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大学受験ラジオ講座の時代 [学生の頃のこと]

僕はセンター試験の前身、共通一次試験の一期だった。
今となってはセンター試験は当たり前のことになって、そして前期後期とチャンスも増えてるようだが、当時は、つまり僕の前の年までは、国立大学がそれぞれ一回の試験をして、合否を決める入試だった。
そこに国立志望の学生は、全員が共通の一次試験を受けるという革命的な制度が取り入れられた。だから、受験生も高校の先生も勝手がわからすに、試行錯誤的に受験対策をしている時代だった。いちばん勝手がよくわかっていたのはきっと予備校の先生だったろう。暗中模索・試行錯誤といえば聞こえはいいが、ある意味どさくさの時代だった。
大学受験勉強をしていたその頃、今はなき「大学受験ラジオ講座」を一応聞いていた。テーマソングの「大学祝典序曲」で始まるあの番組。懐かしい!と思った人はみんないい歳だ。
競馬中継を聞くために作られたのだろうラジオ短波の固定周波数のラジオで聞いていた。夜の11時半から12時半まで。聞いていたとはいっても、半分以上は聞かないでさぼったし、聞いたうちの半分は睡眠学習だったが・・・。不思議なもので、講座が始まると睡魔が襲ってきて、テキストに顔ごと埋めていることが多かった。そして、講座の終わりになると決まって目が覚めた。
聞いていた中で、数Ⅰ担当でカツヤマステゾウ先生とおっしゃる方がいた。当時でたぶん70歳くらいだったのではないかと思うが、僕はこの先生が好きだった。それは解りやすいからではなくて、ただただ熱い30分だったからだ。どうしてだろうか不思議と勇気が湧いてくる熱い数Ⅰだった。
その先生が、12月の末その年の講座の最後の回にこんな歌を歌った。

げに我らこそ荒波を 渡る小舟に似たらずや
今宵つながん島もなく 漂うままにさまよえば
正しき道を進めよと みなれ竿とる友ごころ

歌謡曲などでも歌詞をちゃんと覚えることはほとんどできないのだが、この歌詞はどうしてかよく覚えている。
北海道の教育大学を受けたのだが、二次試験は現国・小論文・数学Ⅰが「すべての専攻共通」でこの3科目だった。教員になろうというのだから現国・小論文は理にかなうといえるだろうけれども、小学校の先生になりたい人も中学校の英語の先生になりたい人も美術の先生になりたい人も、幼稚園課程もあったから幼稚園の先生になりたい人も二次試験で「数学Ⅰ」を受けなければならなかった。受け入れる大学側も訳がわからないでいたのだと思う。
僕自身も高校では理系にいて国語科を志望したというのだから訳がわからないが、まあとにかくどさくさまぎれ、まさにそんな感じで大学にもぐり込んだ。

大学受験も終盤の季節なのだろう、ラジオでは受験生の悲喜が投稿されたのを流していた。そんなことを聞きながら大学受験ラジオ講座を思い出したのだろう。
手塚治虫の「火の鳥」では、ある男が永遠に死ぬことができないという刑を受ける。もし人が死なないとしたら、何かを勉強したり、夢に向かって何かをしたり、そんなことはおよそ意味がなくなってしまう。いつでもいいのだから。死なないのだから。
逆説的だけれども、死んでしまうからこそ何かをしようと思うのだ。
人は死んでしまうからこそ、今を生きる。
カツヤマステゾウ先生の熱い講座からは、数Ⅰよりもそんなことが伝わったのだろう。
相変わらず、とりとめがなくなった。



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卒業の頃に・・・(6)コレクトコール [学生の頃のこと]

僕はその日札幌に行かなかった。その面接に僕は行かなかった。もうこれで本当に教師になることはない、教師への道は終わりだなと腹を決めた。

採用試験にはB採用で合格し(その年は高校の国語の教諭に関してはそれなりの人数が採用になったようだった)、教育委員会からいついつ札幌に面接に来るように、という通知が届いた。当時の北海道の教員採用試験では、「合格(A)」「合格(B)」というふうに通知が来たと思う。(A)合格は来春からの採用が約束されるもので、(B)は一応合格ではあるけど都合によって採用したりしなかったり。
面接にこいというのは、採用するということを意味していた。その面接に行けば、赴任校が言い渡されて、それで受験者が了解すれば、その高校に来春からめでたく新任教諭として配属という段取りになっていた。

