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『アサヒカメラ』に載った最初の写真 [カメラマンになる周辺など]



この写真は『アサヒカメラ』の「中高校生のひろば」みたいなコーナーに載ったもの。見てみると興譲館高校となっているが、投稿したのが高校生の時で、実際に撮ったのは中学2年のとき。棒を持っている先生は中学2年生のときの担任で数学のY田先生。(愛のある先生だったな〜)転任になったので中2の時でまちがいないと思うが、ひょっとしたら1年の時かもしれない。(どっちでもまああまり変わらない)
今なら体罰だとかなんだとか問題になってしまうが、こんなことではそんなことを誰も考えなかった。(少なくともこのときはそうだったろうと思う)
この写真以前に、新聞に写真が使われたことがあった。夜の10時ころだったろうか、家のすぐ前で交通事故があり、その音でカメラを持って飛び出したのだった。ストロボをたきながらいろんな角度でバシャバシャと撮っていると、そこに地方新聞の記者が遅れてきた。その記者にフィルムを貸してもらいたいというようなことを言われ、渡したのだと思う。後日、彼が現像したそのフィルムを返してもらい、使用料として3000円もらったように思う。やはり高校生のことだった。
話しがそれたが、この写真がカメラ雑誌に載った初めての写真。
学校の帰りに、デパートに入っている書店でアサヒカメラのこの号を立ち読みし、パラパラとめくりながら自分が撮った写真に出会ったときは突然のことで驚き、そして嬉しかった。
写真を大きくして見ると、学級目標らしきものに「協力しよう」とあったりとか、赤線で囲んだ写真の評とかが何となく読めておかしい。
アサヒペンタックスSP、レンズは50ミリf1.8で撮影。(55ミリだったかな、忘れた)
ちなみに、高校時代のその後にとある写真コンクールで入賞してニコンのFMというカメラをもらった。それからはニコン派になっていった。今は派閥に属していない。



IMG_8957 のコピー.jpg

カメラの歴史、ったって個人的な(3) [カメラマンになる周辺など]

コンパクトカメラもいくつか使ってきた。
水中で使えるニコンのカリブというカメラを買った。そこそこごつい感じで好き嫌いがひとによってあるかもしれない。
水中では使ったことがあるかないかくらいなのだが、アジアの「みずかけ祭り」みたいなところで気楽に泥まみれになることができる。もっとも、いまでは土地の人もカメラには気を遣って、カメラを持っているとわかると、水をかけたりはしないようにしてくれた。そうやって使った後に水洗いできるのもまたよかった。残念なことに、裏蓋を開閉するつまみが壊れ、部品がないということで修理不能になったままお蔵入りになってしまっている。
リコーのGR1というカメラは高かっただけあって優れものだった。ちょっとした仕事でも充分な画質だったし、大きさもよかった。男性用のシャツの胸ポケットにちょうど入る大きさだった。首からストラップをつけて胸ポケットに入れておくと、どうしてもさっと撮りたいときにセカンドカメラとして使ったり、海外の撮影だと、たとえば仕事が終わって晩ご飯に行くときに、一眼レフを持って行くのはおっくうだが、何かしらカメラを持って行きたいときに活躍した。
ニコンの28Tiというコンパクトカメラも買ったが、これはあまり使われなかった。これも高価なコンパクトカメラであったが、性に合わないところがあったのだろう。使ってみないとわからない。
オリンパスの手頃なコンパクトカメラも使ったことがあった。(名前は覚えていない)ごくごく普通のコンパクトカメラだったので、ごくごく普通に使ったのだった。何も問題はなかったが、山奥に住んでいるSさんの所に行ったとき、そこの家にはカメラがないことがわかって、置いてきた。
僕が手にしたコンパクトカメラで、ダントツに好きなのが、ローライ35(Rollei35)だ。とにかく小さくてかわいい。レンズもカールツァイスの流れを汲んだものでローライのライセンス生産のテッサー(Tessar)。と書きながらも、使ってみて「やっぱりテッサーはいい味してるな」などと違いは僕にはわからない。
露出計がついているが、絞りもシャッタースピードもピントもマニュアル。ピントは距離のメモリが書いてあるだけで、カンで合わせる。こういう作業を不便だと感じる人には向かない。こういう作業を自由だと思える人に向く。
首にぶら下げて新宿をあるいていたときに、女性に「かわいいカメラ!!」といわれたことがあった。僕がかわいいわけではない。
銀塩の時代が続いていたら、散歩にはこれを持って出かけたい。持っていることが楽しいカメラはいい。

思い出せるものをつらつらと書いてみた。デジタルカメラももちろん持っているが、ここには書かない。


これを書いている今、台風19号が来ている。中心部は朝方通り過ぎたが、なんせのんびりとしたヤツでしかもでっかいときているからやっかいだ。一昨日の夕方から雨戸は閉めっぱなし。庭を覗くとなんだかスッキリしてしまったような感じ。隣家との隙間を灰色の風が吠えながら直線の束になって飛んで行く。

カメラの歴史、ったって個人的な(2) [カメラマンになる周辺など]

大学に入ってFMの後継機になるFM2を買った。このカメラも僕にはしっくりくるものではあったが、強いてどちらかといえばFMのほうが性に合う。それを書いて説明しようとするとするとなかなか大変なので、ここでは省略したい。
レンズは28ミリ、105ミリ、300ミリ、などと買い足していった。
次には、マミヤのユニバーサルプレスという6×9判のカメラを、奨学金がまとめてでたときに買った。これは究極のマニュアルカメラというか、きわめて原始的なカメラだった。
この原始的なところに功罪があって、罪は安全機能がないのでとにかくミスが多かった。引きブタをしたままシャッターを押す、引きブタを抜いたままフィルムバックを外してしまう、意図しない多重露光をしてしまう、などなど。
多重露光が簡単にできるというのは、これはこれで便利なところがあって、友人のYにデータを作ってもらって、皆既月食の連続写真を撮った。月は満月と三日月とでは明るさがとても違っていて、何時何分に皆既月食なので、その前の何時何分にはどのくらいの露出、つぎには何時何分にどのくらいの露出、というふうにデータを作ってもらったのだった。僕は教育学部の国語科にいたが、Yは理科にいた。理科はやっぱり頭が違う。真冬の暗い公園に行ってガチガチになった雪に三脚をさして撮影したのが懐かしい。
大学時代に、FM2をもう一台買った。

