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なまはんか心理学(14)マインドフルネスについての今のところの理解 [カウンセリング・心理のこと]

だいたい隔週でマインドフルネス瞑想会に参加している。
瞑想というのは、目的によっていろいろと取り組み方が変わるらしい。日本的には「無我の境地」や「悟りを得る」などというような言葉と結びつきやすいように思うが、リラクゼーションを目的としたものもあるであろう。
マインドフルネスというのはパーリ語の「サティ」の英訳で、もともとは「心にとどめておく、憶えておく、思い出す」という意味。マインドフルネス瞑想は、認知療法とか認知行動療法に分類されているのではないかと思うが、それは、「気づく」それから「気づいたものを一旦横に置いておく」という作業を繰り返すからである。
私が参加しているところでは、結跏趺坐(けっかふざ)、半跏趺坐(はんかふざ)、あるいは楽座を組みながら呼吸に意識を持ってゆく。そうしながらも、身体内外のことに意識がゆき(つまり、呼吸に意識が向いていない状態)、それに気づいたらまた呼吸に意識をもどす。ということを延々とやっている(正確には、手を動かしたり歩いたりする方法もやっているが割愛)。呼吸以外のものに意識がいったことに気づいては横に置く(あるいは、手放すといってもいい)。呼吸瞑想であるので、また呼吸に意識をもどして、となるわけだ。

雨が降り始めた音に気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)
脚がしびれてきたことに気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)
・・・
※腹が鳴ったことに気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)
そういえば昨日食べたラーメンはちょっと変わった味だったけどうまかったことを思い出している、ことに気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)
そのラーメンのチャーシューが、ぶ厚かったことを思い出した、ことに気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)
それにしても、あの時向かいに座っていたおやじのラーメンをすする音は下品だったということを思い出している、ことに気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)
こんどいつ食べに行こうかな?そうだ、あいつラーメン好きだからあいつ誘おうかなと考えている、ことに気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)※

と、延々と頭の中に雑念・妄想・空想といった類いのものが広がる。今書いた※から※までをここでは「昨日のラーメンスキーマ」と仮に名前をつけよう。
この昨日のラーメンスキーマは、腹が鳴ったことに端を発し、「自動的に思い出された」ことばかりだ。全く別な人の昨日のラーメンスキーマは、ひょっとしたら、腹が鳴ったから、ラオスに旅行に行こう、ということになったかもしれない。

スキーマというのは、(よくわかんないけど)ものやことや概念や感情やそうした様々なものやことをつないでいる電線だったり繋がれているものだったり、その集合だったりかなと思うのだが、その電線の繋がり具合は、ほぼ共通したものから(たとえば車のスキーマなどは似ているだろうと思う)、個々人で全く違うものまである。
昨日のラーメンスキーマに関しては、その果てに地底の怪獣と決闘しようが火星に行こうがまあどうでもいいのだが、たとえば、

会社の上司が口やかましい
   ↓
死にたい気分になる

となる場合がある。

会社の上司が口やかましい
   ↓
言わせておけばいい

となる人もいる。電線の繋がり方が違うわけですね。
じゃあ、「死にたいとなるのは辛すぎるから、配線変えたい」というときに、
この配線はだいぶ昔からの配線で、気がついたときにはそういう配線になっていた、
ということが多い。
ほとんどの人が、「自動車→タイヤが4つ」というように配線されているのを「タイヤが5つ」と変えるのは難しいのに似ています。

では、できるところからということで、配線を変えるのは難しいけど、電気を止める練習をしましょうか。
スイッチもさび付いていて、なかなか電気も切れないけど、「はい、切ります」の練習です。つまり、この作業は
「その気づきは横に置いといて」ということになります。
時間と根気のいる作業です。しかし、少なからぬ人が経験していると思いますが、錆びたものも少しずつ動かすと動いたりするものですね。そんなことに似ていると思います。
一瞬電気が切れたときに「電気を切っても問題ないんだ」ということに気づき、さらには、「違うところに電気を流しても問題ないんだ」ということに気づいてゆくわけです。

実際はなかなかそううまくはゆかなくて、すとうの場合ですが、
頭の中には次から次にさまざまなことがぼこぼこと湧く。昔の思い出(思い出は昔のことに決まっているが)、今抱えている仕事のこと、思い出すと頭にきて怒りが止まらないようなこと。寒いとか暑いとか。昨日会った人のこと。特に仕事の上で重要なことが浮かんだりすると、「それを横に置いといて」とすることにはかなり抵抗があるようだ。
とにかくいろんなことが頭の中で「かつ消えかつ結びたるうたかた」のように湧き起こる。
他の人よりも「うたかた」が多いとか少ないとかは、全くわからないが、収拾がつかないほど次から次に沸きあがる。頭の中が爆発しそうになります。本当です。
そうした一つひとつのうたかたというか、気づいたことを「今はそれを横に置いておき」ということの繰り返しは、たとえば、武道館のタマネギの皮むきに似ているかもしれない、と思っている、ことに気づいている。とかとかの繰り返し・・・

たとえばこの作業を10年続けた時をイメージしてもらいたい。「無我の境地」とはいかないだろうが、多少なりとも生きるのに楽なように働く自動配電システムが作動するようになると想像できないだろうか。ひょっとしたら、新しい友達のさとるくんがたま〜に遊びに来るかもしれないし。















書いていることに間違いもあろうかと思う。先達にご教示をいただけたらありがたい。

コミュニケーションということ、あるいは実存的孤独 [カウンセリング・心理のこと]

4月から6月までだいたい隔週で計6回の「カウンセリング技法に学ぶ コミュニケーション講座」というものをすることになった。それで、アサーショントレーニングの本とか、コミュニケーションに関わるものを少し読み直そうと思った。図書館から何冊も本を借りたのだが、その中に『孤独であるためのレッスン』(諸富祥彦著)も借りてきていた。
頭の中に「コミュニケーション」があって、手に取るものが「孤独のレッスン」というのは、いかがな回路になっているのかと自分の事ながら思ってしまう。
諸富先生は、ムスターカスの概念を引用して「実存的孤独」と「孤独に対する単なる不安にすぎないもの」とを重要な違いとして説明している。前者の方を「人間の本質に目覚めていることの証であり、生の動乱や悲劇、変転に直面して行く際育まれるものである。この世に生まれ、激しく生き、ひとりで死んでゆくことの本質にある孤独が、実存的孤独である」と説明している。(なんだか難しいね)言い方を変えて「実存的孤独とは、人がひとりで生まれひとりで死んでゆくこの悲劇にもかかわらず、激しく生きなくてはならないという人生の本質に目覚めながら生きてゆくこと」と言っている。(やっぱり難しいね)