六畳一間のアパートで、面接の通知を何日も目の前にしていた。僕はまるで壊れたメトロノームだった。バランスを崩しながらああでもないこうでもないと揺れていた。踏ん切りをつけたはずなのに、割り切ったと思っていたのに、こうして実際合格通知が届き、面接の連絡が来て、ここまできても、このまま教師として働いてゆくということに、カメラマンにはならないということに、迷っていた。
「すっきりしない気持ち」そんな言い方がぴったりだったかもしれない。こんなすっきりしない気持ちのまま教壇に立っていいのかという、心の奥の片隅での誰かの小さなささやき。
こんなすっきりしない気持ちで、どこかにカメラマンに・・・、そんな気持ちで教壇に立ってはいけない。
そして、壊れたメトロノームは止まって、高校教諭という選択肢の上には黒のマジックで線が引かれて消された。
札幌は、来なくていいといわれたり、来いといわれて行かなかったり。

カメラマンになってから知り合ったライターの女性の話しなのだが、20代の頃に航空会社のスチュワーデス(当時はそういっていた)の試験を受けて、ものすごい高倍率のなか最終面接までいったのだそうだ。ところがなんと、こともあろうにその最終の役員面接に遅刻してしまった。面接室に一応通されて入ったら「飛行機はもう出たから」といわれて終わったのだそうだ。
世の中はそういうものだろう。大学生で世の中を全く知らなかった当時の僕でさえも、もうこれで本当に終わりだという覚悟だった。


それからしばらくたって、教育委員会から電話がきた。電話のない僕の所にではなく、山形の実家に電話がいった。それで、母から僕のいた由利アパートの大家さんに電話がきて、大家さんがそれを僕に伝言してくれて、それで、僕がコレクトコールで母に電話したというわけだった。携帯電話もメールもない昭和時代という昔のことだ。

城山十字路の電話ボックスの中で、母が教師になって欲しいと切々と語るのを、僕は受話器を握りしめて聞いていた。
田舎で生まれ育った母、お金には苦労しっぱなしだった母、息子に夢を託した母、僕を愛してくれた母。北海道で教師をして、いずれ山形に帰ってきて教師を続けて欲しいと望んでいた母。
そんな母の声を聞きながら、言葉を探すことさえもできずにいた。
母は最後にこういった。
「車でも何でも買ってけっがら、頼むがらせんせえなってけろ・・・」
僕は胸につかえるものを感じながら、いう言葉などなんにもなかった。

ちょっとしてから、僕は
「んだが、わがった・・・」
といった。それ以上だと、何かがもたなかったからかもしれない。そして
「長ぐなっと電話代かがっから・・・」
といって電話を切った。受話器を戻しガチャンと受話器が下がると、10円玉が戻る軽い音がして、ガラス張りの小さなボックスの中が蛍光灯の緑色の光でにじんでしまった。
それもいいだろう、と思った。
別に車が欲しかったわけではない。母の言葉が哀しかったのだ。母の心が哀しかったのだ。
自分自身の覚悟などはどこへいったのか。杜子春が痩せ馬の姿になった母がむち打たれるのをみて、思わず「おっかさん」と叫んでしまう・・・、杜子春ほどの覚悟などは毛頭なかったとはいえ、それでも母の心に触れることにかわりはないのだろう。
釧路の真冬の寒い夜だった。
涙がそのまま凍りそうなほどに寒い夜だった。


僕がクルーとして乗り込む予定の飛行機は、一度だけだが僕を待つことになった。次の春にそれに乗り込んでネクタイ姿で乗務することになった。




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このことを書いてからH.Wife氏と話をした際、氏はコレクトコールを知らないということだった。簡単に説明すると、こちらから専用の番号にかけると、係が先方の了解を得て回線をつなぎ、料金は先方払いとなるシステム。公衆電話からなら、10円(100円でも)を入れて、それがそのまま戻ってくるということになる。今現在まだあるのかどうか知らない。

この頃のことを思い出しながらこうして書いてみると、ほんとにまあ、右に左にあきれるほどに揺れていた。僕は船にはからっきしだめだが、船酔いを思い出しそうなほどに、揺れていた。書いてみて我ながら少しうんざりしてしまった。教師になってからも揺れるのだが、この話はこれでいったん終わりにしよう。揺れすぎて僕自身少し具合が悪くなった。

どうしてこんなにも教師という仕事とカメラマンという仕事を選択することに悩んでいたのだろうかと思う。両方体験してみると、笑ってしまうほどいろんなことが全く違う。しかし、その違う「どちらかを選択」ということで揺れていたわけではなかったろうと思う。アドラー心理学的に考えれば、そうして「揺れていること自体」に目的があったともいえるわけで、そこに潜んでいた僕の目的はなんだったんだろうか。なんのために、大学の4年間もずっと揺れ続けていたのだろうか。青春のある時期を鬱々とした生活と引き換えてまで、いったい僕は何を手に入れたかったのだろうか。
一回一回のその揺れが何か大切なメッセージをもっていたし、何か特別なチャンスだったのだろうとは思うが、その意味はわからない。僕は不器用だから、あの時代にあんなふうに時間をかけて揺れなければ、自分自身の何か大切なものに出会うことなく過ごすことになったかも知れないとも思う。