カメラマンとして独立したとき、このFMとFM2が2台の、都合3台だった。仕事が回転しないうちはどうしようもなかったが、ギャラをもらうようになると、すぐにこれではいけないと、当時のニコンの最高級機だったF3Pを2台買った。一般にはF3として出回っていたが、「P」がつく分ちょっとだけ違っていた。ちなみに、この「P」は、きっとプロフェッショナルのPか、プレスのPだと思うのだが、いまだに正確なところは知らない。
いずれにしても、このF3Pは、僕の写真生活において、一番お世話になったカメラだ。本当にいいカメラだと思う。なかなか壊れないし。それに何よりも視野率100パーセントというのが、仕事上では必要だった。
これは、完全なマニュアル機というわけではなく、電池が切れると不便するものではあったが、まあ、モータードライブから電池を融通するので切らしたことはない。しかし、どういうことがあるかわからないので、同じ形をした完全なマニュアル機(たとえばF3Mechanicalのような名前で)を作ってもらったら、プロでニコンを使っていれば必ず買っただろう。特に海外などへの長い撮影旅行には持って行きたい。
話がそれたが、仕事をし始めてからはレンズを買い足していった。14ミリ、20ミリ、24ミリ、28ミリ、35ミリ、50ミリ、55ミリマクロ、85ミリ、105ミリマクロ、180ミリ、200ミリマクロ、300ミリ、300ミリ(f2.8)、500ミリ。忘れているのもあるかもしれない。
ちなみに、もし旅行に1本だけというなら、20ミリ(f2.8)を持って行きたいと思う。
仕事用にマミヤRZという中判(6×7)のカメラも買った。RZは大きくて重くて、仕事以外では使ったことがない。
次に、その頃に買ったコンパクトカメラのことも書きたいと思う。



カメラの歴史、ったって個人的な(1) [カメラマンになる周辺など]

ひとがどんなカメラを使ってきたかなど、興味がないだろうが、自分自身のメモとして書きたい。
小学2年生頃になると思うが、おもちゃのようなカメラを自分のお小遣いで買った。これは、8ミリ幅(たぶん)のロールフィルムを入れて実際撮ることができた。シャッターは簡単なバネ式、絞りはなく(たぶん、F16とか、22くらいだったのだろう)、ピントはもちろん固定。どちらかというと針穴写真に近い。
このフィルムの現像はカメラ屋も困ったようだったが、やってくれた。友だちのKの輪郭が映っていたのを覚えている。
8ミリのロールフィルムは、カメラを買ったプラモデル屋(模型材料店)に、カメラと一緒に商品になっていたのだが、その店もよくそんなものを置いておいたものだと思う。後にも先にもその時しかそのフィルムは見ていない。
1,2年経ち、そのころうちにはカメラがなかったので、うちでコンパクトカメラを買った。当時はヤシカが頑張っているような時代で、「明るくても、暗くても。ヤシカC−35」などというコピーがテレビから流れていた。うちで買ったのがそれかどうかは覚えていないが、ヤシカのカメラだった。小学4年頃だったように思う。カメラらしいカメラは初めてだったから、喜んで使った。そのカメラを持って自転車で出かけたりした。しかし、物足りなさを感じるには時間がかからなかった。
小学5年頃、母に月賦で一眼レフのカメラを買ってもらった。アサヒペンタックスSP。
http://ningen-isan2.blog.so-net.ne.jp/2011-05-21
このときのことは、ここに書いている。
当時、アサヒペンタックスSPはよく売れたカメラだった。レンズが「スクリューマウント」といって、なんのことはないただのねじ回し式のマウントだというような欠点(というか、時代遅れなところ)はあったが、いいカメラだった。
お小遣いを貯めては28ミリとか105ミリを買っていった。
小学校の高学年から高校にかけていろんなものを撮った。朝一の電車に乗ってうちよりさらに田舎にいって軒下に干してある干し柿を撮ったり、高校の文化祭でピンクレディーの「UFO」を踊る同級生の女の子を撮ったり、飼っている猫を撮ったり。
そんなものしか撮らなかったが、それでも僕を自由にさせてくれるには充分な道具だった。
この頃から一眼レフ(フィルム)の時代だった。僕自身は一眼レフ(フィルム)の時代に生まれ合わせたことを感謝している。
高校生の時に写真のコンテストに入賞してニコンの「FM」というカメラを賞品にもらった。このカメラは、SPもそうではあったが、このニコンFMも完全なマニュアルカメラで(露出計等は電池がないと動かないが、写真を撮る働きとしては電池がなくとも機械的に動くという意味)性に合っていたし、手になじんだ。
カメラマンをしていると、時折「こうこうこいうように使いたいのだけれど、どのカメラがいいか」と聞かれたりする。じつは、カメラというのはカタログに載っているスペックでははかれないものがあって、それは、手になじむか、何となくしっくりくるか、デザインも含めて持っていて気持ちがいいか、といったようなこと。カメラは身体の延長線上にある。その延長線上のカメラは、カメラとしての性能は大事ではあるけれども、それ同様に、「それは私の延長線上のもの(道具)だ」といえるか、というのは重要なことだ。SPもそうだったが、FMも自分の延長線上のものだった。
システムとしてはSPには未来がないのはわかっていて、いずれは違うものにしなければならないのはわかっていた。互換性のない他社になかなか踏ん切りがつかなかったが、これを機会にニコンになってゆくことになる。






あれから50年後のヒロシマに僕はいた [カメラマンになる周辺など]

今日は、あれから69年たった。
僕は、あれからちょうど50年後の時に、仕事でヒロシマにいた。
暑い一日だった。
式典が始まる前から、一日の酷暑を思わせる暑さだった。
式典、原爆ドーム、路面電車などのヒロシマの風景、それから被爆者の取材、
などが詰まっていて、最後の撮影は、
川面を哀しげに流れゆくたくさんの灯籠だった。
一日が終わったときには、身体は吹き出ては乾き、乾いては吹き出た汗で
べとべとだった。
僕は、この日ヒロシマにいるということを、
なにかとても大切な、かけがえのない体験のように思えた。
だからどうだということではないけれど、
今でも、そう思う。

今日はひどい雨だった。


Aスタジオ顛末記11〜これぞ職人というもの〜 [カメラマンになる周辺など]

いずれはK多さんのことも書きたいと思っていた。
しかし、書きにくいなあとずっと思っていた。どうして書きにくいのかというと、毎日淡々と職人技をこなしてゆくから、なにがどう凄いと説明するのが難しいのだ。たとえば同じように職人技のN澤さんなら、夕陽での撮影でポラを切ったら露出が大はずれで「何やってんだ!ばかやろー!!」とポラホルダーを砂地にたたきつけながら怒鳴られたり、というようなことがあったりするのだが。K多さんもそんなふうに感情が激することもあるだろうとは思うが、K多さんは奥歯をぐっとかみしめる人なのだ。