小学生の頃、学校の帰りに友達と道草を食いながら帰ったものだった。交差点で誰が勝ったらどっち、誰が勝ったらどっちに行く、と決めてじゃんけんをして一番先に家に着いた人が勝ち、という遊びをしたことを懐かしく思い出す。誰も一度も家に着いたことはなく、誰からということもなく遅くなりすぎたのでやめようといって終わりになった。この遊びは、私のお気に入りだった。楽しかった。
それ以上に身体が覚えているのは、ひとりで帰る時間だった。ひとりでつまらないというのでもなく楽しいというのでもなく帰るあの時間は、世の中からほったらかしにされる最初の体験だったわけではないが、まとまった体験としては初めてのことだったと思う。
大人になって都合5年くらい、カメラを持って海外をほっつき歩いていた。ほっつき歩いた時間は、ほとんど糸の切れた凧のような状態だった。
小学生が大人というかそんなようなものになり、学校の帰り道がチベットやラオスやボリビアやサモアとかとかになっただけのことで、ほとんど何も変わりがない。
諸富先生のこの本の表現を借りれば「・・・ひたすら砂や粘土をいじくったり、長い時間ボーッと列車を観ていたり、といった体験の中で、子どもの想像力や創造性は育っていくのです。」(大人の私はひたすら写真を撮っていたが、何かが育つには遅すぎだったかもしれない・・・合掌)

ひとりでいることが怖いので、そうならないために話し続けるというのであれば、それは心の中に巣くう恐怖の火に薪をくべ続けるようなものなのだろう。
コミュニケーションをとるということは、人前でじょうずに話せるとか、会議で説得力のある話ができるとか、英語力が高まったとか、そういうことではないのだろう。たとえば、受容し合える関係を作ることと言えるような感じもするし、また、しっかりと孤独に生きてゆくためだという気もする。











なまはんか心理学(13)アフォーダンスは、踊らされるダンスなのだ。(なのかも。) [カウンセリング・心理のこと]

アフォーダンス(affordance)というのは、afford(与える、提供する)という言葉から、ギブソンが作った造語だ。ほとんどの場合日本語には訳されず、そのまま使われていると思う(学術的なものには、「行為の可能性」などともあったりもする)。すとう的にあえて訳すとすれば「存在の供与性」というのがいいと思うが、どうであろうか。知識のある方に是非御指南いただきたい。

「アフォーダンスとは環境が動物に提供するもの。身の周りに潜む「意味」であり行為の「資源」となるものである。地面は立つことをアフォードし、水は泳ぐことをアフォードする。・・・」(『アフォーダンス入門』佐々木正人)

ところで、
大学を卒業したての頃、定時制の高校で教諭という仕事をしていたことがあった。田舎の定時制で、全体に生徒数は少なく、一番少ないクラスで6人だった。その6人が、全日制の35くらいある机と椅子のセットに、仲良し女子の二人だけが隣同士で、あとはみごとにバラバラにすわる。
今も尊敬する先輩教諭が「この子たちだって、6人がぴったり入る教室だったらちゃんと勉強するのに」とよく言っていた。理屈はわからないながら私も確かにそう感じていた。
学校は勉強することをアフォードする。教室もまた勉強することをアフォードする。
全日制のある一人の学生にとって、教室と34人のクラスメイトと教諭は、勉強することをアフォードする。しかし、定時制のある一人の学生にとって、29の空席と5人のクラスメイトというのは、勉強することをアフォードするのだろうか。バスケットボールのコートが2面取れる体育館に、バラバラにすわる6人を想像すればいい。何か特殊な試験ならいざしらず、共に学ぶという環境でないことは明らかであろう。
学校に集めておいて勉強することをアフォードしない環境に押し込めていたのだから暴力的だった。

別の例。
「私には超能力があって、あなたが任意にひいたトランプのカードを当てることができる」という手品ができる。私は相手がどのカードをひくかわかっているわけではない。しかし「特定のカードをひくようにアフォードしている」という言い方が今ならばできる。今まで使ってきた言い方だと、そのカードをひくように「仕向けた」ということだが。

コップの取っ手などはかなりわかりやすい。コップの取っ手は、そこを手に持つようにアフォードしている。ここを持てという意味がそこにはあり、持つように仕向けられている。

私たちが選択していることは、自分で選択しているようで、環境からアフォードされていることがものすごく多いのではないだろうか。一枚のカードを自分で選択したと思いながら、実はひかされているように。生命体が選択的な行動をしようとしたときに、その環境には意味が生じ、アフォーダンスが生じる。
環境のどの部分が、どれだけアフォードしているのかというのが、手品のトリックのように掴めない以上、たとえば、私が今こうしてキーボードを一つひとつ打って文字にしているが、こうした選択的な行動も、実は私が選択しているのではなく、時間的環境も含め、さまざまな環境が供与したものから、こうするように仕向けられているのではないとは言えない。自分のステップを踏んで踊っていると思いながら、じつのところ踊らされているとも考えられる。
踊るアフォー、か。













※うわっつらだけを、ちょっとなぞっただけで、アフォーダンスは本当はとっても難しくて、
私なんぞにはわからないのですよ。








諸富先生のサインが出てきた [カウンセリング・心理のこと]

ちょっと用事があって諸富先生の書いた
『カール・ロジャース入門 自分が自分になるということ』
という本を取り出した。
見返しに書いてもらった諸富先生のサインを見つけた。
たぶん諸富先生のベーシックエンカウンターグループを受けた時に、
持って行ってサインをしてもらったのだったと思う。

「どんな自分も大切な自分」

2005年の日付がある。
あのときに受けたこの言葉の意味と、今の私が受け取る意味とはだいぶ違うように感じる。
意味がわかることと、身体が感じることは全く別のものだね。

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なまはんか心理学(12)オープンダイアローグ [カウンセリング・心理のこと]

