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コミュニケーションということ、あるいは実存的孤独 [カウンセリング・心理のこと]

4月から6月までだいたい隔週で計6回の「カウンセリング技法に学ぶ コミュニケーション講座」というものをすることになった。それで、アサーショントレーニングの本とか、コミュニケーションに関わるものを少し読み直そうと思った。図書館から何冊も本を借りたのだが、その中に『孤独であるためのレッスン』(諸富祥彦著)も借りてきていた。
頭の中に「コミュニケーション」があって、手に取るものが「孤独のレッスン」というのは、いかがな回路になっているのかと自分の事ながら思ってしまう。
諸富先生は、ムスターカスの概念を引用して「実存的孤独」と「孤独に対する単なる不安にすぎないもの」とを重要な違いとして説明している。前者の方を「人間の本質に目覚めていることの証であり、生の動乱や悲劇、変転に直面して行く際育まれるものである。この世に生まれ、激しく生き、ひとりで死んでゆくことの本質にある孤独が、実存的孤独である」と説明している。(なんだか難しいね)言い方を変えて「実存的孤独とは、人がひとりで生まれひとりで死んでゆくこの悲劇にもかかわらず、激しく生きなくてはならないという人生の本質に目覚めながら生きてゆくこと」と言っている。(やっぱり難しいね)

小学生の頃、学校の帰りに友達と道草を食いながら帰ったものだった。交差点で誰が勝ったらどっち、誰が勝ったらどっちに行く、と決めてじゃんけんをして一番先に家に着いた人が勝ち、という遊びをしたことを懐かしく思い出す。誰も一度も家に着いたことはなく、誰からということもなく遅くなりすぎたのでやめようといって終わりになった。この遊びは、私のお気に入りだった。楽しかった。
それ以上に身体が覚えているのは、ひとりで帰る時間だった。ひとりでつまらないというのでもなく楽しいというのでもなく帰るあの時間は、世の中からほったらかしにされる最初の体験だったわけではないが、まとまった体験としては初めてのことだったと思う。
大人になって都合5年くらい、カメラを持って海外をほっつき歩いていた。ほっつき歩いた時間は、ほとんど糸の切れた凧のような状態だった。
小学生が大人というかそんなようなものになり、学校の帰り道がチベットやラオスやボリビアやサモアとかとかになっただけのことで、ほとんど何も変わりがない。
諸富先生のこの本の表現を借りれば「・・・ひたすら砂や粘土をいじくったり、長い時間ボーッと列車を観ていたり、といった体験の中で、子どもの想像力や創造性は育っていくのです。」(大人の私はひたすら写真を撮っていたが、何かが育つには遅すぎだったかもしれない・・・合掌)

ひとりでいることが怖いので、そうならないために話し続けるというのであれば、それは心の中に巣くう恐怖の火に薪をくべ続けるようなものなのだろう。
コミュニケーションをとるということは、人前でじょうずに話せるとか、会議で説得力のある話ができるとか、英語力が高まったとか、そういうことではないのだろう。たとえば、受容し合える関係を作ることと言えるような感じもするし、また、しっかりと孤独に生きてゆくためだという気もする。











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