Aスタジオにロケアシスタントを依頼するのは、たいがいはスタジオのOBで、K多さんもその一人なのだが、同じスタジオマンが行った方がカメラマンにしてもスタジオマンにしても都合がいいので、自然と「担当」のようになって、同じカメラマンの所に行くことになる。
僕は、K多さんのところに長くロケアシスタントとしてお世話になった。ロケアシスタントというと屋外にゆくイメージだが、ほとんどはK多さんのスタジオでの撮影だった。
僕が世話になっていた頃、K多さんのスタジオは赤坂にあって、六本木の大きなホテルのあたりから赤坂に抜ける細い通りをちょっと入った所にあった。朝、住み込んでいた麻布のあたりから芋洗い坂を登ってそこまで行って、夜は六本木のネオンの中をへとへとになった身体を引きずって帰ってゆく。
事務所兼スタジオの玄関には「K多写真事務所」とシールをはった看板があったが、いつからだろうかその看板の「事」が落ちていて、「ムショ」になっていた。Aスタジオとはいいながら、住み込んでいたのは「タコ部屋」だったから、タコ部屋からムショ通いをしていたということになる。
あほな話はさておき、
K多さんは商品などの「物」を専門に撮っていた。いわゆる「物撮り」を専門にしていた。
K多さんのスタジオでは、深夜・朝方までの撮影になることもよくあった。

リンゴ(アップル)が表紙に写っているわりと売れているマップがあるが、あのリンゴもK多さんが撮っていたことがあった。
デコラ板の上にリンゴを1個のせて、カメラ位置からリンゴを凝視するK多さん。この向きはどうか、この角度はどうかと長いこと見つめ続ける。そのあと、僕はテントレ※の上から当てたストロボを前に動かしたり後ろに動かしたり、光量を上げたり下げたりする。これでどうかというところで、K多さんは4×5のポラロイドをきる。ポラを切っては明るい蛍光灯の下でチェックする。ときどき「これはどう思う?」などと聞かれるが、僕にはよくわからない。
そのうち壁にびっしりとリンゴのポラロイドが貼られ、早く撮らないとリンゴがしわしわになっちゃう、などと思っている僕とは違い、それでも納得がいくまでリンゴに向き合っているのだった。そもそもK多さんは、リンゴがしわしわにならないようにエアコンを効かせて、ちょっとした冷蔵庫状態にしていたのだった。先の先までいろんなことを考えているのだ。
K多さんの仕事は一見地味だったが、万事がそんなふうに慎重で、完璧なものを求め続けた。他のいろんなカメラマンにも大切なことをたくさん教わったが、K多さんにも仕事人としてのカメラマンというものの在り方の大切な本質に触れるものを教わったように思う。

僕が独立してから、僕にきた物撮りの仕事で、これはいろんな意味で僕の手に負えないという撮影があった。カクテルグラスに瓶から注いでいるところの写真と、そのカクテルグラスが飲み終えた状態で置かれている写真、というものだった。だが、注文はそれだけではなく、その2枚の写真がいいぐあいに重なり合わないといけないものだった。(・・・説明するのが難しい)
手に負えなかった僕は、K多さんは忙しいし、K多さんの撮影料の相場も知らないながらも「もしよろしければ、もし失礼でなければ、合わないようでしたら本当に断ってください」と念を押してそこを紹介した。
K多さんは快く引き受けてくださったようだった。
その編集者に別件で後日伺ったときに、彼は
「そうそう、すとちゃん、K多さんの写真、凄いよ。」といってK多さんの撮った写真を「特別に」見せてくれた。
本当にきれいな仕上がりだった。
同業者としてこんなことを言ってしまっていいのかと言われそうだが、K多さんのこの写真なら仕方がない、僕にはこんなに美しくは撮れないと思った。編集者が感動したのがよくわかる。
それに、万が一にもすとうに迷惑をかけてはいけないからと、いつもにまして気合いの入った仕事だというのが写真を見ていて伝わってきた。(勝手な思い込みかもしれないが、きっとそうだと思う)
そういう人なのだ。

今年の5月にK多さんからのインクジェットでプリントアウトしたはがきが届いた。
5月末で事務所を閉め、現役を引退するということが、淡々と書いてあった。
驚き、そして、寂しく、それから、改めての感謝の思いもあり、あれほどの職人がというもったいないと思う気持ちもあり。ひょっとしたら身体をこわしたのだろうかなどなど、いろんな思いが交々に湧いては胸に痕跡を残していった。
K多さんのムショに通ったのが懐かしい。
物を見るときは厳しいけれど、人を見るときは優しい、K多さんのあの笑顔が懐かしい。









※テントレは、撮影台の上に、天井のように張ったトレーシングペーパーのこと。「天トレ」。ストロボをそのトレーシングペーパーの上からあてて、光を柔らかくする。

Aスタジオ顛末記10〜キャベツの千切りが得意なわけ〜 [カメラマンになる周辺など]

Aスタジオにはこのようなことを知らないで入ってしまったのだが、年功序列で一番下が、つまり一番後に入った者が食事を作らなければならなかった。これを知ったときこころから「失敗した」と思った。こころから失敗したと思ったことは、その後もたくさんでてくるので、振り返れば、まあ序の序の口といったところだが。
それまでは、大学のひとり暮らしで野菜炒めとかカレーライスとかは作ったりしていたが、他の人の口に入るものを作らなければならないとなると意味が違う。
Aスタジオには高校・専門学校・大学などを卒業してやってくるのがほとんどだった。僕が入った当時でそんな若い連中が10人ほどいた。僕らは一日中よく身体を動かしていたから、とにかく腹が減る。それに楽しみといったら食べることくらいしかないから、どうしても食うことにはうるさくなってくる。
Aスタジオの食事は一日2回、朝飯と晩飯。朝から掃除をしたりロケに出たり、もちろんスタジオでの撮影があったりだから、ブランチの時間の朝飯は作り置きしておいて、手の空いた者から各自で摂ることになる。晩飯は、スタジオに入っているのは仕方がないとして、スタジオマンがみんな一緒に摂っていた。
僕が入ったときのチーフは、人一倍味にはうるさかった。今にして思えば、写真を撮る人として大切なことをたくさん学ばせてもらったと思うが、その頃はまだまだそうは思えなかった。

先輩に食事の段取りは一応教わり、それに、料理の本も何冊か置いてあったので、それを見ながらどうにかこうにか作ることになる。これも仕事と一生懸命作った。
金曜の夜はカレーライス、火曜日の夜はトンカツと決まっていた。メニューを決めるのも一苦労なので、これが決まっているだけでもありがたかった。
そんな生活のまだ間もない頃、トンカツの食事の時にチーフが不機嫌な顔をして、キャベツの千切りを箸でつまんで言った。
「誰だ、この千切り切ったのは」
「ぼ、僕ですが・・・」(ストウ、おずおず答える)
「馬の餌じゃねえんだぞ!!!」
チーフは吐き捨てるように言って、箸に取ったキャベツを皿に投げつけて戻した。
たしかに、いわゆる千切りの幅の20倍はあった。というか、それを千切りとは言わない。
それでも、俺は一生懸命作ったのにそんな言いかたってないだろう・・・と思うと、悔しさと悲しさでいっぱいになったが、
「すいません」
と一言言って、とにかく耐えた。ちきしょう!と思ったが耐えた。