オープンダイアローグというのは、フィンランドで実践され始めている精神科治療(主に統合失調症)のための技法で、堅苦しくいうと「急性期精神病における開かれた対話におけるアプローチ」というものらしい。ダイアローグとは対話という意味。
フィンランド全国でおこなわれているわけではなく、特定の病院だけでおこなわれている。病院に依頼の電話が入ったら、電話を受けたものが担当者になり治療チームを作り(病院内で医師とか看護師とか心理士をかき集めるらしい)、24時間以内に初回のミーティングをおこなう。(クライアントの自宅に医療チームがみんなして押しかけることが多いらしい)
ミーティング全体のメンバーは、本人(クライアント)と本人に関わる重要な人なら誰でもよく(家族・親戚・ソーシャルワーカーなどなど)、毎回そのメンバーでミーティングがおこなわれることになる。
このミーティング(話し合い)は、クライアントをどこかへ導くためのものではなく(つまり「治療」という概念でクライアントと対応しない)、「専門性を持ちながらも平等に話す」というだけのもの、なのだそうだ。クライアントの言葉をさまざまな方向から受け止め返してゆくので、効果はめきめきと現れているらしい。
この療法は国立の病院だからできるのだと思うが、人材、経費ともにたいへんだろう。
オープンダイアローグでは、統合失調症の方をおもなクライアントとしているので、話しの中では妄想なども当然出てくる。そうした妄想なども、カウンセリングとしては当たり前のことだが否定することなく丁寧に聴いてゆく。
基本はそのようなことで、つまり「みんなで傾聴!」ということになるように思うがどうだろうか。最新の情報はわからないが、日本では統合失調症には(一般的には)カウンセリングは逆効果でよくないと言われているので、オープンダイアローグとは全く反対のことをしていることになる。
じつは、知りあいのカウンセラーでも、ごく普通に統合失調症の方にカウンセリングをしていて、効果を出しているという。
オープンダイアローグのことを読むと、人は自分の心を聞いて欲しいのだということを改めてつくづく感じる。それから、グループダイナミズムのパワフルさを。

じみ〜〜に続いてます「月に一度は男の集い」 [カウンセリング・心理のこと]

去年の梅雨前後から始めたので、一年くらいになる。
毎回毎回「今日は参加者ゼロかも・・・」と思いながらやっていたが、
とりあえずはゼロの日は今のところない。(来月はゼロかもしれない・・・)

グランドルール、つまりこの場でのきまりを確認して、
(守秘義務の確認とかね・・・)
「何か話したいことがあれば、どなたでも」と振る。あることもあるが、
大概は話題が出ない。話題が出ないことは半分前提でもあって、
そのときは準備してゆく「ワーク」とよんでいる簡単な作業などをしてもらう。
たとえば・・・
「5歳の私の人間関係地図」
「一番思い出に残っている食べ物」
「自己紹介のための4つのキーワード」
「今日の気分温度計」
などなど・・・
そんな作業をしてちょっと自分を振り返り、そのなかから何かしら
自分の感じていること、思っていること、悩んでいること、ぶつかっていること、
抱えている悲しみ、・・・
「安全な場」だからこそ言えるそうした思いが語られはじめる。

締めくくりには、余裕があれば「自律訓練法」。
「重感」と「温感」だけではあるけれども、
それでも皆さん結構すっきりしてゆきます。

次回は 6月11日(土)です。

ついに参加者ゼロになるか???

なまはんか心理学(11)河合隼雄先生、魂を語る [カウンセリング・心理のこと]

私自身は、魂についてのオリジナルな考えを持っていない。
河合隼雄先生が言ってらっしゃることを書こうと思う。
下記、引用

・・・・・・・・・・・
無限の直線は線分と1対1で対応するんですね。部分は全体と等しくなる、これが無限の定義です。だからこの線分の話しが、僕は好きで、この話から、人間の心と体のことを言うんです。線を引いて、ここからここまでが人間とする。心は1から2で、体は2から3とすると、その間が無限にあるし分けることもできない。
(2の次の数は、2.0000000000000000000………… 、無限なので表記できないわけですね)
分けられないものを分けてしまうと、何か大切なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。
お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂というと。善と悪とかでもそうです。だから、魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にして見ることなんです。障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消して見る。
・・・・・・・・・・・・

『生きるとは、自分の物語を作ること』(新潮社)河合隼雄、小川洋子対談集からの引用。
河合先生は元々数学を専攻していた。小川洋子の作品に『博士の愛した数式』というのがあって、そんなことがご縁になっての対談だったらしい。
生きているものは、ある瞬間に生を受け、必ず死を迎える。その間の時間はある点からある点の間の線分と同じように始まりと終わりというか端と端がある。閉鎖された時間ということがいえる。
しかし、「無限の直線」が「線分」と「1対1」で対応するということは、限られた生の時間は、無限の時間と1対1で対応できるのではないだろうか。
現実には人生は有限なので、理屈といえばそうであろうし、詭弁といえばそうであろうと思う。
しかし、人生の瞬間瞬間に意味を感じ無限を感じ、あるいは深い愛を感じながら生きるとすれば、あながち詭弁とも言えないだろうと思う。

「聞かせて男の悩み」沖縄タイムス [カウンセリング・心理のこと]

当ブログにお立ち寄りくださいまして、誠にありがとうございます。(なんちゃって)
さて、ちょっと宣伝お願いになってしまいますが、・・・
ご縁がありまして、今月から沖縄の二大地方紙のひとつ「沖縄タイムス」に、
新規の企画「聞かせて男の悩み」というコーナーのアドバイスというか、
回答というか、相談受ける人をやらせてもらうことになりました。
男性から(女性でも質問があれば一応男性ということで大丈夫!!)の
お悩み(質問)を大募集中です。
ぜひお寄せくださいませ!!
質問がないとコーナーがつぶれてしまうので、個人的にはトホホになります・・・。
質問の送り先ですが・・・

メールなら   kurashi@okinawatimes.co.jp
ファックスなら 098-860-3484
郵便なら    〒900-8678 沖縄タイムス学芸部くらし班 男の悩み係 
                    (これで届くみたいです)

ちなみに、どのような感じか初回の分を載せましょう
(文字数の関係で、実際にはもうちょっと短くなっています)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<相談>
33歳会社員、営業職です。午前中にやれる仕事をやり、特別なことがなければ定時にはほとんど仕事を終わらせます。それに子ども(4歳)もいるので早く帰りたいのですが、同僚はだらだらといつまでも仕事をして、結局7時すぎくらいになってしまいます。早く帰りづらい雰囲気です。何かいい方法はないでしょうか。

<アドバイス>
 オンとオフをしっかり区切りをつけて生活しようという感じは素敵ですね。同僚の中には、独身でアパートに帰ってもひとりという人もいるかもしれませんし、事情があって遅く帰りたいという人もいるかもしれませんね。いろいろな状況を抱えた人たちが混じっていれば、全体として遅い傾向になるのは当然です。「今日は……」と何か理由をつけてとりあえず一度、頑張って定時で帰ってみてはどうでしょうか。悪いことをするわけではないですし。後輩にあなたが帰った後の様子などを聞いてみると、案外何事もなかったように淡々と過ぎていることが多いものです。
 お子さんは可愛い盛りですよね。何年か経てば小学校、塾や習い事で忙しくなるでしょうし、お子さんと一緒に過ごすこの時期はかけがえのない時間ではないでしょうか。仕事を中途半端にして人より先に帰るのはいかがなものかとは思いますが、しっかりと仕事をし終えて帰るようになれば「あの人はプライベートを大切にしているから」と周囲は見るようになるのでは。それに、そうした生き方、生活に同感する人もきっと出てくるように思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こんな感じです。
ぜひご質問お寄せくださいませ!!
よろしくお願いします!!