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卒業の頃に・・・(5)「なんとかします」 [学生の頃のこと]

筆記試験は終わった。言わずもがな惨憺たるものだった。
次の日の面接。とにかく大きな声で。これだけを意識していた。小学校に入ったばかりの頃によくいわれそうなことだ。
面接でリラックスできて自分らしくなどいられる人はあまりいないのだろうが、準備不足の僕はなおのこと緊張していた。
前の人が出てきて、「次の人を呼んでくださいと言われたので」と僕に告げる。
会場は釧路市内の高校を借りて、その教室のひとつでおこなわれていた。
深呼吸をひとつして、教室のドアをノックする。遠くでどうぞという声。
最初が肝心。ガラガラガラとドアを開け、
「失礼します!!!」
と大きな声で言って、深く一礼をした。

面接の間僕はずっと緊張していたし、よく覚えてはいない。ひとつだけ覚えていることがあって、面接官がこんな質問をした。
「生徒がトイレでたばこを吸っているのを見つけた。そのうえ、・・・・・というような状況だったら、どのように指導しますか」トイレでたばこ、ならよくありそうなことだ。「・・・・・」のもう一つの条件を忘れてしまったが、何かちょっとひねった条件だった。とにかくそれはちょっと頭をひねってしまうような条件だった。
しばらく僕は考えた。僕には難しすぎた。これという案は思いつかなかった。どうしようもなかった。汗ばんだ両の拳を膝の上に固く握ったまま僕は答えた。
「すいません、今の僕にはわかりません。でも、なんとかします。なんとかします。なんとかします。」
と、答えになっていないその答えを、僕は答えた。わからないものはわからないし、なんとかしなければならないのだから、なんとかする。その時の僕の正直な気持ちだった。

カメラマンをしていると、担当の人からこんなことを言われることがままある。
「今日予定していた・・・がだめになっちゃって。撮影どうにかなりますかね?」
「今日は生憎こんな天気になっちゃって、どうにかなりますかね?」
僕は、
「どうにかします」と。
担当の人は「どうにかしてください」といっていて、そして、どうにかするのが仕事なのだから。たとえば紀行もの(地方取材)の雑誌の仕事であれば、天気が悪いからといってそのページを空白にするわけにはいかない。どうにかしなければならない。取材の現場ではそんなことばかりだ。
学校でもそうだろうと思う。生徒全てが全く問題ないなどということはなく、いろんな生徒がいて、学業でも生活でも様々な問題が起きる、そして教師は「どうにかしなければならない」のだ。
教師として給料をもらうということは既得権益ではない。「やることはしっかりと公正にやってください。いろんなことがあるでしょうがどうにかしてください」そのかわりといってはなんだが、「生活の心配はしなくていいようにしましょう」というだけのあたりまえのことだ。学生の頃からそう思っていた。もちろん今もそう思っているが、フリーのカメラマンなどやって霞を食べたりなどしてくると、本当に心からそう思う。

話がそれてしまった。
会場になっている市内の高校の教室、その面接室を出ると、順番待ちをしていたTがまわりに遠慮した小さな声で
「なおとし、声、大きすぎなかったか。教室の外までびんびん響いてきたぞ」
と話しかけてきた。そうか大きかったか、と応えたが、そうかそんなに聞こえるほど大きい声だったか、それだったらよかった、と思った。
正直に答えること、大きな声で答えること、これくらいしかできないのだから。背伸びしたところで、面接官にはつま先もよく見えているだろうし。

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卒業の頃に・・・(4)哀しいキリギリス [学生の頃のこと]

