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幸せですか、と問われ…… [いろいろ思うこと]

江戸時代なのだろうと思うのだが、家が貧しく女郎屋に売られたある女性の句でこのようなのを聞いたことがあある。

恨むまい、恨むまい、これも我が選びし道  

正確ではないかもしれないが、このような韻であり、意味だった。「売られた」境遇で、それでこのように詠むのかと思うと凄みを感じる。自分から選んでこのような状況になったわけではないのに、それでも「我が選びし道」と言い切れるこの感じは、私には強烈だった。
曲名は知らないが、戦後の頃の曲に「♬こんな女に誰がした〜」という一節があったが、そんなふうに人のせいにしてしまいたいところだが、「我が選びし道」と他を寄せ付けないところに、何とも言えないものを感じる。

先日、
「いま、幸せですか?」
とひとに聞かれた。
そんなことを聞くのはさだまさしくらいだろうと思うが、まあ、実際聞かれた。
そう聞かれて、

幸せも 中くらいかな おらが秋  (おそまつ)

と一茶先生の句をもじって答えた。

不満や納得できないことや辛いことなどは、たくさんある。
「おれって、不幸だな〜」などとは思わないが、かといって、
「おれって、幸せだな〜」でもないだろうと思う。
幸も不幸も安物の物干し竿の上で戯れているような感じがする。

ちょっと前のことになるが、ラジオに自称「忍者」が出ていた。
忍者はサイドビジネスで経営コンサルタントをしているということだった。
(忍者の方がサイドビジネスかもしれないが)
その忍者が言うには、

「何か不都合なことがあったら、『それはちょうど良かった』と言葉にして言ったらいい」

というのだ。
そう言葉にすると、脳がちょうど良かった理由を探す、というのだ。
なるほどね。

幸せだ、と言ったら幸せである理由を探すだろうし、
不幸だ、と言ったらきっと不幸な理由を探し出すのだろう。

それにしても「我が選びし道」というのは、幸、不幸を超え、自分の人生を生きているからこその凄みなのかもしれないなと思う。
とりとめのない話になったが、「ちょうどよかった」。



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アフガニスタンに入りかけたところで肝炎を発症してやっとの思いでペシャワールに戻った [旅のこと]

長い旅をしていた20代の頃のこと。
パキスタンのペシャワールには長いこと滞在していた。長居していたのは、僕にとっては居心地のいい、適当に古く、適当に雑然とした町だったからのように思う。(最近ペシャワールに行ったという友人に聞いたら、今も全く変わっていないとのことだった。「全く」を強調していた)
長居していた安宿でジャーナリストのM氏と出会うことになった。M氏はアフガニスタンとのパイプがあって、パイプというのはムジャヒディン側で、ペシャワールで暮らすアフガン難民やあっちとこっちを行き来するムジャヒディンたちにだいぶ顔が利いたようだった。(そういえば、M氏の紹介で知る人は知る田中光四郞さんが拳銃を構えている写真を撮らせてもらったことがあった。話しはそれるが、地雷を踏んでなくなった南条直子さんともこの安ホテルで話したことがあった)
そのM氏からアフガニスタンに取材に行かないかという誘いを受けた。もちろんお金をもらっての取材ではなく、ルートは手配してやるから撮ってきた写真で元を取って、アフガニスタンの現状を伝えて欲しい、ということだ。
僕の知っているアフガニスタンは、尊敬する写真家のひとりである東松照明の『泥の王国』という写真集に凝縮されていた。東松照明のあの視点はなんと言ったらいいのかわからないが、人も風景も暮らす町も、僕の胸には沁みる。(あるときアサヒカメラに載っていた桜の写真が目に入り「あ、東松さんの写真だ」と思って名前を見たら東松さんの名前があったときは嬉しかった)
好んで物騒なところに行きたいわけではないが、そんなアフガニスタンには興味があった。
それで、ムジャヒディンに同行してのアフガニスタン行きを決めた。
みぞれが降り始めた頃だった。
そのころからいまいち体調がよくなかった。風邪気味な感じで、出かけるまでには治さなければと思っていたが、治らないまま出発することになった。
アテンドしてくれるムジャヒディンがいて、彼とバスを乗り継いだりなどなどして、デポに着いた。デポというのは、武器庫というか補給基地というかそのようなもので、実際にはただの小屋にしか見えないが、そこにしばらく滞在することになった。諸般のタイミングをみてアフガニスタンに行くのだ。
デポはどの辺りにあるのか全くわからなかったが、パキスタンとアフガニスタンのほぼ国境あたりで、パキスタン側であったろうと思う。ムジャヒディンたちとそこでしばらく暮らすことになったわけだが、僕の体調は日に日に悪くなっていった。
尾籠な話しで申し訳ないが、ある朝大便をしたら、それが真っ白だった。そんな現実を見て、やっと風邪ではないと知った。
目も真っ黄色いことがわかった。疑いようもなく肝炎だった。このままここにいて治るのを待つか、ペシャワールに帰るか、を選択しなければならなかった。そりゃ、帰る方を選んだ。
帰るといってもひとりで帰ることができないので、最後のバスに乗るまではまた誰かの手を借りなければならない。
悪寒と脱力、最悪な日々だった。
途中までムジャヒディンにアテンドしてもらい、最後のバスを降りペシャワールに戻ってきた。
ひとり、前と同じ安宿にたどり着いたときには、疲れが噴出した。
しばらくバナナと水をとるだけで、薄いベットに張り付いていた。



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トルコのチャイ屋では僕は超能力者だった [旅のこと]



トルコでは、「地球の歩き方」には決して載ることはないだろう小さな町でもよくバスを降りた。
町のたたずまいや、どんなふうに人は生きているのだろうかと思い、いつもいくらかの期待を持ちながら降車したものだった。
明るいうちであれば、何はともあれチャイ屋を探して休む。
田舎の町に限らず、トルコではそこここにチャイ屋がある。トルコのチャイ(紅茶)は、ほとんどの場合小さなグラスのカップに砂糖の多い紅茶がでる。熱い紅茶を受け皿に注いで少し冷まして飲んだりもしていた。
チャイ屋にはたいがい正方形のテーブルがあり、それを囲んで人生の先輩たちがカードゲームをしている。全国的によくやっていたのはセブンブリッジのようなゲームだった。
僕はその隣の正方形にひとりで座り、チャイを飲みながら男たちをなんとなく見る。
ゲームが終わったタイミングで、エクスキューズを入れてちょっとだけカードを貸してもらう。
貸してもらったトランプをシャッフルして一人にカードを「一枚」引いてもらう。
我が輩がそれを当てる。トルコ語でたとえば「ダイヤの8!!」のようにもっともらしく言うと、それを見ていた男たちは「オッー!!」と驚き、歓声を上げる。
もう1回やってくれなどと言われるが、超能力だから1回やるだけでもものすごいパワーを使うからもうできないと言って丁重に断る。決してばれるといけないから、ではない。
男たちはゲームに戻り、僕は僕の正方形にもどりチャイの残りを飲む。

勘定してもらおうとレジにゆくと、店のおやじは手を後ろに組んで首を横に振る。
お代はいらないというのだ。
あそこの人たちが払ってくれた、と嬉しそうにさっきのテーブルを指さす。
男たちのテーブルに行ってお礼を言うと、男たちは口々に「凄かったぞ」「明日も来いよ」などといいながらこれまた嬉しそうにしている。
僕は曖昧な返事と曖昧な笑顔を浮かべて店を出る。明日はもういないと思いながら。





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