沖縄ドムスカウンセリングルーム やってます! [カウンセリング・心理のこと]

「・・・やってます!」などというと、冷やし中華を始めたラーメン屋のようだ。
それに「ドムス」などというのは、良さそうなそうでもなさそうな分譲マンションのようだ。
沖縄ドムスカウンセリングルームのブログを立ち上げなければと思っているのだけれど、とりあえすだいたいのことをここに載せようと思う。

カウンセリングは、今まで全く宣伝していなかっただけなのだが、口コミ・紹介などで連絡があると受けていた。
そうこうしていたのだが、最近必要があって
「沖縄ドムスカウンセリングルーム」という屋号をつけた。

屋号をつける必要があったひとつは、・・・
詳しくは書けないが、カウンセリングや相談を受けていると、男性の生きづらさをひしひしと感じさせられることが多い。男たちの、この袋小路に行き当たってしまった心をどうにかしないと、と思っていた。
それで、先月から「月に一度は男の集い」という男性限定の会を始めた。(先にブログに書いた)
この会の具体的な内容はまだまだ流動的なのだが、趣旨としては、心に抱えているものをお互いに話したり聞いたりする中で参加者に気づきが起こり、生き方やパートナーとの関係が自分自身によりしっくりくることをめざす、というようなこと。
ちなみに、この会のチラシをとある知り合いの精神科医に見てもらったら
「沖縄じゃあ誰も来ないよ・・・」と言われ
また別の精神科医に見てもらったら
「とても意味のあることを沖縄でやりはじめるんだね・・・」と。(※1)
とりあえずはまあまあな感じですべりだした。

クライアント中心療法でカウンセリングをやってきてはいたのだが、それに加えて、「タロットを用いたカウンセリング」(なかなかしっくりくる言い方が見つからない!)ということをやり始めたのも理由。どのようにやっているかなど、またブログに書く機会があるかもしれない。ないかもしれない。
タロットは当たるのか?などと時折聞かれるが、はっきり言って当たる。もっとしっくりした言い方をすれば、その人にその時必要なアルカナ(カード)が意味を持って出る。そういう点では、東洋の易によく似たところがあるように思える。
ついでなので書くと、このタロットを用いたカウンセリングのとてもいいなあと思うところは、カウンセリングの「敷居」をすごく低くしてくれたこと。
ちなみに、カウンセリングに占いを持ち込むのはいかがなものか、という声があるのも知っている。療法家の数だけ療法があるようなこの領域の中、タロット占いをしてそれをカウンセリングの話題提供に用いるのに問題はないでしょう。(むしろ、療法にかかわらずカウンセリングの質を問題にすべきなのでしょう)
もっと言ってしまえば、療法家・カウンセラーによっては「話を聞くのは大切だが、だからといって話を聞いてそれで何が変わるというのだ」と露骨にクライアント中心療法を否定する人もいるくらいなのですから。
ちなみに、このタロットを用いたカウンセリングは、ブリーフセラピーのひとつと認識しています。

好きな療法家としてはパールズ、それからアドラー、フランクルなど。
たとえば「実存主義」は、私の写真集『人間遺産』のサブタイトルとして書いている「あなたは宇宙が遺したかけがえのない存在だと思う」というメッセージに符合していてとても好きだ。クライアントにそういうことを感じてほしいと思わなくはないのだが、それは私のエゴであって、ただ私自身がそういう思いでクライアントと一緒にいたい思う。
パールズのゲシュタルトの祈りについても以前書いた。(なまはんか心理学、のどこか)
日本人では、児童精神科医の崎尾英子先生を尊敬している。崎尾先生のことを書くと長くなるが、すごいなあと思うところを簡単に言えば「人の言っている意味がわかる」ところ。

最後に「ドムス」の意味について書きましょう。
ドムスとは、ドメスティック(内の、家庭内の、などの意味)の語源で、ラテン語で「かまど」の意味です。火を囲むのが家族であったし、同じ釜の飯を食うのが家族でした。そこから派生してドムスとは「家族」の意味を持つようになりました。今はドメスティックバイオレンスという使われ方が多いのですが、ドメスティック、ドムスにはもっと温かいものがあります。
それに、糸満市摩文仁の「平和の礎」の前に立つと、かまどさんの名前の多いのに気がついたのもまた理由です。沖縄では、そんなふうに古くから「かまど」を大切にしていて重要な意味があったのでしょう。
「ドムス」は、そうした家族のぬくもり・温かさを大切にしたいという祈りを込めてつけさせていただきました。


なお、もしお問い合わせなどがあれば、
私のホームページ「人間遺産」http://www.ningen-isan.com
「手前生国は・・・」(プロフィールのコーナー)に載せている
携帯電話かメールでお願いいたします。











(※1)
アドラーはこういった。

 誰かが始めなければならない
 他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない
 わたしの助言はこうだ
 あなたが始めるべきだ
 他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく

ワークショップ「月に一度は男の集い」始めます [カウンセリング・心理のこと]

タイトルのような
「月に一度は男の集い」
という名前のワークショップを始めることになりました。
これに合わせて「沖縄ドムスカウンセリングルーム」のブログを
立ち上げようと思いましたが、間に合わなかったので取りあえず
個人的なブログにちらしのオモテ・ウラを載せてみました。
中身は読んでもらえたらわかる、と言ってしまっては身もふたもないので、
ざくっと言うと、
人間関係が(特にパートナーと)少し良くなったり、
もうちょと力を抜いて生きられたり・・・、
そんなことをめざすもの。男性向けのね。
7月以降も(8月はお休みで)、9月19日、10月17日、と続いてゆく予定。

最新の予定は、こちら


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なまはんか心理学(10)救世主って救われたい人なのね [カウンセリング・心理のこと]