大学受験では教師を志望して、国立大学の教育学部の中学校の国語科と決めて受験するところを探した。そして、この教育大学に入った。
母からは、経済的な理由から国立大学じゃないとだめだといわれてきた。ちょうど「共通一次」の一期にあたった。全ての国公立大学の学部学科がすっきりとした一覧表になって偏差値というもので現されはじめた(その前からそうだったのかも知れないが)。偏差値一覧表の「教育学部中学校課程国語科」というところにすべて赤鉛筆で下線を引いて模擬試験の偏差値とを照らし合わせると、北海道教育大学の函館分校と釧路分校(今は違うようだが、当時は「分校」と名前がついていた。大学なのに分校かよ、と思った。ちなみに本校はない)、それから琉球大学、この2校だけが引っかかる可能性があるところだった。浪人もだめだといわれていたから、選択肢はそれだけだった。
どちらにしたものかと思ったが、二次試験の科目を検討して北海道教育大学を選んだ。ちなみに二次試験の科目は現代国語・数学Ⅰ・小論文※。小中学校の先生になる為の資質として全員にわざわざ二次試験でまで数学Ⅰはどうかと思ったが、以上が小学校課程も含めて全教科共通だった。
国語科を受けようというのだから現国と小論文はまあよしとなければならない。数学Ⅰは潜水艦時代※の終盤、これはわりと好きになっていたので、これに関してはまあまあかなと思えた。高校では、あるまじきことか理系のクラスにいたが、それは関係ない。
北海道と沖縄、ヒグマに襲われるのがいいか、ハブに噛まれるのがいいか、などと当時は冗談で言ったりしたが、何十年か後には沖縄にも住むこととなった。幸いどちらとも対決することなく今まで過ごしてきた。ちなみに、今現在はサソリの出るところにいる。先日は小さいながらも突然目の前に現れてぞっとした。

話しがヒグマとかハブとかサソリとかになってしまったが、動物学者になろうというのではなかった。話を戻すと、僕はそうやって教育学部を調べたし、受験勉強だって教員になろうと、自分なりに頑張ってやったのだと思う。そうなのだ、あのころは国語の先生として教壇に立つことを思い描いて、そうしながら深夜に濃いコーヒーを流し込んで大学受験ラジオ講座を聴いたりしていたんだ。子どもたちとふれ合いながら子どもたちの夢を一緒に育んでゆく、それを一生の仕事にしようと思ってやってきた。そうした自分の未来を思い描いて教育学部をめざした。
教員だって僕が志望していた道だし、なにも問題ではなかった。むしろこれで踏ん切りが付いたではないか。カメラマンになりたいというのが51で教師が49、そんな割合でカメラマンを選択しようとしたのかも知れない。だったら、49の自分に切り替えたっていいではないか。もともと教師を志望してここまできたのだし。何も問題はない。何も・・・。

試験まであと3ヶ月くらいだったのだろうか。試験勉強をするには、まずは試験勉強用の問題集を手に入れなければと思い、ある晩地学が専門だったYのアパートに行った。この時期、人にもよるだろうが、たいがいの学生は何冊もの問題集をこなしているはずだった。そして僕は、Yのところに使い古しから勉強中のものまで何冊もずらっと並んでいるのを見て知っていた。
僕はYに勉強し終わった一般教養の問題集をくれないかと頼んだ。
クリスチャンのYはいつも穏やかだったが、それでも真剣に怒っているのがわかった。Yは言った。
「本気でやる気があるんならそれくらい自分で買えよ」
と。たしかにYのいうとおりだ。いくら貧乏学生をしていたといっても、買えないわけではなかった。
「その通りだな。わるかったよ」
本当にYの言うとおりだった。ばつが悪かったのですぐ帰ろうとしたが、Yは怒りながらも一冊くれた。一冊だけだと念を押した。いま、Yは北海道で小学校の先生をしている。学生当時は、「流氷飴」※のおみやげのことなど彼にはいろいろと失礼なことを言ったりしたりしてしまったが、試験問題集のこともその一つになる。いろいろごめんよ、Y。
こうして書きながら、甘えていたんだなと思う。Yにはもちろん、いろんなことに。
とにかく試験のための勉強を始めた。専門教科と教職教養と一般教養の3科目があったが、僕の作戦としては点数の上積みの可能性の高い教職教養、それからその次に期待できそうな一般教養とを中心に。専門教科も上積みの余地は非常にたくさんあったが、覚えなければならないこともまた多すぎた。
試験勉強といってもここ4年間も習慣のないやつのこと、能率は上がらないし、進まない。すぐに飽きがきてしまう。こうして実際に試験勉強を始めると、つけられてしまったこの大きな差が、何ともいえず重苦しくのしかかってきた。しかし、3ヶ月というこの限られた期間、とにかくやってみるしかなかった。ダメ元でもなんでも、とにかくやるだけやってみるしかなかった。それにしても、僕は啼くことさえ忘れた哀しいキリギリスだった。









※ちなみに、実際に入試に出た小論文のテーマは「旅と人間形成について」というものだった。
※「幸せなずる休み」参照
https://blog.so-net.ne.jp/MyPage/blog/article/edit/input?id=30139643
※ある夏休み明け、網走出身のYが帰省から戻ったときに、「流氷飴」をお土産に買ってきてくれた。
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卒業の頃に・・・(3)道新スポーツ [学生の頃のこと]

