先のものでは國分康孝先生が訳していらっしゃるし、自分自身がすっきりくるような言葉に訳している人もいるし。ところが、その訳の違いによって微妙に意味が違ってくるようで、その違っている「そのところの言葉」に胸打たれたなどと、ネットを見るといろいろと出てくるわけです。というわけで、胸打たれないように橋田壽賀子テレビドラマ風にしてみました。※<br />
<br />
<br />
「ゲシュタルトの祈り」<br />
わてはわてのために、あんたはんもあんたはんのために生きてます。<br />
わてはなんもあんたはんの期待どおりに生きるためにいるわけやおまへん。<br />
あんたはんやて、わての期待どおりに生きるためにいるわけやおまへんやろ。<br />
わてはわて。あんたはんはあんたはん。<br />
ほんで、出会うことがおましたら結構なことでございます。<br />
そうあらへんでも、それもまたようございます。<br />
<br />
<br />
題の「ゲシュタルト」とはこの場合いったい何を差すのだろうか。単に「ゲシュタルト療法としての」という意味には思えない。この場合の意味のあるまとまったひとつの全体像とは何だろうか。そして何を「祈る」のだろうか。人それぞれが自分自身のために生きることを祈っているのだろうか。この言葉を手帳に挟んだときに確かにそのことを考えた。このタイトルは何を意味しているのだろうかと。そして、そのままになって忘れ去られていた。<br />
パールズはワークの時に好んでこの言葉を使ったということらしいので、何かゲシュタルト療法の神髄に触れる意味があるのだろうか。謎解きのヒントを残したような言葉に思えてしまう。<br />
<br />
ところで、ゲシュタルトの箱を開けば必ず出てくるのが「ルビンの盃」という絵。盃が真ん中にひとつある、と思いきや、その盃を挟んで「ふたり」が向かい合っているというようにも見える、というあの絵。地と図を説明するのに使われている有名なもの。意識にあがったものが図となりそうでないものが地となって云々・・・、と説明される。<br />
僕は今わざわざ「ふたり」にカッコをつけた。僕が勝手に見解するには、これは「ふたり」ではなくて「あなたと私」なのだと思う。あなたはあなた、私は私として存在している。しかし、実は切り離すことはできない。あなたと私は、気づいていようがいまいが繋がっている。そしてあなたと私が作り出しているものは盃。これは勝利のシンボルであったり愛のシンボル※であったり（するんじゃないかなぁ・・・）。<br />
<br />
そういうことをふまえてもう一度「ゲシュタルトの祈り」を振り返ってはどうだろうか。<br />
あなたがあなたとしてそこにいて、私が私としてそこにいる。自分自身の人生を生きるためにそこにいることは、とりもなおさず二人で盃を作ること。そんな関係が人と人の間に生まれたらそれはとても素敵なことだ。いろんなかたちの盃ができるだろう。盃ができないことも含めて。<br />
ある解説では、今私たちはポジティブであることをよいことと訓練されているが、パールズによればこれは自虐でありポジティブ教の信者なのだと。<br />
「出会うことがなくても、それもまたそれでいい」この言葉には、あるがままを受け止めるゲシュタルトの精神が集約されているというのだ。※<br />
<br />
あなたはあなたというひとつのゲシュタルトをなしていると考えられないだろうか。そのゲシュタルトの総体としての地球上に住む人類全体もまたひとつのゲシュタルトをなしているといえないだろうか。そうだとしたら、私は何を祈るのだろうか。<br />
足を大きく組んでたばこをすっぱすぱ吸いながらクライアントに向き合っていたパールズ。※パールズは深い胸の奥で何を思っていたのだろうか。<br />
パールズご夫妻特製のゲシュタルト、味わい深いが、僕には消化するのにまだまだ時間がかかる。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
※本当はこんな感じ<br />
<br />
「ゲシュタルトの祈り」<br />
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。<br />
私はあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけではない。<br />
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけではない。<br />
私は私。あなたはあなた。<br />
私たちがたまたま出会うことがあれば、それは素敵なことだ。<br />
そうでなくても、それもまたいい。<br />
<br />
Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.<br />
Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -<br />
und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.<br />
ICH BIN ich und DU BIST du -<br />
und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,<br />
wenn nicht, dann ist auch das gut so.<br />
（原文っぽいのが出ていたので拾ってみた。原文かどうか知らない）<br />
<br />
※タロットではカップは愛のシンボルでもあったように思う。それは、カップつまりそれに入る水は、相手の心の、その心のかたちに合わせて心を満たすから、というようなことを読んだような気もするがさだかではない。<br />
<br />
※<a href="http://www.ieji.org/archive/das-gestalt.html" target="_blank">http://www.ieji.org/archive/das-gestalt.html</a><br />
上記ドイツ語もここからの引用。<br />
<br />
※「グロリアと３人のセラピスト」<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>なまはんか心理学（３）また飲もうよ、いーぽん</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-10-26-1</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Thu, 27 Oct 2011 00:24:07 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-10-26-1</guid>  
      <description><![CDATA[母が亡くなった秋の年明けでしたから、もう２年ほど前になるでしょうか、「実存主義的カウンセリング」（だったと思う）というタイトルの研修会に参加しました。「実存主義」とはということになりますが、いまだにこんな基本的な意味さえも実は僕にはよくはわからないのです。（こういうところが生半可もいいところ）<br />
その研修会ではお手伝い係もしていたので、先生とも直接お話しする機会がありました。年明け早々ということで、たまたま母の喪中はがき※を持っていたのですが、どういう話しの流れだったか、先生にそれを見せたら、その先生がおっしゃるには<br />
「これがまさに実存ですよ」<br />
と。そういわれても私の頭の中は？？？？？でいっぱいなわけです。<br />
<br />
後日また先生とご一緒に何人かで晩ご飯を食べる機会があって、その時に聞いたんですね<br />
「実存ってどういうことですか？」と<br />
実存ということを自分なりに言うと、と前置きして<br />
「交換不可能な存在としていること」とおっしゃっていたように記憶しています。<br />
僕なりに考えると、たとえば市役所の住民係の窓口の担当は交換可能ですよね。いずれ定年退職したら担当が変わるわけで、交換不可能だったら大変なことになってしまう。小澤征爾の指揮は交換可能かというと、これは不可能でしょうね。OZAWAはOZAWAなわけです。<br />
<br />
錦糸町の居酒屋で友達のいーぽんと飲んだときのことです。混み始めて忙しい時間、通されたのは向かい合わせの二人用の席。そして通路を挟んだ向かいにも同じような席。向かいには話の内容から競馬帰りのお二人。<br />
彼らは頼んだあれはまだかとか、酒を早く持ってこいとか、取り皿がないとか、すこし乱暴な命令口調で言うわけです。働いているのはアルバイトだろう２０代の女性。仕事なのでやることはやるのですが、見ているとどうも向こうのお客さんには愛想が悪いというか、事務的にというか、つまらなそうでそっけない。僕らにはいい感じで対応してくれる。笑顔だってある。何か違う。僕らがいい男たちだから、では決してない。（そんなに自信をもって否定しなくてもいいが）どうも、僕らはつまみやお酒を持ってきてくれるたびに嬉しそうに「ありがとう」を連発していたからのようなのです。持ってきてくれたので「ありがとう」をいう。そうすると彼女としても悪い気はしないので、自然に笑顔もでる。笑顔で給仕されれば僕らも悪い気はしない。そんなことが何かいい方向に関係を作ったようなのです。注文したのは焼き鳥とかそんなものだったけれども、何かいい感じで料理もこころなしか美味しくなっていった気がしました。<br />
向かいに対してとこちらに対してでは、彼女の働く気持ちの何かが違う。向かいの二人に対してと僕らに対してでは、彼女の細胞の一つ一つにとって、大げさに言えばが生きている意味が違っているように感じられるのです。<br />