このコーナー、とコーナーのせいにしてはいけない。小生がなまはんかなので、今頃「メサイアコンプレックス」ということばを知った。小生が下手な解説をするよりもいいと思うので、下記のものをとある所から引用させてもらった。※

=======================================
メサイアとは、メシア(救世主)の事であり、誰か困った人を見ると、一生懸命に助け船を出します。特に自分自身が不幸な状態から脱出したりすると、尚更、「世の為、人の為」に尽くそうとします。しかし、相手が胡散臭く思い、ありがた迷惑を感じていようとも、「自分がどうにかして上げねば…」と近づきます。この場合、本当に精神的に弱く、依存対象を探しているような人と出会うと、硬いタッグが組まれる事となります。それが「共依存関係」です。メサイアコンプレックスの人は教祖様のように崇められ、感謝され、自己愛が満たされていくでしょう。クライアントも依存対象を見つけられたので下僕として安心できるかもしれません。
しかし、メサイアコンプレックスの人の行為は、弱者を救っているかの様に見えますが、実は無意識の内に相手の自発性や生活力を奪い、人間性を奪うことに繋がっているのです。ですが、不幸にして相手も本人も気が付いていなかったりします。
========================================

こうした関係が起こりやすいのは、たとえば看護師と患者のあいだ。なんとなく想像がつく。もちろんそれに限らず、たとえば母親と子どもの間でも起こるだろうし、心理的なサポートをするような仕事や、ボランティア活動をしている人においてもまた起こりやすい気がする。

この言葉に引っかかったのは、とある人間関係を見ていてずっと不思議に思っていたことがあったからだ。理屈を知ってしまえばメサイアコンプレックス的関係とでも言おうか、共依存関係であることがすうーっと見えてくる感じがするのだが。
それにしても、その関係はなんと25年に及ぶらしい!!
たとえばクライアント(引用にならってこういっておきましょう)が20歳で「救世主」に出会ったとしましょう。そしたら、今は45歳。
たとえばクライアントが30歳でメサイアに出会ったとすると、55歳。
大人の時間のうち、これだけ長い時間をメサイアと過ごしたわけで、これからメサイアとの関係を変えてゆくには莫大なエネルギーがいると思う。
メサイアが死んでしまえば、その関係が終了する。(のかな・・・?)
ところが、このケースの場合、メサイアは何人もいる。(正確な数は知らない)
で、あるメサイアが死んだとしてもメサイアは再生産されるシステムになっている。(たぶん)
ということは、このクライアントは死ぬまでメサイアの自己愛を満たすための奉仕活動をすることになる、ということなのだろう。
また、このケースの場合、なぜメサイアたちがメサイア(救世主)になったのか?にはちゃんと理由があるのです。それは、メサイアにもメサイアがいたのです!!!
だから救世主は本家メサイアをコピーしているにすぎないというか、ひな形にしているというか、こういう在り方がいいのだと自然に身につけているというか。
この本家の救世主ももちろん自分がメサイアであることには気がついていない。といいたいところだが、本家の救世主は心理関係の仕事をしているので、ひょっとしたら気がついているかもしれない。もしそうだとしたら、さすがにメサイアなどではなくデビルになってしまうわけだが・・・。











※メンタル・サポートNetwork

なまはんか心理学(9)EMDR・「キョロキョロ」ってどういうことかな [カウンセリング・心理のこと]

過日、心理療法家の友人M氏の紹介でEMDRを療法として開業しているT女史にあって、それを受けた。
EMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing)というのは、よくわかんないけど、目を動かして感度を鈍らせるように再処理する、みたいな意味だろうか。PTSDに非常に効果的なのだそうだ。学会もあるし、そのホームページもあるので、詳しく知りたければそちらを見るのが正確で早い。
実際に体験させていただいたT女史のお姉さまがわかりやすくいうには・・・
PTSDというのは、いわば記憶の瞬間冷凍のようなものなのだそうだ。強烈な体験の記憶がガチガチに瞬間冷凍されたままいつまでもそこに存在する、ような感じ。それってどうも具合が悪い。それで、まずはその冷凍記憶をいちど解凍してしまおうというわけだ。どうやって解凍するかというと、右脳と左脳に交互に刺激を与えると解凍するということが解っているのだそうだ。(もちろんそこでプロの療法家としての技が必要なわけだが)
それで、その解凍された記憶を、煮るなり焼くなり、ぶつ切りにしてどこぞに捨てるなり好きなやり方で処分する。すっかり始末が付いたら、頭の中で後片付けをして、はい終了・・・となる。
というようなこと。なるべく正確にと書いたつもりだが、間違っていたらごめんください。じゃなくて、ごめんなさい。
僕が受けたとき、どんな体験をまな板の上にのせたのか書いても差し支えないのだが、ビロウな話なので具体的に書くのは差し控えたい。
で、お姉さまからいわれるままに、映像やらを思い浮かべながらお姉さまの手のガイドに従って眼球を左右に動かす。僕の表現としては「目を左右にキョロキョロ動かす感じ」になる。
心理療法家の友人M氏からのメールでは
・・・・・
EMDRの眼球運動がなぜ効くかについてはまだ判っていないながらも、両側性刺激(左右にリズミカルな刺激)がよいとされていますから、イコール「キョロキョロ」(左右にリズミカルというよりちょっとランダムなニュアンスがある)と同じかはよくわからないです。・・・
・・・・・
と。このリズミカルな感じかランダムな感じか「キョロキョロ」のとらえ方に微妙な違いがあるようではあるけれども、ちょっと保留にしておきましょう。

話すときに目をキョロキョロ動かすのは嘘をついている証拠、などといわれるが、それは一般的にはうまいこと言うための言葉を探すというのはもちろんだと思うのだが、ひょっとしたら、加えてEMDRの理論と関連が出てくるのではないか、というのが僕の予想するところなんですが。
というのは、冷凍記憶を解凍するというのがこの場合の作業なら、「嘘をつくのはよくないと思いながら嘘をついている」という自分の心を護るためには、

嘘をついている→心に辛いものを感じるなあ→心が病気になりそうだ(凍結されそうだ)→この辛さをどうやって処理しよう→そうだ!「凍結されながら解凍」してしまえ!→目をキョロキョロさせたらいいだったな→右脳と左脳に交互に刺激がゆく→嘘をつきながら辛い気持ちが処理される

ということが自動反応的に瞬時に行われていると考えると、嘘をつきながら自分の心を護るということをするには、目をキョロキョロ動かすというのは、ちょっとは理にかなった行動に思えるが、どうであろうか。M氏からのメールには次のようにも
・・・・・
嘘をついている人がキョロキョロする場合、それがEMDRの機序と同じかは判りませんが、脳のいろんなところにアクセスしてうまい嘘を作り出そうといういわばクリエイティブな脳内活動をしているわけだから、目が動いているのだと考えれば、確かに須藤さんの書いておられるように、EMDRと似ているかもしれないですね。
・・・・・