そんなことがあってからしばらくして、北海道新聞社が「道新スポーツ」という「家庭で読めるスポーツ新聞」を新刊するのでスタッフ募集、という募集広告を見つけた。これには、営業や記者そしてカメラマンも含めて様々な職種の募集があった。僕はそれを見た瞬間「これぞオレに与えられた仕事だ」と思った。正確に言えば、・・・と勘違いした。踊る胸の内、妄想ふくらむ頭の中では、「藁」は板きれどころかエンジンの付いた救助艇になって、僕の方へ向かってきたのだ。来るべくして今僕の為に救助艇は向かって来るのだった。
入社志望動機を原稿用紙2枚に書いて提出しなければならなかったから、推敲しては同級生の女の子に読んでもらい、そしてまた推敲して推敲して原稿用紙にまとめ、それから、初めて書いた履歴書、それらを封筒に入れ書留で札幌の本社のしかじかのところへ郵送した。
あとになって思えば、新聞社としては「即戦力」が欲しかったわけで、大学生の僕なんかは論外で全くお呼びではなかった。しかし、勘違いも甚だしいというか、藁にすがる気持ちというか、世の中を知らないというのは恐ろしいというか。そして、ずうずうしいことには、本気で「オレが」採用されるつもりでいた。

「道新スポーツ」の面接試験は札幌でおこなわれることになっていて、それに行く何日か前には、札幌に行くためのものをと、釧路の駅前の大通りまで買い物にいった。といっても、結局は普段履くことのない黒い靴下を新調しただけだった。
特急「おおぞら」に乗って久しぶりに札幌に行くと思うと、緊張と共に何かしらみなぎるものがあった。
そんな思いでアパートに帰ると、北海道新聞社から封書が届いていた。要はこうだ、書類選考で不採用です。※
新品の黒い靴下を目の前にして力が抜けた。「カメラマンとしての僕」「カメラマンへの道」を「足きり」されたという行き場のない思い。そして、全身から気力が抜けていった。夢はただの夢でしかなかったんだというむなしさ。新品の黒い靴下が一足、夢が消えていったその事実として目の前に残っていた。

全身からすーっと気が抜けてゆきながら、その傍ら、自分のどこかでこんな言葉がよぎった「教員にしかなれないのかな」と。こうして時間が経った今でも、このことを思い出して書いていると、そう思った大学生の自分に対していやな感じがしてくる。小生意気で不愉快な若造をみるような、そんな感じの。しかし、その時は確かにそう思った。田舎の教育学部、北海道庁や、市役所に勤めた先輩はいたものの、ほとんどが教員になっていったのを見ていたからでもあったろうし、民間企業からの就職の募集など皆無に等しいのを知っていたし。










※確かに札幌に行くほんの数日前にその通知は来た。面接に関してどのようなことになっていたのか、どういういきさつだったのか思い出せない。採用の募集から面接まで日程の余裕がなかったように思うので、先方としても手続きに余裕がなくぎりぎりになったのかも知れない。

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卒業の頃に・・・(2)じゃあ、おれも [学生の頃のこと]

大学4年になった春、教育学部にはいたものの、僕は教員にはならないと決めていた。結果的にはそう断定的にも言えないかも知れないが、そのつもりでいたことは間違いない。
だからといって、どうしたらいいものかは、相変わらず模索中だった。今頃になってまで模索などと言っている場合じゃなかったが、しかし、どうしたらフリーのカメラマンになれるのかというのが全くわからないまま、実際模索中だった。与作なら木を切るという明確な仕事があったが、モサクは始末が悪かった。思い返せば、大学の4年間は結局たとえばそんな模索というような言葉でくくられるような時間をずっと過ごしたことになるのだろう。

春先、教員採用試験の出願の時期だった。みんなはどこの県とどこの県を受ける、というような話しになっていた。北海道以外から来ている学生は、北海道と地元の県と、人によっては地元の近県も受けたりしていたようだ。僕は我が道を行くというよりも、模索といえばまだ少しは聞こえはいいが、危機意識もなく過ごしていた。

僕がいた頃は、北海道の採用試験は教員を志望していれば出身が北海道の内外をとわず、必ずと言っていいほど受験していたので、一番大きな講義室を使って、進路指導を担当している大学の事務員が受験者全員まとめてガイダンスをしていた。
その時間どうやってヒマをつぶそうかと思っていると、同級生がつぎつぎと研究室からいなくなってゆき、授業ならだれかしらがどこかでヒマにしていそうなものだが、どこにも誰もいなくなってゆく様相。ちょっと寂しいので、僕も講義室に冷やかしに行って、友達見つけて隣でべちゃべちゃ冷やかしていようと思った。30年前のことになるが、それでも今こうして書いていて、若かったとはいえ不謹慎だったと思う。しかし、その時はそうだった。冷やかし、暇つぶし、言葉を探してみても、結局はそんな言葉になってしまう。