市役所の住民係の窓口の担当も、その仕事をする人という意味では交換可能だけれども、その人自身は交換不可能なわけだし、そこでの在り方によってはそこでも交換不可能な存在になるのではと思います。居酒屋のアルバイトの彼女は、僕らには交換不可能な存在だった。<br />
<br />
フランクル※は、人生の意味ということを深く考えてきたようです。<br />
彼はロゴセラピー（ロゴというのはギリシャ語で「意味」という意味だそうです）の創始者で、Wikipedia※によると「ロゴセラピーとは、人は実存的に自らの生の意味を追い求めており、その人生の意味が充たされないということが、メンタルな障害や心の病に関係してくる、という見解を基にしている。」のだそうです。僕にはよくわかりませんが。もちろん彼は人生には意味があるということをいっています。<br />
<br />
「交換不可能な存在」ということばを、自分なりに咀嚼した言葉で言うと「かけがえのない存在」という表現がしっくりくるような気がします。<br />
ちょっとイメージしてみて欲しいのですが、あなたがそこに立っていて、それをぐうっと遠くから見ると、あなたはそこに小さくぽつんと立っていて、それをまたぐうっと引いてみると、あなたは地球のそこだろうところに見えなくなっているけどいて、それをまたぐうっと引いてみると、天の川銀河の中に全く見えないけれども確かに存在している。それはあなたの命で、かけがえのないもの。宇宙の彼方からこうしてみると、全く見えない存在ではかないけれども、確かにあなたはかけがえのないものとして存在している。<br />
宇宙は広いので、ひょっとしたら宇宙のどこか遠いところに、あなたと全く同じ遺伝子を持ったヒトが絶対に存在しないとは断言できないけれども、それでもそれはあなたではなくてまったく違う存在。あなたはあなた。あなたはあなた。<br />
<br />
あなたは宇宙が遺（のこ）したかけがえのない存在だと思う。<br />
<br />
こんな表現が、僕にはぴったりくるように感じられます。<br />
あなたの存在あるいは人生に意味があるかないかはさておいて、僕自身の存在あるいは人生に意味があるのかというと、僕は知らない。<br />
僕のある尊敬する方が全く冗談というわけでもなく<br />
「人生なんて、まあ、暇つぶしみたいなもんだね」<br />
と言ったことがありました。<br />
全くその通りと思うわけでもないのですが、そういう考え方もそれはそれでありだな、と思うのです。<br />
自分の存在がかけがえがないと思えるとき、なぜか命が愛おしい。それがどうしてなのかは僕にはわからない。<br />
一緒に暇つぶしをするその命もどうしてかはわからないけど、またたまらなく愛おしい。<br />
また一緒に飲もうよ、いーぽん。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
※「母の喪中はがき」というタイトルで先に書いていますので、よろしければ参照してください。<br />
<a href="https://blog.so-net.ne.jp/MyPage/blog/article/edit/input?id=36890644" target="_blank">https://blog.so-net.ne.jp/MyPage/blog/article/edit/input?id=36890644</a><br />
<br />
※フランクルの本を読んで「人生には意味がある」ということが、僕にはまだすっきりとは飲み込めません。彼の本からは、むしろ「自分らしく生きて欲しい」「充実した人生を生きて欲しい」そんな人の幸せを願う激しい思い、もっと言ってしまえば愛が感じられるのです。そういう意味で大好きで尊敬する先人の一人です。教員をしていたときに、授業の中でフランクルがアウシュヴィッツ収容所での体験を書いた『夜と霧』を紹介したことがありました。高校１年生のかれらが、その時に限っては真剣に話を聞いていたのを印象深く覚えています。<br />
<br />
※先日このWikipediaで諸富祥彦先生の項を見ていたら、大のプロレス好きでリングネームはゾンビ・ザ・グレーテストで、ということまで書いてあったが・・・。誰が書いているのか知らないが、不思議な辞書だ。<br />
<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>なまはんか心理学（２）エリス先生への手紙</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-10-26</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Wed, 26 Oct 2011 03:11:56 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-10-26</guid>  