料理のことなのでついでに書くと・・・
あるときご飯にグリンピースを混ぜて炊き込んだ豆ご飯を作ったことがあった。
チーフは、茶碗から箸でグリンピースをつまみ上げ、また吐き捨てるように
「俺はこれが大きれえーなんだよ」
と聞こえよがしに言って、グリンピースを一つひとつ箸でつまんでは取り出して全部捨てた。
ちきしょう一生懸命作ったんだぞと思いながら、その時も耐えた。

僕の一番下生活は、途中いろいろあったものの、一年くらい続いた。食事作りは、すぐ上の先輩が手伝ってくれたりしたこともあった。それに、おいおいと僕もロケアシスタントに出たり泊まりの仕事もあったので、そういうときはほかの先輩が作ったが、それ以外は、一年間も毎週毎週トンカツあげたり千切りを切ったりしていた訳だ。台所に立って千切りをするたびに、ちきしょう!と思いながら。

スタジオ生活にもすっかり慣れたころのあるトンカツの晩、チーフが千切りをつまんだ。そして、また言った。
「誰だ、今日の千切り切ったのは」
「僕ですが」(ストウ、普通に答える)
何を言い出すのかと思う。この晩飯何か問題あるわけ?と思う。
「この千切り、98点だな、・・・いや、100点だな」
と言った。
おれ、別に料理を勉強しに来たわけじゃないし、100点もらってもな、だいたい点数付けられる筋合いじゃないしと思いながらも、
「ありがとうございます」
と答える。

その頃は、普通に千切りができるようになっていたので、もうどうでもよかった。
キャベツの千切りがかなり得意なのは、そんなわけだった。
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「亜愛一郎の事件ファイル」(ってタイトルだったかな?)    ・・・宣伝です、すいません [カメラマンになる周辺など]

この仕事の話がきたのは、今年の4月、まだ上田にいるときだった。
テレビ番組の制作会社の知らない女性からメールがあって、要はこうだ。
人の顔を撮っている天才カメラマンが主人公のサスペンス番組を作るのだが、その設定で主人公の部屋には彼が撮った人の顔の写真が所狭しと張りめぐらされている。その写真にすとうの写真を使わせてほしいのだが・・・。
その後やりとりがあって、それで「すべて僕の写真を使うということだったらいいです」と返事をし、そういうことになった。
メールをくれたのは助監督のKさんで、Kさんはゴールデンウィークに上田にやってきて、かき集めておいた海外で撮影した写真のデータのやり取りをし、それから、上田城のあたりとか青木村の道の駅とかで、行楽の家族やカップルに声をかけて(ここがKさんのだいじな仕事)撮り足した。
結局、主人公の亜愛一郎(あ、というのが姓、あいいちろう、というのが名)が撮った写真のうち、いろいろあって竜雷太の写真を除いて、すべて僕の写真が使われているらしい。らしいというのは、できあがったものを見ていないので。
それで、つい先日その制作会社のTさんから電話があって、

11月13日(水)午後9時から
水曜サスペンス(ミステリー?)「亜愛一郎の事件ファイル」(?)

東京12チャンネル、じゃなかった、テレビ東京系列で放映されるのだそうだ。ちなみに、主演は市川猿之助。どんな使われ方をしているのか不安と期待が入り交じる(不安が9:期待が1くらいかな。いや、不安が97%かな)。うちにはテレビがないので僕自身はテレビでは見ないのだろうが、自分が見ないのに言うのも何だが、よろしかったら見てみてくださいね。以上、宣伝でした。
それにしても、天才カメラマンが主人公という設定で、僕の撮った写真を使って大丈夫なのだろうか・・・。その件クレームがきても、僕のせいではない。
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Aスタジオ顛末記9〜くさやスナックでカラオケを歌う〜 [カメラマンになる周辺など]

そういえばこんなロケに行ったことがあったことを思い出したので、今頃だけれども書き足そうと思う。
Aスタジオを御用達にしてくれていた大御所のカメラマンIさんの仕事だった。もちろんアシスタントもいるが、Aスタジオからもロケアシスタントとして2人いった。
新聞の全面広告用の撮影で、撮影するものはフロッピーを入れる特殊な紙でできたケース。それを300枚くらい割り箸で立ててドミノ倒しのように並べ撮影するというものだった。
ロケ地に選ばれたのが三宅島だった。火山が噴火してできた一面が礫の丘陵。そのさまが、SF映画の火星の風景に使われそうな、そんな日本離れしているというより地球離れしている、そんな風景のところがロケ地だった。

島に行って探しに探してどうにか撮影場所が決まると、イントレを2段に組んだ上で大判カメラのアングルを決めた。次に割り箸を刺せるように準備している僕たちに、Iさんがハンドマイクを口にして「もっとも右、もうちょっと」だとかの指示をして、それに従って延々と割り箸を突き刺して紙のケースを立てていった。
初日はそんなことをしながらIさんがめどが立ったと思ったところまでやって、マークキングをしながら割り箸を抜いた。そして、イントレをがっちりと固定して、三脚の石突きの位置などもにマーキングをしておわりになった。

その晩は、連れだって飲みに行くことになった。宿の人に聞いたには、島にはスナックが2軒あるということで、だいたいの場所も聞いて、それで適当にどちらかに行くことにして出かけた。
一軒のスナックにはいりテーブルに着くと、島生まれだろう愛想のいいお姉さんが皆におしぼりをくばってくれた。
手渡されたおしぼりで手を拭くと、・・・ちょっとこのおしぼり臭くない?と心の中で眉間に少し皺が寄った。
これって、何の匂いだったかなと鼻を近づけてもう一度匂いをかいだ。そう、くさやの匂いだ。ここ、くさやの産地だからね。でも、どうしておしぼりに匂いがつくかね。好きな人にはたまらないらしいこの匂い、ぼくはかなり苦手な方だと思う。手にもくさやのにおいが移った。
ビールやらおつまみやらをオーダーして、まず出てきたお通しは、これまたくさやだった。
スナックといっても女性が同席してお話しするということもないスナックで、お酒の出る喫茶店が夜もやっているといった程度の健全性だった。
はじめのビールが終わるとウイスキーになり、年功序列、僕が水割り作りに励んだ。近頃はどうなのかわからないが、当時はきっちりと年功序列の残っているカメラマンの世界、上からの指示命令は絶対的なものがある。
水割りをみんなに作ってはちびちびグラスを口に運んでいた。
そのうち酔いも回って、みんなはマイクを握ってはそれぞれにはやり歌を歌い出した。体をくねらせて声を振り絞ってのりのりに歌い始める先輩もいた。
Iさんがふいにこう言った。
「おい、すとうも何か歌え」
ぎく。僕は応えた。
「僕、本当に下手ですから、勘弁してください・・・」
一応食いさがってみた。Iさんは
「いいから歌え」
がっくり。すとう、
「・・・はい」