係の事務員は事務的に人数分の受験書類を配って歩く。
3人掛けの机に、同じ研究室のMとTと僕がたまたま並んで座った。マイクを持った事務員の説明を聞きながら、ふたりとも配られた用紙に真剣に書き込みをはじめる。真剣に。MとTは、そして全員が自分の人生の新たなステップへのための大切な作業をしている。僕以外は。出るわけにもへらへらしているわけにもいかず、一緒に同じようにしていないと体裁が悪すぎた。

出願用紙には受験する学校の種類(小・中・高校)を選択する欄があった。
岐阜出身のTが北海道出身のMに何で受験するか聞いた。
「おれは高校で受ける」
といった。Tはちょっと考えた様子で、
「おれもそうしようかな・・・」
とボールペンを握りながら言った。Tも決めてはいたのだろう。
で、僕は
「じゃあ、おれも」
その時は、本当に受験するつもりはなかった。小学校の免許は取らなかったからさすがに記入できないものの、中学校でも高校でもよかった。事務員が機械的に用紙を配って回収するというのに乗って、願書を出しただけだった。ただだし。どっちみち受験しないし。それはそれでもう終わりだと思ってやったことだった。
教室を出るときにはべたっとする汗をかいていた。居心地の悪い時間を過ごしなと思う。そして、何かいやな感じを引きずりながらそこを出た。

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卒業の頃に・・・(1)プロローグのような [学生の頃のこと]

大学4年の頃のこと、それから高校の教諭になって、そして辞めたあたりのことを書こうと思う。あの頃のことを納得していないわけではない。しかし、すっきりしているとも言えない時間だった。さまざまな思いが消しきれないまだらなシミになって残っていて、何かの折りに顔を近づけてよく見るとその時の感情そのままが甦ってしまうが、それでもこうして書こうと思うのは、この時間も僕なりに悩んだし、大風呂敷で肯定的にいえば、自分の人生を僕なりに一生懸命に考えた時間でもあったから。

S原さん※にはサッカーに夢中になっている中学生の男の子がいるが、あるときS原さんはこんなことを僕に言った。
「この子にどうなって欲しいとか、何になって欲しいということは全くないけれども、ただ、「自分の人生」を生きて欲しいと思う」
と。S原さんの言っていた「自分の人生」ということを僕は正確に理解しているのかどうかわからないが、ある人は、いとも易々と当たり前のこととして「自分の人生」を生きるのだろう。またある人は、求めても探してもこれでもないこれでもないと、時間を費やしてしまうのだろう。

詳しくは知らないが、アメリカの心理学者が年老いた人たちに、こんなことをアンケートしたそうだ。※
「人生を振り返って、後悔していることはなんですか?」
人生の収穫時期をも過ぎ、冬を迎えようとしている人たち、その人たちの回答の「9割が同じパターン」だったそうだ。
それは、「しようと思ってしなかったこと」を後悔していると。
アメリカのことだから、直訳としてはたぶん「チャレンジしなかったこと」というのではないかと想像するが、ともかく
この結果には大きなヒントがあるように思えた。つまり、逆に考えれば、自分がこうしたいと思ったことをやったら、かなりの高い確率で後悔しないといえるということ。
二十歳の頃にそんなことを知っていたら、もうちょっとすっきりと過ごせたかも知れないが、このことを知ったのは四十も過ぎてからだった。