T女史のEMDR療法を受けたときに、セッションの締めくくりに「T女史の指の動きを思い出すと、それで不快なことが完了する」ということをした。それ以来、ミニミニいやなことがあったときに、T女史の指が目の前を左右に動くのを目の前に映像化して、それを実行すると、なんとなくそのいやなことが小さくなる。

ところで、昨日の昼にM女史と沖縄そばを食べた。M女史は沖縄そばが大好きで、それにふーちばー(よもぎ)を入れるのがまた好きらしい。食べている最中のその不乱な目に嘘はなかった。





広辞苑が70ページだったらどんな感じかな [カウンセリング・心理のこと]

日本語は、単語の多い言語といわれている。どのくらいいっぱいかわからないが、特に感情表現の言葉が多いといわれる。ほかの言語の感情表現がどのようなものか僕は知らないので、今ここでの比較はできない。
しかし、たとえば「私」を言うにしても、俺・自分・拙者・小生・あたし・あたい・あちき・あっし・おいどん・儂(わし)・われ・わ(津軽方言)・わん(沖縄方言)・・・、ってなぐあいにたくさんある。
で、どの単語も同じような頻度で使われるかというと、あたりまえだけどもちろんそうじゃない。頻度の高い単語はとっても頻度が高い。そして、数が少ない。逆に、頻度の低い単語はとても頻度が低く、そうした単語の数自体は多くなる。頻度が少ないのは広辞苑ぱらぱらすれば、いっぱい見つかると思う。
今ちょっと思いついた単語なのだが「備忘録」。メモ帳のこと。ずっと前だけど、友だちと話していて、たまたまこの備忘録というのが口をついて出たんだね。そしたらその友だちに「おまえはいつの時代の人間か!?」ってびっくりされてしまった。自分でも何かの間違いで今の時代を生きてるのかなって、ちょっと思ってしまった・・・。
そうした一生のうち一回使うかな、たぶん使わないだろうなって思う単語が日本語にはいっぱいあって、そんなに使わないんだったら、じゃあそれをなくしてもいいかって言うと、そうなると困る。
「私」は窮屈でしょうがない。
じゃあ、なぜ英語では「アイ」しかなくて済むのか、僕は知らない。…あいすいません。
で、こういうことを長く書きたかったわけではなく、そんな無用に思えるものが、必要なのだ。僕が言っているわけではなく、老子先生が言っている。バカボンのパパも言っているのだ。
道が、自分が歩く足跡分しかないのだったらどうだろうか、というようなことを老子先生は言ってます。
広辞苑が70ページくらいになったらどうだろうか。

全く関係ないが、藤田まことがこんなことを言っていた。
「道を歩くときは、端の方を、貸してもらう気持ちで歩きなさい」
道をそれてしまった。それていいのだ。




道は歩くものなのだ! [カウンセリング・心理のこと]

『老子』を読んだことがあるわけではないし、これからも特に読む予定はないけどね、ちょっと知る必要が出てしまった。で、仕方がないから、ひとつには『マンガで読む中国の思想』のようなものをめくった。ほかには『くまのプーさんののんびりタオ』とかも。それに『バカボンのパパと読む「老子」』(ドリアン助川著)。オレとしては土理庵先生がおすすめ。
でね、読んでいるとね、たとえば「上善は水の如し」日本酒の銘柄としては知っていたけど、出典は老子だった。大器晩成などという言葉もここからきているんだよね。「柔よく剛を制す」などというのも。
そうそう「無用の用」なんていうのも出ていて、まあ、うちのブログのようなものとでもいいましょうか。いやいや、うちは無用の無用でしたか・・・。

「無為自然」は老子の中でもとても大事な考えのようなんだよね。でね、『バカボンのパパと…』に出ていたわけではないけど、オレがね、無為自然を平たく言い換えるとどうなるかというと
「これでいいのだ」
になるんだよね。バカボンのパパは、ほんと哲学者。
それから、これは土理庵先生の本に出ていたことだけれど、バカボンが言うんだよね
「原っぱにほおって置かれている土管の中は無限なんだよね」って。(細かいところ間違ってたらごめんなさい)
なんかわかんないけど、そうそうそんな感じって思っちゃうんだけど、オレって変かな。

でね、老子というと、道・タオ・TAOとどう言ってもいいけど、やっぱこれがないとね。
詳しくは老子を読んでもらうしかないんだけど、どうも、これが道だ、と言ってしまったらそれではなくなってしまうようなんだよね。だいたい、そんなふうにいえないし。不思議だよね。
オレのねイメージではね、野原のどこを歩かなくちゃならないとかなくて、好きに歩いたらよくって、それで、そこに咲いているタンポポを踏みつけながら歩くのか、愛おしくよけながら歩くのか、そんな違いな感じ。……よくわかんないよね。
違う見方をすると、ちょっとだけ気功道場みたいなところに行ったことがあって、そこの人がいうには、気の通るところは解剖学的にはないけど、ある、っていうんだよね。……ますますわかんないよね。
頭おかしくなっちゃうよね。

今日はこれまでなのだ。


これでいいのだ!





※ DJホットマンにちょっと頭をホットにされたうえに、バカボンのパパに頭を乗っ取られた口調で遊んでみたのだ!

なまはんか心理学(8)チームタカクラの石巻での足湯・カフェ活動の報告 [カウンセリング・心理のこと]

僕は日本カウンセリング学会というところの会員で、そこの認定カウンセラーというのになっていて(役に立ったことないけど)、で、認定カウンセラー会というのがあって、そこにいくつかの部会があって、そこのコミュニティ部会というのに顔をたまに出していて・・・。下記のものは、そこに提出した報告書です。報告書を出せと言われた訳ではないのだけど、交通費や宿泊費に認定カウンセラー会からいくらかの補助をいただいているので書いてみようと思ったのでした。
「ケアをする」というのと「マッサージをする」というところを、混同しないでいただければ幸い。
この報告書を書いたのは今年の7月ですが、現在は福岡県に住んでいるので、さすがに距離があって、僕自身は休止中。もし興味があれば、埼玉カウンセリングセンターまで。


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  2013/7 認定カウンセラー会 コミュニティ部会 報告資料 