仕方ないから歌本で何か選んで歌った。途中まで歌ったあたりで、スタッフとしゃべっていたIさんは言った。
「すとう、もういいから」
すとう
「・・・」
だからへただって言ったのに・・・。
ちなみに、それ以来いちどもカラオケで歌ったことはない、と思う。心理学の用語でトラウマという。


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焦点を合わせること、またその周辺のこと [カメラマンになる周辺など]

一連の「人間遺産」の仕事で撮ったような、人の顔のアップの写真のピントについて少し書きたいと思う。
人の顔というのはかなり立体的なもので、あの撮影の現場では明るさの条件が悪いことが多く、そのようなときは絞りを開放にしてそれに合わせてシャッタースピードを決めるという撮り方をしたから、ピントが合う奥行きはそれほどないことが多かった。パソコンの画面で見ているにはそれはわからないが、大きく伸ばしたオリジナルプリントでは、明らかに被写界深度が浅い写真が多いことがわかる。※1
人の顔を撮る時は、ごく特殊な場合を除いて目にピントを合わせるのが基本だ。顔とはいっても目にピントが合っていないと「ピントが合っていない」と感じる。心理学的にもおもしろい考察になると思うが、ここではそれはさておく。
レンズに対して顔が正面を向いていれば、基本的には両目に対して距離が同じなので両目にピントが合う。斜めから見れば距離が違ってくるので、どちらかの目にピントが合って、どちらかにピントが合わないということがおこる。その場合には、より近い方の目にピントを合わせる。その方が一般的には自然に見えるように感じる。被写界深度が深い場合ならともかく、浅い場合は特に不自然に見えやすい。
いずれにしても目にピントを合わせるのだが、ここでもうひとつ問題が起こる。
目は立体であり水晶体であるので、目のどこにどのように合わせたらいいのか。撮影しながら試行錯誤を繰り返した。
さて、それでどこに合わせたらいいかという僕なりの結論では、水晶体と下まぶた(というのだろうか、日本語を知らない)の境目に合わせるのがいい。「目にピントが合っている」と見える。ひょっとしたら一種の錯視かもしれないが、合っていると言っていいと僕は思う。

オートフォーカスになったときに、ピントが合っているという画面表示が楕円だったり四角だったりと「面」でファインダーに表示される。※2僕にとってこれはどういうことかというと、細かいことになるが、ピントがまつげの先に合っているのか、それとも下まぶたに合っているのかがわからないということ。それは非常に大きな違いで、つまり、ピントが合っているか合っていないかわからないということになる。
デジタルの一眼レフカメラでは、レンズにマニュアルフォーカス機能があるので、マニュアルで合わせればいいだろうということになるが、ところが実際にはできない。マニュアルでフォーカスを合わせる人はほとんどいないということを前提として、メーカーはピントグラスをアニュアルでしっかりと合わせられるようには作っていないからだ。ピントグラスにヤマといわれるぎざぎざがあって、そこでピントがわかるようになっているのだが、デジタルカメラではそのぎざぎざがほとんどない。使いもしないところに費用を使うのは無駄だとメーカーが考えるのは当然だし、買い換えるものとしての家電製品となってしまった今となっては、そのような道をたどるのは推して知るべしだろうが。誤解を恐れずにいえば、今のファインダーはおおよその目安でしかない。
ピントを合わせるということは、何を見るかということであるし、何を撮るかということである。それは当然、何を意識しているかということにも及ぶ。※3

焦点のことからちょっとそれるが、愛用していたカメラはニコンのF3P※4にマットのピントグラス、それにモータードライブをつけていた。「人間遺産」の撮影ではコダックのPKRというリバーサルフィルムを使っていた。コダック自体倒産してしまったし、それよりもPKRというフィルムは10年くらい前に製造中止になっている。このPKRも含めコダクロームというのは「外式」といわれる現像方式のフィルムだが、この作りのフィルムはコダック独自のもので粒子が非常に細かい。PKRは実効感度がISO50と低くラチチュードも狭く非常に扱いにくい。しかし、何ともいえないナチュラルな感じと粒子の細かさが、大地に根ざして生きている人たちを撮るのにはとてもしっくりきた。

僕は何かを伝えるために写真を撮る仕事をしたと思うが、じゃあ200年前に生まれていたらどうだったのだろかとも思う。銀塩の写真装置はわずか180年位前にフランス人のナダールが作った。(・・・間違っているかも)画家や音楽家であれば1000年前であっても表現できるが、写真を撮るということはそうはいかない。科学技術の産物である写真装置がないと何もできない。お手上げだ。

焦点を合わせるということから、愛用したカメラのことフィルムのことなどに及んで、訳がわからなくなった。訳がわからなくなったついでに書けば、ピントを合わせられる目を授けてもらい、意図通りにしっかりとピントを合わせられるカメラに出合い、それを使うことのできる体を授けてもらい、そして、それらが同じタイミングで与えられた。銀塩の時代は短かったが、その時代に巡り合わせてもらった。なによりもたくさんの編集者に写真を撮る仕事を与えていただいた。写真を撮る仕事人として、いろいろなことの符号が合っていたというのは本当に幸運だったと思う。
いずれにしても、振りかえれば感謝以外になにも言う言葉ことはない。





※1 ニコンの105mmマクロレンズをよく使った。写真展「イエメンの顔貌」を開催したとき、90センチ×60センチに伸ばした写真を見て、ある方に「これは4×5(シノゴ)で撮ったのですか?」と聞かれたことがあった。
 
※2 こうしたオートフォーカスでは、フレーミングにも大きな不都合をきたす。

※3 意識は大げさに言えば人生そのものになる。実際にどのようなことが起こっているかではなく、それをどのように受け止め感じるかで変わるのだから。しかし、自分は何に焦点を当て何を意識しているのか、ということにさえ気づかないうちに時間が過ぎてゆく傾向が強くなりつつあるように感じられる。
大学生の頃に読んだ写真論争で「ネガのないポラロイドは写真なのか」というのがあった。今となっては笑い話にもならないような話だが、写真を撮る人間が写真をどのように意識・認識しているかという意味では古くはないし、デジタル化し加工の容易になった今も潜在しているテーマであると思う。

※4 一眼レフの高級機種ではピントグラス(ピントを合わせるための磨りガラス)を交換できるものがある。さまざまな種類があって目的によって使い分けたりすることがある。マットというのはその一番シンプルなもの。またF3はファインダー視野率100パーセントというのも重要な点だった。ちなみに、ニコンF3Pの、Pはプロフェッショナル仕様のPかプレス仕様のPかいまだに知らない。僕のF3P、2台とも海外での仕事も含め故障なくがんばってくれた。

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住宅展示場にて [カメラマンになる周辺など]

