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アフガニスタンに入りかけたところで肝炎を発症してやっとの思いでペシャワールに戻った [旅のこと]

長い旅をしていた20代の頃のこと。
パキスタンのペシャワールには長いこと滞在していた。長居していたのは、僕にとっては居心地のいい、適当に古く、適当に雑然とした町だったからのように思う。(最近ペシャワールに行ったという友人に聞いたら、今も全く変わっていないとのことだった。「全く」を強調していた)
長居していた安宿でジャーナリストのM氏と出会うことになった。M氏はアフガニスタンとのパイプがあって、パイプというのはムジャヒディン側で、ペシャワールで暮らすアフガン難民やあっちとこっちを行き来するムジャヒディンたちにだいぶ顔が利いたようだった。(そういえば、M氏の紹介で知る人は知る田中光四郞さんが拳銃を構えている写真を撮らせてもらったことがあった。話しはそれるが、地雷を踏んでなくなった南条直子さんともこの安ホテルで話したことがあった)
そのM氏からアフガニスタンに取材に行かないかという誘いを受けた。もちろんお金をもらっての取材ではなく、ルートは手配してやるから撮ってきた写真で元を取って、アフガニスタンの現状を伝えて欲しい、ということだ。
僕の知っているアフガニスタンは、尊敬する写真家のひとりである東松照明の『泥の王国』という写真集に凝縮されていた。東松照明のあの視点はなんと言ったらいいのかわからないが、人も風景も暮らす町も、僕の胸には沁みる。(あるときアサヒカメラに載っていた桜の写真が目に入り「あ、東松さんの写真だ」と思って名前を見たら東松さんの名前があったときは嬉しかった)
好んで物騒なところに行きたいわけではないが、そんなアフガニスタンには興味があった。
それで、ムジャヒディンに同行してのアフガニスタン行きを決めた。
みぞれが降り始めた頃だった。
そのころからいまいち体調がよくなかった。風邪気味な感じで、出かけるまでには治さなければと思っていたが、治らないまま出発することになった。
アテンドしてくれるムジャヒディンがいて、彼とバスを乗り継いだりなどなどして、デポに着いた。デポというのは、武器庫というか補給基地というかそのようなもので、実際にはただの小屋にしか見えないが、そこにしばらく滞在することになった。諸般のタイミングをみてアフガニスタンに行くのだ。
デポはどの辺りにあるのか全くわからなかったが、パキスタンとアフガニスタンのほぼ国境あたりで、パキスタン側であったろうと思う。ムジャヒディンたちとそこでしばらく暮らすことになったわけだが、僕の体調は日に日に悪くなっていった。
尾籠な話しで申し訳ないが、ある朝大便をしたら、それが真っ白だった。そんな現実を見て、やっと風邪ではないと知った。
目も真っ黄色いことがわかった。疑いようもなく肝炎だった。このままここにいて治るのを待つか、ペシャワールに帰るか、を選択しなければならなかった。そりゃ、帰る方を選んだ。
帰るといってもひとりで帰ることができないので、最後のバスに乗るまではまた誰かの手を借りなければならない。
悪寒と脱力、最悪な日々だった。
途中までムジャヒディンにアテンドしてもらい、最後のバスを降りペシャワールに戻ってきた。
ひとり、前と同じ安宿にたどり着いたときには、疲れが噴出した。
しばらくバナナと水をとるだけで、薄いベットに張り付いていた。



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トルコのチャイ屋では僕は超能力者だった [旅のこと]