   チームタカクラの石巻での足湯・カフェ活動の報告(※1)
      〜危機支援からコミュニティサポートへの移行の観点から〜


                     コミュニティ部会 須 藤 尚 俊(※2)


 私たちがおこなっている石巻での足湯・カフェボランティア活動は、震災の年の9月からですので、もうすぐ二年になります。慌ただしく一年目が過ぎ二年目もあっという間でした。何人に足湯をしたとか、どのくらいその場に来てお茶やコーヒーを飲んでいってくれたとかのデータもありますが、この報告ではそうしたことよりも、どのように関わってきたかを中心に報告したいと思います。これまでは危機支援としての観点からのアプローチでしたが、今後はコミュニティへのアプローチがさらに重要になってくるように思えます。そうしたことをふまえ、今までの活動を報告するとともに、コミュニティへのアプローチを考えてゆく参考になればと思っています。
 また、この報告はこの活動においての私自身の来し方を振り返り、そして、行く先を改めて見定める意味合いも多分にあるように思われます。そういう意味でも、諸先輩方のご鞭撻を頂戴できればたいへん幸いに存じます。
 尚、認定カウンセラー会に援助をいただいていること、その源になる皆さまお一人おひとりに深く感謝申し上げます。

                    ***

 この活動の提唱者で中心になってやってきた高倉恵子さん(※3)は、最初はキャンピングカーに、炊事道具やシュラフやら、キャンプ道具一式と足湯の道具を詰め込んで「とにかく石巻へ」(※4)という思いだけで、自分たちがそこのどこに行こうとしているのか、どうなってゆくのか想像もつかないままの出発でした。とにかく石巻に行かなければ、という思いに突き動かされての行動でした。石巻に行ってどうしたらいいのか、どうなってゆくのか、全く先が見えないままでの出発だったのです。

                    ***

 まず、私たちが「足湯」を実際どのようにやっているかを少し書かせていただきます。
 仮設住宅の集会所におじゃまして、ビニールシートを敷き、折りたたみ椅子、足湯用のたらい、ハンドクリーム、タオルなどを準備します。深くかけられる折りたたみ椅子にゆったりとかけていただき、ほどよい温度のお湯に足をつけていただきます。芳香入浴剤も少し入れます。どうしても殺風景な感じがぬぐえない仮設住宅の環境では、これを入れただけでも「いい香りだねえ」などと喜ばれることがよくあります。やる人によって多少の違いが出てきますが、私は、失礼しますねとおことわりをして、お湯につかっていただいているまま土踏まずや足の指などをごく軽くもむことから始めます。
 足をケアした次には、手・指のケアに移ります。左手の小指から一本一本揉みほぐしてゆきます。また、指と指の間の水かきというのでしょうか、そこも揉みほぐします。それから、手のひらを開くようにして手のひらのあちこちのツボを押します。専門家ではありませんからツボの位置が詳しくわかるわけではありません。相手の様子をうかがい、また、「このあたりはどうですか?」と丁寧に聞きながら行います。最後に手の甲から腕にかけて優しくさすりあげてゆきます。時間的には手に触れている時間が一番長いことになります。
 ひととおり終える頃には、足湯の熱がじんわりと全身に廻り、こわばった指の一本一本がほぐれてきます。そんなとき、椅子の上の顔もゆるみ心の中の何かも少しほぐれてきているような、そんなふうに感じられることがよくあります。
 手をもんでいる間、実際顔と顔が近くなりますので、ため息と一緒に出てくるようなささやきやつぶやき、そんな心の底によどんでいたような小さな声も私たちに響いてきます。そうした吐露に静かにしっかり寄り添うとき、被災した方々の問わず語りが出始めることが多いようです。そして、語られる言葉の一つひとつに、肩を並べて芝生に腰を下ろすように心を寄り添わせてゆきます。
 最近は、最後に肩をもませていただくようになりました。全くの私事になりますが、ご年配の方の細い肩に手をかけながら、お母さんにもっと親孝行してやりたかったなあと、母が思い出されてしまうことがあります。親不孝の償いをしているような気持ちになっている自分がいたりします。

テーブルには少しばかりですが茶菓子を出しておきます。日本茶かレギュラーコーヒーの希望を聞いて飲み物を出します。年配の方が多いのですが、コーヒーを頼まれる方が案外と多いものです。足湯を待つ間、また、終わってゆっくりしながら皆さん方でお茶とお菓子で世間話を楽しんでゆきます。住んでいた地域が違っていても、そこは同じ石巻の人たちで、話始めれば話題はつきなく、お話の時間を楽しみにいらっしゃる方もたくさんいて、人によっては月一回の大切なコミュニケーションの場になっているようです。そういう意味では、実際にコミュニティサポートとしての役割を担ってきた面もあるようです。

                    ***

「なぜカウンセラーが足湯なのか」「カウンセラーが足湯でもあるまい」という声がこの認定カウンセラー会の中からも聞こえます。カウンセラーですから、カウンセリングを本道として、それ一本でやるというのはすばらしいことだと思いますし、本来そうあるべきなのかもしれません。
 私の技量がもっとあれば問題はないのかもしれませんが、こうした環境での継続的なカウンセリングというのは、こちら側の制約も厳しいものがあり、被災した方々にしても敷居がとても高く感じられるのではないでしょうか。
 私たちチームタカクラは、被災した方々に寄り添うために足湯をすることを選び、足湯を入り口にして心を聴き心に寄り添うということをしてきました。そうして一人ひとりの精神的自立をめざし支援してきました。傾聴に重きを置いた個々を大切にする関わりに心がけ、アセスメントをチームとして共有しながらの関わりを、次にお会いしたときに生かしながら継続してきました。
 たかが足湯と思われるかもしれませんが、ここで継続してきた結果として生まれたコミュニケーションは、確かなものになってきているという実感があります。
 また、被災者に限ったことではないと思いますが、カウンセリングが必要であろう方々の中には、はなから受けつけようとしない方がたくさんいるのではないでしょうか。仮設住宅では、とても強くそう感じられてしまいます。私たちの足湯活動は、多少なりともそうした方々を丁寧に掘り起こすことにも役立っているように思えます。