      <description><![CDATA[で、その論理療法、認知情動行動療法は、もとはA・エリスという先生が考え出したということらしいんですね。<br />
話がそれるようですが、僕は怒りっぽいところがあって、自分自身の中の「怒りの感情」とどうつきあうかというのは、なかなか大きなテーマでした。（今でもそうではあるのですが今は「地」になっていることが多いようです）そんなときに、S先生に教えられてA・エリスの著書『怒りをコントロールできる人、できない人』という本を読んだんですが、それは僕にはしっくりくるものがあって、いい一冊との出合いとなりました。怒りは人間関係を壊し、一度の人生を破壊する強烈な力を持っていると思います。自分の中のその力とどのようにつきあうかというのは、少なからぬ人にとって難しい問題のようです。なかなかお勧めなのですが、だからといって人に勧めると「あなたは怒りっぽいから、これを読んでみたら」ということになりかねないので、やたらに勧めるわけにもゆきませんが。<br />
<br />
はなしをもどします、<br />
僕が尊敬しているおひとりであるS先生の集中講義に参加させてもらったときの話しです。ちなみにS先生は非常に優秀な方でしかも大変な努力家。出会えて本当によかったなあと思う先生のお一人です。そのS先生が言うには「A・エリスは『人は幸せになるために生まれてきた』と言っている」というのです。（言葉尻は間違っているかも知れません。）それが認知情動行動療法の基本的にある概念だということです。幸せのかたちは一人ひとり違うのでしょうが「幸せじゃあないけど、まあ、このままでいいや」といったら、わざわざ頭の中で考えてそれからわざわざ行動を変えるという必要はない、ということになってこの療法自体、存在意味をなさなくなるということなのでしょうか。<br />
３５歳頃だったでしょうか、僕自身も「人は幸せを味わうために生きているんだ」と思っていたことがありました。その頃は自信をもってそう思っていました。ですが、今はそうは思えなくなりました。<br />
これだけそれぞれの人生があって、時には、一生逃れることのできないどうしようもない悲しみや不幸な出来事が訪れることもある。そう思いますがどうでしょうか。そうしたときに「幸せ」って何なのでしょうか。<br />
認知情動行動療法は、非常に優れた心理療法のひとつだと思います。ただカウンセラー・療法家もいろいろいて、こころシステムのどういうところにフォーカスしてクライアントに向き合うかというのはそれぞれ大きく違う点になるのではないでしょうか。<br />
S先生の集中講義では、レポートの必要はなかったのですが、自分自身のまとめとしてこんなことを書きました。少し手を入れて載せますが主旨は同じです。（講義の中でアウシュビッツの収容所を体験した心理学者ヴィクトール・フランクルのことも出てきたのでそれについても少し書きましたが、その部分は割愛）<br />
<br />
＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝<br />
<br />
「エリス先生への手紙」<br />
<br />
エリス先生、たとえばですがこんな状況を考えてみてはどうでしょうか。<br />
僕の所に赤ちゃんが生まれて、その赤ちゃんが体が悪くて、あと１時間の命。生まれてわずか１時間の命。たとえば、こんな状況を想像してみたいと思うのです。<br />
僕は、この赤ちゃんを前にして、「あなたは幸せになるために生きているのだよ」というのだろうか。いえるのだろうか。僕はそうは言わないと思うのです。おろおろと泣きそして強く抱きながら、百万回の「ごめんね」と百万回の「ありがとう」と繰り返すような、そんなふうに思うのです。僕たちの所に生まれてきてくれてありがとう、そして、こんな体に生んでしまってごめんね、そんな気がします。<br />
もし隣にエリス先生がいらして先生が<br />
「この子は幸せになるために生きているのだよ」<br />
とおっしゃたら、僕は泣きながら先生に何というのでしょうか。<br />
「先生に何がわかるというのですか！」<br />
とでもいうのでしょうか。<br />
それともただ沈黙するのでしょうか。<br />
エリス先生に同じようにこのようなことが起こったとしたらどうでしょうか。先生は<br />
「それでもこの子は幸せになるために生まれてきた」<br />
とおっしゃるのでしょうか。<br />
繰り返しますが、私にはとうてい言えないと思います。生まれてきてくれたこの子を、愛おしく抱き、温もりを感じ、そうして１時間という人生をともに過ごすだろうと思うのです。僕たち親子にとってどういう意味があるのか、なかんずく赤ちゃんにとってどういう意味があるのか僕にはわかりませんが。<br />