トルコでは、「地球の歩き方」には決して載ることはないだろう小さな町でもよくバスを降りた。
町のたたずまいや、どんなふうに人は生きているのだろうかと思い、いつもいくらかの期待を持ちながら降車したものだった。
明るいうちであれば、何はともあれチャイ屋を探して休む。
田舎の町に限らず、トルコではそこここにチャイ屋がある。トルコのチャイ(紅茶)は、ほとんどの場合小さなグラスのカップに砂糖の多い紅茶がでる。熱い紅茶を受け皿に注いで少し冷まして飲んだりもしていた。
チャイ屋にはたいがい正方形のテーブルがあり、それを囲んで人生の先輩たちがカードゲームをしている。全国的によくやっていたのはセブンブリッジのようなゲームだった。
僕はその隣の正方形にひとりで座り、チャイを飲みながら男たちをなんとなく見る。
ゲームが終わったタイミングで、エクスキューズを入れてちょっとだけカードを貸してもらう。
貸してもらったトランプをシャッフルして一人にカードを「一枚」引いてもらう。
我が輩がそれを当てる。トルコ語でたとえば「ダイヤの8!!」のようにもっともらしく言うと、それを見ていた男たちは「オッー!!」と驚き、歓声を上げる。
もう1回やってくれなどと言われるが、超能力だから1回やるだけでもものすごいパワーを使うからもうできないと言って丁重に断る。決してばれるといけないから、ではない。
男たちはゲームに戻り、僕は僕の正方形にもどりチャイの残りを飲む。

勘定してもらおうとレジにゆくと、店のおやじは手を後ろに組んで首を横に振る。
お代はいらないというのだ。
あそこの人たちが払ってくれた、と嬉しそうにさっきのテーブルを指さす。
男たちのテーブルに行ってお礼を言うと、男たちは口々に「凄かったぞ」「明日も来いよ」などといいながらこれまた嬉しそうにしている。
僕は曖昧な返事と曖昧な笑顔を浮かべて店を出る。明日はもういないと思いながら。





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イエメンの濁流 [旅のこと]

首都サナアのYさんやSさんのところに居候をさせてもらいながら、国内のあちこちに撮影旅行をしていた。

そのときは、昔の南イエメン側、それもだいぶオマーンに近い方に撮影に行っていた。
おんぼろなバスで変わり映えのしない茶色の土漠の風景を、ひたすら東へ向かっていた。路線バスはエアコンなどあるわけなどなく、風がないよりはいいので、熱風を受けながらペットボトルの水を飲み続けていた。
村もないところでバスはゆっくりとため息をつくように停止した。何事かと前方を見るとトラックやバスが列をなして停まっている。
乗客たちはぞろぞろとバスを降りて先の様子を見に行く。バスやトラックや乗用車が30台ほどもずらっとならび、その先には、上流のどこでどれほど雨が降ったのかわからないが、低い地鳴りをたてながら濁流が流れている。川幅は50メートルほどもあったろうか。

ワディ(川、枯れ川)に水が戻ったのだ。枯れ川というのは日本人には少しわかりにくいが、乾季などの雨がない季節には全く干上がってしまい(そうである方がほとんどだが)、ごくまれにこうして流れが戻る川のこと。ふだんは流れがないので、橋を架けたりせずに川底を横切って通る。

濁流ではどうしようもない。流れが退くまで待つしかない。
足止めを食らった人々の多くが、することもなく珍しい濁流を眺めていた。
すると、川の向こう側から、二十歳前後とおぼしき数人の若者が、叫声をあげながら渡り始めた。
それにつられるようにして、こちら側からも向こう側からも若者たちが、おれが一番に渡りきってやると言わんばかりに騒ぎ立てながら渡り始めたのだった。
流れの中程にもさしかからないうちに、若者たちは濁流に足を取られ次々と濁流に流され、あれほど騒ぎ立てていた声も濁流に沈んだ。あっという間のことだった。
流されながらもたまたま岸に押しやられ、近くの灌木につかまることができた者もいた。流された者の中には、見ているうち空をつかむようにあがいていた手が沈み、うつぶせになりそのまま流されていった者もいた。

騒動がおさまり人々がバスに戻り、戻ってきた老人のひとりが
「二人死んだ」と言っていた。

アラビアでは、「水がなくて死ぬことよりも、水で死ぬことの方が多い」という言葉があるやに聞いたことがあった。




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