家を買いに行ったわけではない。
仕事でとある住宅展示場に撮影にいった。住宅メーカーの仕事ではなく、住宅を展示している会場を運営している会社の仕事で、新聞のチラシ用に、様々なメーカーの住宅が見本で建ち並びそしてそれがあたかも素敵な新興住宅街のようになっている、そんな風景を撮影するものだった。
お客さんの少ない平日の撮影だったが、それでも撮影中に何組みかのカップルがその展示場に来て、「街を散歩しながら」いろんな住宅メーカーの家を見て歩いていた。気になったところで、そのメーカーの営業マンなりに話を聞いたりするのだろう。そして、話しがすすめばご成約ということになるわけだ。
撮影が終わり、出されたお茶をすすりながら、住宅展示場の担当の方としばし世間話になった。こういう撮影は多いのかとか、どの家が気に入ったかとか、今どき住宅はいくらするものなのか、そんな四方山な話になった。
そんななかで、50代も半ばを超え定年が遠からぬ担当の方はこんなことをいった。
「・・・お客さんたちは、どうも家を見てないんだよな。」
「???。家を買いに来て、家を見ないんですか?」
「どうもそんな気がするんだよなぁ。家を見てない気がするんだよなぁ」
「何を見に来てるんでしょうかね?・・・」
「・・・どうも営業マンを見てる気がするんだよなぁ。どうもそこなんだよなぁ・・・」
と。家を見ないで家を買う、人というのはそういうものか、と思った。

その担当の方はいろいろな住宅メーカーと組んで、一緒になって家を売るということをしてきた。いろんな住宅メーカーの「内側から一緒になって」家を売るということをしてきた訳だから、住宅メーカーの体質の違いや、さまざまな営業マンを何十年にもわたって、ひょっとしたら何百人かの営業マンを見てきたのだろうと思う。
もし彼の言うとおりだとしたら、生涯の大きな買い物を営業マンで決めるとしたら、営業マンの何で、何を見て、何を感じて、たぶん一回きりだろう大きな買い物の決断をするのだろうか。僕は営業マンではないけれども、営業にも足を運ぶことを思うと他人ごとではなく興味深いものがあった。


こんなだいぶ前の話を思い出したのは、先の「なぜ『所得倍増計画』は達成されたのか」を書いているときだった。
書きながら当然その頃の自分自身を振り返ってみることになる。僕は何を考えて生きていたのだろうかと、あるいは自分の在りようはどうだったのだろうかと。
自分のことは見えないものだからわからないけれども、きっと、飢えた痩せ犬のようにもの欲しそうな目をしながら、見境なしに「仕事くれ、仕事くれ」と吠えていたのだろう。周りが視界に入らず自分自身の腹を満たす餌を探すためだけに突っ走っていたのだろう。振りかえるとそんなふうに思えるところもある。
ある意味では、最初の一年はそれでいいのだろう。とにかくがむしゃらに、ただそれでいいのかもしれない。しかし、それが何年にもわたって続けば習い性となり、何か本来の思いからは大きく離れてゆくのかもしれない。
独立した頃にこんなことを思った。3年間は写真を撮る仕事ならどんなことでもしよう。それは、お金が必要だし、写真は撮り続けてゆかないと腕は上がらないし、人間関係を広げてゆかなければならないし。
「3年間は・・・」と思ったその裏には、「3年経ったならば・・・」という思いがいつもあった。その時には、3年経ったらどうしようという具体的な構想は全く何もなかったけれども、それでも焦りにも似たそうした思いが沸々としていた。

仕事帰りの車の中だったりで、親しくなった編集者に、何度か全く同じようにこんなことを言われたことがある
「すとうさんは、営業が下手ですよね〜」(カッコワライ)
「そうですか・・・」(カッコニガワライ)
仕事の発注先の人に営業ベタといわれるのは、ちょっと嬉しいところもあるが、それはさておき、営業ベタを補って余りある凄い写真を撮るので仕事を発注しているとでもいうのだろうか。まさか。
カメラマンとして独立した2年目の春に所得倍増計画をたて、額の大小はさておき、まがりなりにも実現した。ただ単に人間関係が広くなったからとか、がむしゃらに頑張ったからというのではなく、自分の中の何かが変わっていった結果としてそうだったのであれば、それはとても嬉しいことだったとは思うが、実際どうだったかはわからない。どうしてこんなふうに生かしてもらえたのか、わからない。
よく売れる営業マンの方々から「家の売り方」を学びたいものだが、今からでは遅きに失するだな。


写真の原体験、あるいはレッスンの始まり [カメラマンになる周辺など]

幼稚園に通っていた頃、近所の同じ歳のTくんの家によく遊びに行っていた。今時なら危ないからとすぐに御法度になりそうだが、家の中では折り紙の手裏剣ごっこをしたりして遊んだのを覚えている。手裏剣だから友達をめがけて子供ながら真剣に当てようとする。投げつけあったりもしたが、あるときは手裏剣を受ける方がビニールの刀を持ってそれを受けたりした。いちどきりだが、投げつけられた手裏剣を刀で振り払って受けたことがあって(もちろんまぐれで)、その時はTくんも僕も「おー!!!」と感嘆をもらした。

Tくんの家は、ごく普通の二階建てだったが、ちょっとした広さの庭と、たぶん家庭菜園の畑とがあった。Tくんの両親が教育熱心だったからだろうと思うが、庭のはずれの日陰に手作りの鉄棒があった。隣の家の裏手にあたるのと、かえでの木があったのとで、そこでは日中でも暑くなることなく遊ぶことができた。
夏の日だったと思う。
僕は逆上がりもできないから、鉄棒で遊ぶのはあまり好きではなかったし、何をして遊んだのかも覚えてはいないが、子供のことだから何かしら適当なことをして遊んでいたのだろう。
しばらくして、Tくんのお母さんが帰ってきた。僕らの姿を見かけると、
「あら、なおとしくん来ったんがぁ。んじゃ、一緒に写真でも撮っかぁ」
と僕たちに声をかけてそのまま家に入って、まもなく小さなカメラを持って戻ってきた。
Tくんと僕は鉄棒の前に並んで立たされた。
Tくんのお母さんが小さなカメラを持って僕らを撮る姿を、僕は限りない不思議な思いと静かな興奮で見ていたのを覚えている。カメラというものを。写真を撮るということを。きっとぽっかりと口を開けて呆けたように見ていたことだろうと思う。
もちろんカメラというものを知ってはいたし、それ以前に写真を撮られたこともあるはずだった。けれども、それ以前の写真を撮られた記憶はなく、このときがカメラというもので写真を撮られるということの初めての「体験」になった。

その頃に出会ったものは、人生を大きく左右するのかもしれない。母の胎内にいるときから愛との関わりは始まり、愛についてのレッスンが始まる。しかし、ひょっとしたらこの時期に自分自身に内在するものと取り巻くものとの出合いから興味というものが芽生え始める、あるいは自己実現のレッスンが始まる頃なのかも知れないとも思う。
もしそうだとすると、芸能の世界で6歳の6月6日に芸を覚え始めるとよいなどといわれるが、あながちいい加減なことでもなく、それなりに理屈がつくのかも知れない。