トイレに産み落とされてそのまま死んでしまった赤ちゃんのニュースを聞いたりもします。幸せになるために生まれてきた、といったらあまりにも「幸せ」は空虚ではないでしょうか。<br />
たとえばということで１時間の命などを考えてみましたが、それが２時間だったら本質は変わるのでしょうか。１日だったら、１ヶ月だったら、１年だったら・・・。<br />
エリス先生、僕には幸せがまだまだわからないようです。<br />
<br />
＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝<br />
<br />
僕が想像するには、エリス先生はそれなりにいいところの出身で、いい教育を受けて、勉強したいと思ったことを勉強して育ってきたのではないかと思うのです。人ですからいろいろとあったとは思いますが、おおむね「めぐまれた」人生だったことと思います。<br />
ですが、世の中そんな人ばかりじゃあないなあと、つくづくと思うのです。言ってしまえば、生きたいと思ってもいきられない人もたくさんいる。不幸を絵に描いたような人生もたくさんある。<br />
先日ドイツに行く機会がありましたが、そこと今これを書いている中米のN国では、QOLがとんでもなく違いすぎる。オーストリア、ドイツ、アメリカ、イギリスなど、成熟した（といってよければ）国で心理学・カウンセリングが発展した訳ですが、そうした国の目線からこころシステムを見てゆくのには、抵抗がある感じがしてしまうのです。胸の中心、肋骨の下、みぞおちの少し上あたりになにか引っかかるものを感じてしまうのです。<br />
<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
          </item>
        <item>
      <title>なまはんか心理学（１）「なんだおかまかよ論」</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-10-13</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Thu, 13 Oct 2011 06:12:33 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-10-13</guid>  
      <description><![CDATA[はじめにお断りしなければなりませんが、カウンセリング・心理学をしばらく学んではきましたが生半可な知識しかありません。でもそれなりに勉強した甲斐があってカウンセラーではあります。※まだまだ道は遠く、東海道五十三次でいえば、日本橋を出て高輪のあたりでしょうか。ちなみに、なまはんかとつけましたが、とんちんかんで生半可です。ではありますが、いいかげんにやってきたのではなく、仕事の合間に自分なりに放送大学のテープを聴きに行ったり、ご紹介いただいた先生の勉強会に参加したりと、素人なりにそれなりにがんばってやってきたつもりではあります。<br />
ここには学派やその他にあまりとらわれないで、思うことを書きたいと思ってます。<br />
間違いや勘違い、それこそとんちんかんなことなども出てくるかも知れません。勉強不足故の失礼も出てくるかも知れませんが、諸先輩・先生方にはご鞭撻、ご指導をいただけましたら幸甚でございます。<br />
<br />
<br />
<br />
さて、早速その生半可さがばれてしまうわけですが、・・・<br />
論理情動行動療法は、今の日本では人気のある療法のひとつで、ざくっと言うと「物事のとらえ方が変わると、気持ちが変わる。物事のとらえ方は時には不合理なこともあるから※、その不合理なところをちょっと見直してみると気持ちが変わりますよ」というもの。<br />
感情（情動）は、それが「こころシステム」の中で独立しているのではなく、先に感情が発現するのではなく、実は認知（物事のとらえ方）によっているというもので、わかりやすい（と思うのですが）例を挙げましょうね、このたとえはオリジナルです・・・・<br />
<br />
同性の友達Aとお昼を食べにゆこうとお店を探しながら歩いていた。<br />
すると向こうの方からとっても素敵な女性が（あなたが女性なら男性が）やってきた。<br />
（あなたの好みの素敵な異性の姿を上から下まで思い描いてくださいね。そうです、そうです、いいですね、いい感じに描けましたね・・・）<br />
Aも気になるらしいようすで、私に言うには<br />
「ごめん、ちょっと彼女（彼）に話しかけるからご飯は今度にしよう」<br />
と。私も気になるから、先を越されたというか抜け駆けされたようでおもしろくない。それで、ちょと思いつきでこんなふうに言う<br />
「ああ、わかったよ。でも大きな声じゃ言えないけど、あれ、この辺で有名なおかまだよ」<br />