今の大学生は就職を考えるにあたって自己分析をするらしい。自分探しの旅をしたりもすると聞く。
「ジョハリの4つの窓」※という気づきのグラフモデルというのがあって、人はそれぞれ4つの側面を持っていて、それは、<1>自分も他人も知っている自分、<2>自分が知っていて他人が知らない自分、<3>自分が知らなくて他人が知っている自分、<4>自分も他人も知らない自分、があるという。
「自分も他人も知らない自分」のところを「未知の窓」というのだそうだが、その自分さえも知らないそのジブンもまた自分であり、そのジブンもまた感情や夢やそんなものを持っているかも知れない。自己分析をしたり他人からフィードバックをもらったりして未知の窓を覗くことになるかも知れない。それでも見ることができるのはほんの少しなのだろうと思う。
その覗ききれないところに、たとえば「しつこく心をよぎるなにか」とか、「何かわからないけど気になる」と思うようなこととかがあって、それは芽生えてさえいない何かの種がある印ではないだろうか。そして、自己分析に偏ったときに、つまり分析してわかったことだけに重きを置いたときに、その種はその陰の中で芽を出すどころか、存在が忘れ去られて終わってしまうかもしれない。素敵な花を咲かせたかもしれないその種が。
もっと自分の何かを信じてもいいのではないだろうか。自分の心の声を聴くとかいうけれども、その声はただの「あー」とか「おー」とかいう音でしかなかったりするかもしれない。それでも聞いて欲しくて力の限り声を出す。
そんなただのうなり声にしか聞こえないような自分の声のそばに座って、そして丁寧に耳を傾ける。「自分の人生」ということのヒントを伝えてくれるかも知れない。
僕は自分探しの旅などしたことはないように思うが、胸がかきむしられるような何ともいえない煩悶を繰り返しながら、ある時間を過ごしたことはあった。そんな意識で過ごした時間の中には、何かヒントがあったかも知れないと思う。

「自分らしく生きたい」とか「納得ゆく人生を送りたい」とか「幸せになりたい」とか、最近でこそあまり考えないようになったが、よく考えていた頃もあった。もし今納得がいかない人生を過ごしているのであれば、何かを変えなければ納得ゆくようにはならない。何かスイッチを入れ替え、行動を変えなければ納得ゆくようにはならない。当たり前のことだ。「自分らしく生きる生き方」「幸せになる方法」そんなものは決して本には書いてないし、誰かに教えてもらうわけにはいかない。ヒントは自分自身の内側や、あるいは自分が出会う中にあって、自分で見つけるしかないのだろう。ヒントを読みそれを積み上げる。そうしたときに腑に落ちるような何かに出会うかもしれない。

僕は今ちょうど50歳で、8月には51歳になる。今までを振り返り、新たに歩んでゆくには、僕にとってはちょうどいい歳だと思う。道のはじに腰を下ろし、少しぬるくなってしまった水筒の水を飲み、そして今まで歩いてきた道を振り返ってみる。50年かけてこれだけかと、苦笑するのだろう。それでいい。なんと愛しいわずかな道のり。迷ったり立ち止まったり、途方に暮れたり。そんなことが多かった。
過去をやり直すことはできない。でも、立ち止まって見つめ直して新しい礎にするには、僕にとってはちょうどいいところに来たように思える。
いままで歩んできた道を心の中でトレースし、そして味わい、少し長めの途中休憩をしようと思う。










※Aスタジオでお世話になったS原さんとは別の方。
※聞き覚えであり、出典等はわからないし、不正確かも知れない。
※ネットで調べれば詳しくわかりやすい解説がたくさんある。
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ベルマーク委員会 [学生の頃のこと]

僕がいた中学校には「ベルマーク委員会」というのがあった。風紀委員会とか図書委員会とか、そうした委員会と同じように。
毎週火曜日が集計の日で、この日の放課後は細長い畳の部屋で遅くまで集計作業をしなければならなかった。あの小さいベルマークを何点何点と数えるのは大変な作業だった。伝統的にというか、ベルマークの収集に関してはとっても頑張っている学校で、全国で2位だったりもした。
3年生の時、僕は生徒会長をしていた。
生徒会担当のO先生のいうには、ベルマークは学校の備品のためのものであって、生徒会の委員会にはなじまないと。そんなことをいっていたと思う。それで、僕が生徒会長をしていたときの総会で、ベルマーク委員会を廃止ということにしてはどうか、とO先生に言われ、それを僕はよしとした。
そして、ベルマーク委員会はなくなった。
僕は、本当の本当はベルマークって大事だなと思っていたし、ベルマーク委員会も大事だと思っていた。それがない学校から見たらとっても変な委員会だし、理屈としてはO先生の言うとおりだったかもしれないけれど、でも熱くなって集計する様子やら、お昼の時にクラス順位が放送されて一喜一憂したり、クラスによってはしなかったり。なんだろう、よくわからないけど好きだったし大事だった。
思い返せば、そのころ僕は斜に構えて生きていたし、上からのことをよしとして受け入れ、自分の考えとか思いとか、そんなことを大事にしようとは思っていなかった。強いものには逆らってもばからしいとか、長いものには巻かれたらいいんじゃないとか、今の僕から見たら本当にいやらしい中学生だった。
僕はベルマーク委員会が好きだった。無くしたくはなかった。その善し悪しはあるからいづれ無くなるかも知れなかったけれども、でも、本当は僕はベルマーク委員会を無くしたくはなかった。そのままあって欲しかった。でもそのときはそんな自分の心に触れようともしなかった、見ようとはしなかった。