興味というのは一粒の種にたとえれば聞こえはいいが、どちらかというと白癬菌のようなもので、洗って落ちるようなものではなく、体の中にしみ込んでしまっているものなのだろう。
小学校の2年生のころだったろうか、あの小さなカメラと同じようなものを、お小遣いをためてプラモデルなどを売っている店で買った。その小さなカメラは8ミリ幅のロールフィルムを使っていて、つまり普通のフィルムのようにパトローネという缶に入っているのではなく、遮光用の黒紙とフィルムが一緒に軸に巻いてあるのを使っていた。
そして、レンズは五円玉の穴ほどの凸型の一個のガラス玉。F/11だったろうかF/16だったろうか書いてあったが、そんな表示も実際にはてきとうに書いたものだったろうと思う。いずれにしても、晴天の屋外でならひょっとしたら写ることがあるかもしれないといった程度のものだった。そんなものではあったが、それは模型ではあったかもしれないがおもちゃではなく、カメラに違いなかった。僕の大事な大事な最初のカメラになった。

あのときTくんと一緒に撮ってもらった写真、あのような条件だったらきっと僕たちの形さえ写ってはいなかったはずだ。でも、僕の心には生涯にわたってはっきりと残るほど強烈に焼き付けられたものがあった。生涯つきあうことになる原体験が生まれた。
手裏剣の方に興味がいっていたら今時忍者になるわけにもいかないだろうから、スパイにでもなっていたのだろうか。全く想像がつかないが殺され役だったな、きっと。






なぜ「所得倍増計画」は達成されたのか [カメラマンになる周辺など]

まがりなりにもフリーのカメラマンとして独立して、しそふりかけのスパゲッティーとか、大家のおばさんのカレーライスとか、霞とかでどうにか食いつなぎながら、一年が経とうとしていた。フリーランスの一年目、普通などはないだろうから他の人と比べても意味がないだろうが、味わい深い、あるいは味わい深すぎたともいえる一年だった。とにかくどうにか生き延びてきたという感じだった。
バブルのごく走り、今にして思えば決して悪い経済状況ではなかったけれども、それでも僕自身は海に浮かぶ何か小さなものにすぎなかった。身の丈以上に体裁をつくろっていたら、時おり吹く風でたつ小さな波にも、すぐに呑まれて沈んでいたのだろうと思う。そんな小ささだったから、だからたまたま沈まずにすんだのかもしれなかった。
そんな小さなものでも確定申告をしなければならなかった。初めての確定申告。もちろん税金を納めるような立場ではないどころか、確定申告をするのは、源泉徴収されている分を返してほしいがためだ。こんな収入のわずかな人間からの10%の原泉徴収は厳しい。働いた分をちゃんと返してもらいたい、というのが正直なところだ。
下北沢に住んでいたので、小田急線で隣の駅、梅が丘にある北沢税務署に用紙をもらいにいって、わからないながらとにかく書き込んだ。事務仕事の得意なフリーのカメラマンというのは聞いたことがないが、僕もご多分に漏れなかったので、訳が分からないままとりあえずそれなりに下書きを完成させて、申告の期間ぎりぎりに税務署にもっていった。
当時はその季節限定で無料の申告書作成相談をしてくれる税理士なのだったろうか、そういう人が税務署にたくさんいて、僕も番号札を受け取って並び、記入の相談にのってもらった。おおかた問題はないようだった。
ただ、たまたま見てくれることになってしまったその税理士なのだろう人が、申告書に一通り目を通したあと
「君ぃ、赤字だけどどうやって食っているの?え?」
と上から目線でいってきたので、いくら何でも失礼だろうと少し腹が立ち、
「女に食わせてもらってますけど、なにか・・・」
と少しけんか腰でいったら、その人、むっとしたものの返す言葉がなく黙っていた。
でも、本当はウソでした。すいません。そんなに甲斐性がありませんでした。

どうにか初めての確定申告書の提出を済ませて部屋に帰った。そして落ち着いたところで改めて申告書の控えの用紙を取り出してまじまじと見た。記入したところの少ないその控えの用紙を見ながら、じわっと悲しみがこみ上げてきた。
「これではいくらなんでも少なすぎる・・・」
そして僕は、めどや当てや方法など何もないままに「所得倍増」を決めた。来年の申告のときまでに所得を倍にすると。決めたはいいがどうやったら収入が倍になるのかは、全くわからない。今でもそんなことはわからない。わかる人がいたら教えてほしい。

2年目になっても、やれることといったら一年目とほとんど何もかわることはない。いろんな編集部に営業にいったり、人と会ったり。多少なりとも知り合いの編集者ができたりしたので、なるべく通うようにしたり。そして、一回一回の撮影を誠実にやることでしかなかった。
この頃だったように思うが、名刺入れに名刺を入れるのではなく、名刺を注文したときに100枚入ってくるあのプラスチックのケースごと持って歩いていた。異業種交流会だとか、友達の友達だとかとにかく仕事に少しでもつながりそうな人と会っては名刺を渡していた。そんなふうだったから、ケースに入った100枚の名刺もみるみる減っていった。

そして一年はあっという間に過ぎ、二度目の年度末を迎えた。やっぱり慣れない確定申告書に数字を書き込んで、それをまた足したり引いたりした。
最後の欄に出てきた数字は、前の年を倍以上上回っていた。一年前にたてた、あの全く無計画な「所得倍増計画」は達成したのだ。倍増、すばらしい響きだ。気持ちがうわずってきてしまった。よくやったとそれこそ自分をほめてやりたい。「やっぱ、おれってえらいなぁ〜」こんな感じで。
ひとしきり感慨にひたり、そして高揚もおさまり、改めて二年目の申告書の金額を見てみる。倍以上になったとはいえ、それでもその額はほんのわずかなものだということに気づいた。倍になってもやっぱり少ないこの数字。
とっても少ない+とっても少ない=やっぱり少ない
その数字をよくよく眺めながら、僕ははたと得心がいった。倍にでもならない日にはやってゆけないくらい最初の年がひどかったのだ。そう、所得倍増計画を達成し得たのは、前年の収入があまりにも、あまりにも、あまりにも少なすぎたからに他ならない。苦笑するしかなかったが笑い事でもなかった。


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Aスタジオ顛末記3〜二重橋だよおっかさん〜 [カメラマンになる周辺など]

あのS山さんの事務所によくロケアシ(出張アシスタント)に行っていたことがあった。
S山さんはヌードはもちろん週刊誌の表紙、シノラマなどの撮影を一日にいくつもやっていたから、アシスタントは3人いたが仕事の内容ごとに、撮影の種類ごとにメインで担当するアシスタントが違っていて、外での撮影が終わると、別のアシスタントがスタジオで週刊誌の表紙の撮影をスタンバイしていて、というような具合だった。
その当時のシノラマの撮影では、結婚式場でゴンドラに乗って式場に下りてくる二人を撮ったり、日曜日の朝の新宿御苑の家族だったりなど、日本的風景というか、そんな風景をS山さん的な独自の視点で切り取るということをしていた。僕はそちらの方の手伝いに行っていた。