と。それを聞いたAは舌打ちしていう<br />
「なんだ、おかまかよ」<br />
それで、Aの燃え上がり始めた気持ちは一瞬にして冷めてしまう・・・。<br />
<br />
というもの。ちなみにこれを『なんだおかまかよ論』と名付けています。本当は「論」といえるものではないのですが。<br />
沖縄に住んでいたときに、琉球大学の論理情動行動療法の先生に話したら「これいいね。大学生にはぴったりだね。今度使わせてもらっていいかな」といわれたので、相変わらずの手前味噌ながらナイスなたとえなのだと思います、きっと。<br />
目の前の「素敵な女性（男性）」という事実は変わらないのに、それを「女性」ととらえるのと「おかま」ととらえるのとでは感情（情動）が変わる。（もちろん、それでかえって気持ちが燃え上がる人もいるでしょうが、いずれにしても）<br />
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※2006年、日本カウンセリング学会認定カウンセラー取得。<br />
※たとえば、「誰からも好かれなければならない」というのは、日本人が持ちがちな観念。アメリカ人のほとんどははじめからそんなことは思わないらしい。<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
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      <title>ブルームガーデン( bloom garden )</title>
      <link>http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-09-26</link>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Tue, 27 Sep 2011 00:27:53 +0900</pubDate>
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      <description><![CDATA[お友だちになったアメリカ人の女性と食事をした折りに、プレゼントに僕の写真集※をもっていった。<br />
彼女はさっそく写真集を開いて見入っていた。手前味噌な話しになって恐縮だけれども、その様子を見ていると、どうもリップサービスでもなく、ほんとうにいたく感動している様子で「凄いわ」と何度も言葉をもらしていた。私は写真の技術的なことは全くわからないけれども、こういう仕事をしてきたから見ればわかるのよ、と僕を見ていった。<br />
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後日彼女はメールでこんなことを質問してきた。直訳すると<br />
「あなたの撮ったポートレートのどの被写体にも、レンズを通してたくさんの愛と信頼( love and trust )が写し出されているけれども、どのようにして撮ったのですか？」<br />
僕にははっきりとした答えがなかったけれども、このように答えた。<br />
「そのように見えたのならとても嬉しく思う。僕は長い間人の顔を撮影してきたが、僕にもわからない。いま言えることはひとつで、人に笑えといっても、笑ったふりをすることはあるけれども、決して笑うことはないということ」<br />
僕の英語をわざわざ直訳することはないが、そろえてみた。<br />
もし、もしも「愛と信頼を写す方法」を誰か知っていたら、僕が教えて欲しい。僕が知りたい。<br />
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彼女は僕よりもまだ年上で、僕が６歳の頃に２ヶ月間ほど仕事で日本に滞在したという。まだ２０代の頃だったろう。東京、奈良、大阪、岡山、それに福岡にも行ったというから結構な長旅だったにちがいない。<br />
彼女はバレリーナだった。コスタリカで知り合ったのだが、首都サンホセのシンボル的な建物、コスタリカ国立劇場でも若かりし頃に公演をしたという。食事をしたのはたまたまそのすぐ隣のホテルの一階、半分オープンエアーのゆったりしたところだった。<br />
彼女は国立劇場を見やって<br />
「懐かしいわ」<br />
といった。<br />
ブルームガーデン (bloom garden) ＝花咲き誇る庭、彼女のもう一つの名前。<br />
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※　写真集『人間遺産』<br />
<a name="more"></a>]]></description>
      <author>sutou</author>
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