いまでもマヨネーズの袋やカレーの箱のベルマークが目に入ってしまうと、体のどこかがキュッと詰まって苦しくなり、すまないような身の置き場の無いような気持ちになる。なんと勇気がなかったことかと思う。
10代の後半は思い残すことの多い時代だというが、15歳の頃のことを今もこうして引きずっている。


抱いた夢がひとつなら・・・ [学生の頃のこと]

教師をしていた年の冬、近くのSという町で同じく高校の教師をしていた
岡本のところに遊びに行った。岡本は大学の同じ研究室の同級生。
たぶん冬休み中だったと思うが、ぼたっとした雪がとぎれることなく降り続く日だった。
安いウイスキーを片手に小さなストーブにあたりながら、
「おれ、学校辞めるんだ・・・」というようなことを話した。
東京に出て、下積みから始めてカメラマンになろうと決心していた。
岡本は多くを話すこともなく、そうか、と聞いてくれていた。
彼はジャズが好きで、ジャズ以外にもたくさんのレコードを持っていて、
その中から選んで何枚も回転させてはレコード針をのせてくれた。
僕はそのうちの一枚をダビングしてほしいと頼んだ。

♪♪  流れ流れて青春は
   夢を支えに生きるもの
   抱いた夢がひとつなら
   転んでなくした夢ひとつ
   ああ、青春流れ者  ♪♪

海援隊の「廻り舞台篇」というアルバムの中のタイトルの知らない曲の一節。
抱いた夢がひとつなら
転んでなくした夢ひとつ、か。
当時乗っていた車を転がして北海道のKという町から田舎の山形まで向かった。
雪道を走りながら、岡本がくれたテープをオートリバースでかけっぱなしだった。
僕はずっと泣いていた。
もう戻れないんだな、もう帰れないんだな。そう思うと寂しく孤独でただ涙があふれてきた。
これからのことを考えると、ただただ不安に襲われて、そして涙があふれた。
22歳だった。

そのテープが出てきた。ひょっとしたらもう聞くことはないかもしれないが、
大切にしまっておこうと思う。

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確かな予感、あるいは何かとつながった体験 [学生の頃のこと]

大学生の頃、将来の仕事についていろいろ思いめぐらせていたことがあった。
小学生の頃から写真を撮ることが好きだったから、カメラマンになりたいというのと、教員(大学は教育学部の国語科にいた)というのが、主ではあったが、それに限らず。
「僕は何になりたいんだろう」「僕はどんな役立ち方ができるんだろうか」「僕はどんな一生を送りたいんだろうか」「僕は・・・」「僕は・・・」勉強せずにいろいろな切り口でずっとそんなことを考えていた。ずっと考えていた。ずっと、ずっと頭の中でぐるぐるしていた。自分でもいやになるくらいぐるぐるしていた。
ある晩、布団にはいって眠ろうとしていた。そんなまどろんでいたころ。
ふっと、それは僕の感じとしては「上からおりてくるように」としか表現できないのだけれど、「あっ、俺は写真を撮ってゆくんだな」と予感があった。確かな予感、と僕は呼んでいる。いま思えば何かとつながった体験だったともいえるかと思う。

紆余曲折があって、大学を卒業して高校の教員になった。
それでも写真を仕事にしたいという気持ちがあった。そして、そんな気持ちで教壇に立っていることがとても辛かった。
そんなある時、ふとこんなふうなことを想像した。
自分が年老いて孫をだっこしながら、おじいちゃんの昔話を孫に話すような風景。
「おじいちゃんは昔は学校の先生をしてたんだけど、カメラマンになりたくて先生を辞めて東京に出たんだけど、それから苦労してね・・・」
「おじいちゃんは学校の先生をしてきてね、でも、本当はカメラマンになりたいと思ったけど・・・」
したかったけど「やらなかった」ことを僕は笑って話せない、自分の人生を笑って話せないのはいやだ、と思った。自分の人生を振り返って笑って話せないのは。うまくいったとかいかなかったとか、そんなことよりも自分が本当はこうしたい、ということをやってみることが僕にとっては大切なことなのだ、と思った。(実際、教員をやめてから苦労のしっぱなし!(笑))
人は、X軸には一生という時間が書き込まれていて、そしてY軸には好きなように書き込んでいいようになっていると思う。そして、それぞれ書き込みたいものを書き込んだらいいと思う。大げさに言えばそれはその人の人生の意味、あるいは価値、といえるかもしれない。(ただ、あとで文句を言わないように。書き込んだのは自分だから)
大学生の頃に、そんなことをぐるぐる考えたわけさ。
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