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 足湯をしながら、被災した方々それぞれの物語が聞くともなくよく語られますが、その体験は人それぞれに重いものです。
 ある女性は「私は娘を一人家ごと流されたけれど、小さい子をふたりも三人も流された人もいるから、私はまあよかった方だと、我慢しなければならないと思うよ・・・」ということをいってらっしゃいました。70代とお見受けしましたので、娘さんは40代くらいだったのでしょうか。自分よりも大事だろう娘さんを流されて、それでも「これでもまだよかったほうだから・・・」と自分自身を納得させようとしていらっしゃるのを、私はただ胸を痛めながら聴くしかありませんでした。
 あるひとり暮らしのおばあさんは新しく建つ復興住宅に当たりましたが、それを素直に喜べないでいました。同じ仮設住宅には当たらなかった人もいます。それに、知人のほとんどいない仮設住宅でやっとささやかな人間関係を築いたのに、復興住宅でまた一から作り直しです。年老いてからの新しい人間関係作りは大変です。そうしている間にも、だんだんと体が不自由になってゆくだろうことを思うと不安が募るようでした。
 卒寿を越したあるおじいさんは、こんなことを話してくれました。「みんなここでの生活が大変だ大変だっていうけど、おれはシベリアに何年もいできたがら、ここは何でもない。そんなこと誰にも言えんけどな・・・」無口なおじいさんですが、最近は表情も和らぎ、そんなことをもらしてくれるようになりました。
 ある60過ぎの女性の方は、話の折に「私は、だんながまだ見つからないから・・・」ともらしました。一瞬寂しそうにしたものの、あまり表情を変えずに話すようすに、かえって悲しみの深さが感じられるのでした。
 被災したといっても、一人ひとり体験は違いますし、一つひとつ例を挙げればきりがありません。一見境遇が同じように見える仮設住宅の人たちには話せないようなこと、第三者としての私たちにだからこそ話せることもあります。活動を続けてきて、近頃やっと話しだしてくださる方もいらっしゃいます。あれから時間が経った今だからこそ話せる話も出てきます。それに、時を経た今になって出てくる孤独感や悩み、そうしたものを私たちに話してくださることもあります。
 毎月地道に通ってゆくことで、そうした人間関係・コミュニケーションが築かれたわけですが、これは新しい資源であり、これを基にしてさらに共同体感覚を高められるような関わりにしてゆきたいと思うのです。

                     ***

 仮設住宅団地は、様々な地域からの寄せ集め的な人間関係、人それぞれに違った被災状況、それに、プライバシーが保たれにくいということなど、人間関係を築きにくい条件がたくさん重なっています。あらぬ噂がたちやすく、それがまた関係を築きにくくし、ということが起りやすいようです。
 このような状況だからこそ、息づいているコミュニティ作り、共同体感覚を持てるようなコミュニティ作りが求められているように思えます。少なくとも、今関わっている仮設住宅団地では、コミュニティへの働きかけ次第ではコミュニティのもつダイナミズムが動き出し、より強い共同体感覚が生まれ、個々人の精神的自立をも促進できるのではないかと思えます。
 活動を始めてから2年が経とうとしている今、個々を支えることと同時に、地域で支え合うことを支えるということも求められているように感じます。このような段階の今だからこそ、チームタカクラとしてコミュニティという視点に重きを置いたサポートが必要なのではないかと思います。

              ***

 南海トラフ巨大地震が遠からず起こると言われているこの頃。今日起こっても不思議ではない巨大地震に、カウンセラーとしての私たちは、いったいいま何をどのように準備しておいたらいいのでしょうか。
 次の大地震を待たずとも、私たちは日々危機にさらされています。たくさんの自死をしてしまう方、自分の本意ではなくとも子どもを虐待してしまうお母さん、不慮の事故に遭ってしまう人・・・。朝家を出かけ、夕方家に帰ってくるのは、決して当たり前のことではないという現実。私たちもそうした危機を潜在的に抱え、それでもなお、カウンセラーとしての生き方を選択しました。
 そうした中で、人は一人では生きてゆけないという当たり前のことを、どのように伝えていったらいいのでしょうか。自分を支えてくれる共同体感覚、あるいは生きる意味を、どのように形成したらいいのでしょうか。カウンセラーとしてどのようにサポートできるのでしょうか。
 石巻に通いながらも、私自身はまだまだ手探り状態です。被災者の方からは教わることばかりです。現場で一人ひとり足湯をさせていただきながらコミュニケーションを重ね、次のステップを探ってゆく、それが私にとっては今できることのようです。
 今までは、おもに危機支援という観点から石巻で足湯とカフェの活動をしてきました。しかし、チームタカクラが関わっている石巻の仮設住宅団地は、目の前の危機を乗り越えるということから、息づいたコミュニティが必要な段階のように見えます。人が人らしくあるために、精神的自立を支援するために、コミュニティを視野においての活動が非常に重要になってきていると感じられるのです。








☆ 私自身は、3.11当日は仕事で中米ニカラグア共和国に滞在しておりました。宿泊していたところのテレビでCNN緊急速報を見たのが第一報でした。この活動には帰国後の参加になります。
☆ カウンセリングでは、ほとんどの場合相手の身体に触れないので、足湯のように直接身体に触れることに違和感を感じるカウンセラーが少なくないように思います。しかし、臨床動作法などは直接顔や身体に触れますし、必ずしも触れない訳ではありません。また、足湯の本来的な意義は、その人の中にあるその人が本来持っている力に働きかけること、とも言われています。そういう意味では、カウンセリングと足湯は、非常に近似しており、カウンセリングのひとつのあり方として足湯があるとも言えるのではないかと思います。

※ 1)チームタカクラという呼称は今回便宜的に使いました。「石巻班」と用いたりしていますが、ほかの方々が別行動で石巻で足湯をすることがあってももちろんいいので「石巻」「足湯」を独占している感じは避けたいと思いました。それに、被災地支援活動は、さまざまな内容・方法があって当然だと思いますが、このチームはこのチームなりのやり方でやろうという意味合いでもあります。
このレポートはチームタカクラの石巻での足湯・カフェ活動の報告ではありますが、高倉さんの了解を得て個人的に書いた活動報告です。また、認定カウンセラー会の補助金に対しての活動報告書ではありません。
※ 2)須藤尚俊(すとうなおとし)フリーのフォトグラファー、エッセイスト
H.P.「人間遺産」は人間遺産で検索  ブログ「壺の中」は壺の中・須藤で検索かH.P.から
※ 3)高倉恵子(たかくらけいこ) 埼玉カウンセリングセンター主宰
H.P. 埼玉カウンセリングセンター で検索 
※ 4)高倉さんは振り返ってこんなふうに話してくれました。石巻は被害が非常に大きかったにもかかわらず、報道が控えめで被災状況がわかりにくかった。実際に行って見て感じることが第一歩だという思いで石巻になった。また、石巻ではボランティアを必要としていながら手が足りないところが多いのでは、・・・そんな直感もあった、と。

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