何月のことだったろうか。その日は、皇居前広場に行った。
朝から快晴で暑い日だった。4×5(シノゴ)という大きなカメラでの撮影で、僕はS山さんが仕事をしやすいように、かぶりという布、写真屋さんが大きいカメラでバシャン!と撮るとき、カメラを覗く時に使っているあの黒い布を、かぶせたり外したりということをしていた。このかぶりというのは、急いでいると結構ぐちゃぐちゃになってしまい、ストレスになる。それをアシスタントが一人手伝うと、それだけで仕事がとても楽になる。それに、カメラを覗かないときには、S山さんの後ろで広げて持って、カメラやS山さんに直射日光が当たらないように日陰を作るということをしていた。

修学旅行、二重橋、記念写真。
二重橋前でひな壇に整列して記念写真を撮るところ、を撮影ということだった。今撮った写真がそのままセピア色になってしまいそうな、日本のステロタイプな風景。ちなみに、ものによると二重橋といわてれいるのは、あれは本当はそうではなくて、あの奥に架かっている地味な橋が二重橋なのだそうだ。
だけども、たとえば母が東京見物に来て、ここに連れて来たら、やっぱり僕は
「おかあさん、あそごさかがった橋が、島倉千代子がうだってだ、二重橋だごで。ほらほら、二重になってだべ」(おかあさん、あそこに架かっている橋が、島倉千代子も歌っていた二重橋ですよ。ほら、二重になっているでしょ)
「せっかぐだがら、写真でも撮ってもらうべ」(折角だから写真を撮ってもらいましょう)
といって、近くの人に頼んで記念写真を撮りたいと思う。本当はあれは間違いで、あの奥にもう一つ橋があってここからは実は見えなくて・・・、といったら、母はなんとなく残念に思うことだろう。思い出のある人には、あれこそが二重橋であり、それでいいと思う。

話はそれたが、そんなふうにして愛しいステロタイプを撮影していた。
ひな壇には学生たちがぞろぞろと立っては教師がなんやかんやといい、そして降りては、また違う高校生がぞろぞろと立っては降り・・・、S山さんは三脚ごともって微妙に移動させて位置を変え、そして磨りガラスをのぞき込んでアングルを決めピントを合わせ、そしてレリーズを右手にシャッターチャンスをうかがう。
僕は黒いかぶりを腕を伸ばして持ちながらS山さんの一挙手一投足に意識を集中させて次にすることを読みながらも、まわりや被写体にも意識を向ける。ここには車はこないが、ときには「車入りま〜す」などといったりするわけだ。

僕はその時のことをよく覚えていない。見ていたひな壇に、あれっ見たことある人のような・・・、そのあたりからいろんなことがはっきりしない。全体が不透明な乳白色の中、まさか、えっ、うそだろ、そんな言葉がまばらに飛んだような気がする。
僕が勤めていた高校の修学旅行がひな壇にいたのだ。見知った先生たちがいたのだ。
僕はなんとなくうつむいたが、めざとい先生に見つけられたようだ。言葉をかけられたようにも思うが、よく覚えていない。誰だか先生が僕の写真を撮ったようでもあったが、記憶は霞んでいる。この時の記憶がみごとに霞んでいるのは、よっぽど見られたくなかったのだろう。
さぞや、教員をやめてこんなことしているのかと思ったことだろう。恥ずかしく思うことはないのだが、それでも恥ずかしかった。教員をやめて黒い布持ってつっ立っている、なにやってるんだかと自分自身思う。見られたくなかった。これは自分が選んだステップなのだから恥ずかしく思うことはない。しかし、恥ずかしく思っていい。悔しく思っていい。青春の蹉跌なのかと思っていい。もし蹉跌だとしたら、それは一歩前に進もうとした証拠なのだから。

だいぶたって、なにかの機会にスタジオで経理をしているS原さんにそのことを笑い話として話したことがあった。そうしたら、S原さん、ただでさえ目がくりっとしているのに、それをまたぐりっと見開いて、
「だからだめなのよ、すとうくん。わかる?そういうのもチャンスなんだから。そこで、S山さんに、今ひな壇に来ているのは去年まで勤めていた高校の修学旅行生なんです、と、言うのよ(言うのよ、はフォルティッシモ)。そしたら、S山さん、お、って思うでしょ。そうして覚えてもらうのよ、わかる?すとうくん。そういうところからチャンスは生まれるのよ、わかる?」
ロケアシで行っていて、仕事中にそんなこと言えないですよS原さん、とは言えなかった。あのでっかい頭にあのちりちりに爆発した髪して、ぎょろ目を見開いてキリキリと一瞬を待ってレリーズ握っている後ろから、そんなこと言えないですよ、と思ったが。S原さんに言わせれば、僕の人生はチャンスを逃しっぱなしなのだろう。本人はつまづいてさえ気づきもしないようだが。


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写真展のこと4 〜おまけコーナー〜 [カメラマンになる周辺など]

会場で流したBGMは、音楽関係の仕事をしていたHさんにお願いして一本のテープを作ってもらった。彼には、パネル貼りする前の展示用の写真を見てもらい、イエメンの写真だからといって、アラビアの音楽や土の臭いものではなくて、透明でしかもストレートに魂に触れるようなもので、それでいて力強い感じのものを、という欲張ったリクエストをしたが、Nightnoiseの楽曲を中心にぴったりのものを作ってくれた。会場で誰の音楽なのかよく聞かれた。

来てくださった方でこんな方がいた。一通りじっくりと見て、そして
「いやあ、すごいね、すごいですね。みんな違うターバンしてますね・・・」
人はおもしろい。あれほど写真を見ていたけれども、そんなことには僕は全く気づかなかった。それほどに写真は自由であっていいのだと改めて思った。

「滞空時間」を考えた。写真展にかぎらず時にはもうちょっと見ていたいと思っても居場所がなかったりすることがあったなあ、と思ったので、備え付けの長いすの他に椅子を何脚か、一人でもいられるようなバランスを考えて配置した。それから写真だけを見ているのも時にはしんどくなったりしたなあ、と思い下に添付したようなA4見開き、4ページの印刷物を作った。だいぶ刷ったように思うが手元には一枚残っているだけだ。
今読み返すと、今すぐ書き直したいような恥ずかしいところばかりのぺらぺらなものでも、作るときは苦労した。市川さんにも本当にお世話になった。
独立してちょうど10年目だったらしいが、正確な自分の独立記念日を知らない。アジアを旅した頃から
「我ガ輩ハかめらまんデアル。仕事ハマダナイ」
などと言っていたが、その頃も数えてだったろうか。

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